魔王様に溺愛されています!

うんとこどっこいしょ

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第七話 過去を越えて、君のもとへ(完)

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 それから数日が経った。
 春斗は以前よりも落ち着いた表情で、魔王城での暮らしを送っていた。
 バロンとの距離も少しずつ近づいていて、並んで歩いたり、同じ時間にお茶をしたりすることも増えている。

「……なんか、不思議ですね。俺、前よりずっとここに馴染んできてる気がします」

 中庭のベンチに座りながら、春斗がぽつりとこぼした。

「君がこの城にいてくれて俺は嬉しいよ」

 隣に座るバロンが、やわらかく微笑む。その視線は、春斗だけを見つめていた。

「ねえ、バロンさん……」

「ん?」

「……俺、もし過去を全部思い出しても、ここにいていいですか?」

 バロンは少しだけ目を見開き、それから穏やかな声で答えた。

「もちろんだ。君がここにいる限り、俺は何があっても君を歓迎する」

 その一言に、春斗の胸がじんわりと温かくなる。

*

 その夜も春斗は、夢の中で静かな空間にいた。
 白く霞んだ世界。水のように揺れる光が足元を照らし、風のない空間に彼だけが立っている。

 そこに──また、浮かび上がる一つの光景。

 明るい昼間。眩しいほどに晴れた空。
 制服を着た自分が、歩道を歩いていた。何も特別じゃない、ただの帰り道。
 だけど──ふと目の前が白くなる。車のライトだ。衝撃音だけ。痛みも何もない。

「……これが……俺の最後、だったんだ」

 春斗は自分のその姿を見つめながら、じわりと胸に広がる喪失感を受け止めていた。

(俺、気づかないうちに……終わってたんだな)

 怖い。認めたくなかった。でも──

「それでも、俺は生きてる。ここで、生きてるんだ」

 その言葉に呼応するように、空間がやさしく揺れた。

*

「う……ん……」

 まぶたの隙間から、朝の光が差し込む。
 目を開けると、ベッドのそばに椅子を置いて座っているバロンがいた。

「バロンさん……?」

「大丈夫か、春斗。ずっと苦しそうに寝ていた」

 春斗はゆっくりと上体を起こして小さく息を吐いた。

「夢を……見てました。……多分、俺が死んだ時のこと」

 バロンは驚きも否定もせず、ただ春斗の言葉を受け止めていた。

「怖かった。でも、はっきり思ったんです。俺……終わったんじゃない。ちゃんと、ここで生きてるんだって」

 そう言いながら、春斗は自分の手を見つめた。その手をバロンがそっと包み込む。

「その通りだ。君は、今を生きている」

「……うん。だから、ここにいたい。あなたのそばで、生きていきたい」

 バロンの表情が柔らかくほどける。
 それはまるで、長い夜を越えた朝のような、静かな安らぎだった。

「春斗。これから先、何があっても、君の隣には俺がいる」

 その言葉がどんな光よりもあたたかく胸に灯った。

*

 それからというもの、春斗とバロンの距離は、目に見えて近くなった。
 朝食の時間には隣の席に自然と座るようになり、廊下を歩けば肩が触れそうな距離を保ち、寒い日には同じ毛布を肩にかけながら中庭でのんびりと時間を過ごすようになった。

