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第一章 坊っちゃんは執事をおとしたい
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【プロローグ】
「坊ちゃま、お時間です」
耳元でささやかれた声は、まるで水面を揺らす風のように静かで、冷たかった。しかしどんなに寝ぼけていても、その声を聞けば自動的に目が覚めてしまう。
「……まだ朝の気配すらないんだが?」
「すでに陽は昇っております。カーテンを開けますよ」
その宣言と同時に、重厚な遮光カーテンがスッと引かれた。眩しすぎる朝の光が容赦なく降り注ぎ、寝台に横たわる僕──フィリップ・アルセインは顔をしかめた。
「君さ……もうちょっとこう、あるでしょ。僕の枕元で微笑みながら優しくおはようって言うとか……」
「紅茶を淹れております。お口をゆすいでからお越しください」
一切の感情を感じさせない声と表情。無駄がなく、完璧すぎる所作。
これが我が家の執事、ノア・グレイス。父の代から仕えているというが、なぜか年齢不詳、表情不変、人間味ゼロ。
そんな彼に、僕は──ここ数年、恋をしている。
「いつかその完璧な仮面を剥がしてやる……」
「何かおっしゃいましたか、坊ちゃん?」
「な、なんでもない!」
そう。これは、若き坊ちゃんが完璧すぎる執事を落とそうとする物語──
第1話【新しい朝と冷たい紅茶】
ノアが去ったあとの寝室には、微かな紅茶の香りと、軽く開いた窓から差し込む朝の風が残った。
(完璧すぎるんだよなぁ、ほんと……)
ため息をひとつ吐いて、フィリップはベッドから起き上がった。
寝癖がついたままの赤茶の髪をくしゃくしゃと掻き、カーテンの隙間から外を眺める。
今日も庭の手入れは完璧。花壇の色合いすら計算されたかのようだ。もちろん、これらは全てノアの指示によるものだった。
(執事なのに……庭の設計も、料理も、着付けも完璧。なんなら剣の腕もあるとかおかしいだろ。人間か?)
ぶつぶつと文句を言いながら洗面台に向かい、口をゆすぎ、軽く顔を洗う。
「……でもなぁ、たまにはあの無表情を崩して、ちょっとでも感情を出してくれたら可愛いんだけどな……」
誰に聞かせるでもなくそう呟いて、フィリップはやや拗ねたように眉をひそめた。
階下の食堂へ降りると、ノアはすでに紅茶をテーブルの上に並べていた。姿勢はまっすぐ。片手は背中に添えられ、まるで舞台の上のような立ち姿。朝の紅茶のあとの朝食すら用意が完璧で、フィリップは思わず尋ねた。
「いつも思うけどさ、どうやってこんなに早く準備できるの……?君って本当に人間……?」
「さあ、どうでしょう」
「濁すなよ、怖い」
フィリップは席につき、目の前の紅茶をひとくち口に含んだ。温度は完璧、香りも申し分なし。けど、どこか冷たい気がするのは……きっと気のせいじゃない。
「……ねぇ、ノア」
「はい」
「たまには、『おはよう』って笑顔で言ってくれてもいいんじゃないか?」
ノアはわずかに瞬きしただけで、何も答えない。
「……やっぱり、そう簡単には笑わないか」
「坊っちゃんが寝坊をせず、自らの意志で六時に起きたら考えます」
「ハードル高っ!」
口を尖らせるフィリップの顔を、ノアがじぃっと見つめる。いつもと変わらない無表情、……のはずだったが……
(……あれ、いま少し口元がちょっとだけ動かなかったか?)
確証はないけれど、口角が心なしか上がっているような気がした。
「……よし。じゃあ、明日から早起きチャレンジしてやろうじゃないの」
「どうぞ」
その一言で終わる会話。でも、フィリップの胸の奥は、なぜかほんのりあたたかかった。
第2話【アルセイン伯爵家の屋敷】
アルセイン伯爵家の屋敷は、郊外の丘の上に建っていた。
森に囲まれ、遠くには湖がきらめく。季節によって風の匂いが変わる、美しい場所だ。
重厚な鉄の門を抜けると、左右対称の花壇と石畳が続き、堂々とした白亜の屋敷が迎えてくれる。屋根は濃い青灰色。大理石の柱に囲まれた玄関。正面の大窓からは、午後の光がふわりと漏れている。だが──
「やっぱ広すぎるんだよ、この家……!」
書斎でソファに沈んだフィリップが、ぐてぇっと溶けた声で叫ぶ。
「この部屋だけで、一般家庭の何倍あると思ってるの?」
「使用人が数十人おりますので、維持は可能です」
「そういうことじゃなくてさ、生活感ってものがないんだよ!こんなに広いのに、落ち着ける場所が限られてるって、おかしいと思わない!?」
ノアは、静かにカップを差し出した。香り高いアールグレイ。ちゃんと蜂蜜入り。フィリップの" ぐちぐち "用だ。
「では、坊っちゃんにとって落ち着ける場所とはどちらですか」
「んー……」
フィリップはカップを受け取りながら、ふと思案する。
「暖炉の前の椅子と……東の塔の読書室と……あ、あとあそこの温室かな!」
「屋敷裏にある薔薇の温室ですね。……ふむ、共通点があります」
「