 そんなある日の午後。
 城の一室。暖炉の火が静かに揺れる中、春斗はバロンの私室で書物を眺めていた。

「うわ……これ、魔界の植物図鑑ですか? 絵がリアルすぎてちょっと怖いかも」

 春斗がページをめくりながら苦笑すると、後ろからバロンの声がした。

「面白いだろう?資料としてはとても貴重なんだが……君が怖がるとは思わなかったな」

「いや、怖いっていうか……このページのやつ、なんか動いてない!?ほら!目こっち向いた!」

 春斗が慌てて本を閉じた瞬間、ふいに背中越しに、バロンの手が肩に添えられた。

「大丈夫。危険なものじゃない」

「本当に?」

「ああ、発見した当時の動きを繰り返しているだけさ」

「えっ!それってかなりすごい事なんじゃ……」

「ふふ、君は本当に好奇心が旺盛だな」

 バロンは春斗の肩からそっと手を離すと、春斗の隣に腰を下ろした。その動きは自然で、まるでそこにいることが当然のようだった。

「この図鑑は、魔界で最も有名な探検家が記録したものだよ。魔力を封じ込めて、発見当時の姿や動きを再現できる仕組みなんだ」

「へぇ、そんな技術があるんだ」

 春斗は感心しつつ、閉じた本をそっと見つめる。少し怖かった気持ちも、バロンの落ち着いた声に和らいでいく。

「君が興味を持ってくれるなら、他にも色々見せたいものがある。魔界にも、美しいものはたくさんあるから」

「それって、俺がここにいてもいいってこと?」

 不意に漏れた春斗の言葉に、バロンの瞳が柔らかく揺れた。

「当たり前じゃないか。ずっとここにいてほしい」

 その言葉が、暖炉の火よりも温かく春斗の胸に灯った。

 この日から春斗の中で、ここが帰る場所なのかもしれないという気持ちが、ゆっくりと根を張りはじめた。

*

 夕暮れが近づくにつれて、窓の外の景色が橙に染まり、部屋の中にも柔らかな光が差し込んできた。春斗はふと顔を上げ、カーテン越しに見える空を見つめる。

「こっちの夕焼けって、ちょっと不思議な色してるよね。赤っていうより、紫っぽいというか」

「魔界の空は、魔力の流れによって色が変わるんだ。今日は穏やかな流れだから、きっと君にも優しく見えている」

「へぇ……なんか詩人みたいなこと言うんだね」

 春斗がそう茶化すと、バロンは少し困ったように笑った。

「本当にそう思ったんだ。君がここに来てから、空の色も前より穏やかになった気がする」

 春斗、一瞬だけ視線を逸らす。胸の奥が、くすぐったくて、でも少しだけ熱かった。

「そう言われると、ちょっと嬉しいかも」

 ぽつりと呟いた春斗の横顔を、バロンは黙って見つめた。手を伸ばせば届く距離。でも、触れたら簡単に壊してしまいそうで──

「春斗」

「ん?」

「今夜、星を見に行かないか?」

 春斗はバロンを見上げ、少しだけ目を丸くする。

「星?」

「ああ。魔界の空には、君の世界にはない星も多い。きっと驚くと思うよ」

「じゃあ行く、せっかくだし案内してよ。魔王様」

 からかうような口調に、バロンは微笑みを浮かべながら立ち上がった。

「喜んで。春斗のためなら何度だって案内しよう」

*

 夜の帳が下りるころ、春斗はバロンに連れられて、城の裏手にある小高い丘へと足を運んでいた。
 道中は魔石で照らされ、ほんのりとした光がふたりの足元を優しく包んでいる。

「城の裏にこんな場所があったなんて知らなかった」

「ふふ、特別な人しか連れてこないからな」

「またそうやって……口がうまいんだから」

 春斗は照れくさそうに笑いながら、手をポケットに入れる。肌寒い夜風が頬をなでる中、丘の頂上にたどり着いた瞬間──
 そこには、言葉を失うほどの光景が広がっていた。

 漆黒の夜空いっぱいに、宝石をちりばめたような星々。中には、ゆっくりと軌道を描いて動いている星や、虹色に瞬く星もあって、まるで空そのものが生きているようだった。

「……すごい……本当に、こんなの見たことない……」

 春斗がぽつりと呟くと、バロンは彼の隣に静かに座り、空を見上げた。

「この星はレヴェナ。感情に反応して色が変わる星だよ。今は──」

「ピンク、かな?てことは、喜んでる?」

「もしかしたら、君の気持ちを映しているのかもしれないな」

「え……」

 不意に視線を感じて、春斗が横を向くと、バロンがまっすぐ自分を見ていた。夜空を背景にした彼の瞳は、どこまでも優しく、そしてどこか切なげで……。

「君といると時間が止まってほしいと思うよ、春斗」

 胸がドクンと鳴った。
 何かを返そうとした春斗の唇を、そっと夜風がさらっていく。言葉が出ない。
 そして、気づけばバロンの手が、そっと春斗の手に重なっていた。

「バロンさんの手、あったかいね」

「春斗こそ」

 ふたりの手が絡まると、空の星たちがさらに強く輝いた。
 幸せだなぁ。春斗は胸いっぱいに広がる感情に頬を緩ませた。
 少しだけの流れる沈黙。けれどそれは決して気まずいものではなく、どこか心地よい余韻のようだった。
 春斗はそっと目を閉じて、バロンの手の温もりに意識を集中させる。冷たい夜の中で、それはまるで春の陽だまりのように、やさしくて、安心できる。
 ──この人のそばにいたい。
 そんな想いが、言葉にならないまま胸の奥で静かに広がっていく。

「ねえ、バロンさん」

「ん?どうした」

「……俺、まだはっきりとは言えないけど……でも、こんな風に思えるのは、きっとあなたのおかげなんだと思う」

 春斗の声は少しだけ震えていた。でも、その瞳はまっすぐバロンを見ていた。

「俺……前の世界で何をしてたか、少しずつ思い出してる。楽しかったことも、苦しかったことも。でも、ここでの時間がそれを全部包んでくれるような気がして……」

 バロンは春斗の言葉を遮らず、ただ静かに見守っていた。

「ここでの毎日が、俺の中に根を張っていく感じがしてるんだ。だから、もっと……知りたい。魔界のことも、バロンさんのことも、自分の気持ちも……」

「春斗」

 バロンがそっと春斗の手を引き寄せる。ほんの少しだけ近づいて、その額をそっと春斗の額に重ねた。

「俺は、君が君自身を見つける旅を、ずっと隣で見守っていたい。どんな姿でも、どんな気持ちでも、君が君でいてくれる限り……俺は春斗の傍にいたいんだ」

 その距離に、春斗の鼓動が跳ねる。目の前のぬくもりに、何度も心が揺れる。

「……バロンさん、ずるいよ。そんなこと言われたら……」

 自然と涙が滲む。だけど、それは悲しさなんかじゃなくて──

「ありがとう。俺、ここにいていいんだって、今ちゃんと思えた」

 ふたりの額がそっと離れ、目が合う。その瞬間、世界がそっと静まった気がした。
 そして、バロンが春斗の頬に手を添え、ゆっくりと唇を近づける。
 春斗は目を閉じた。拒む理由なんてもうなかった。
 触れた唇は、やさしくて、やわらかくて、どこまでもあたたかかった。
 その夜、星々は眠ることなく空に輝き続けた。
 まるで、二人のこれからを祝福するように──。

第一章、完結
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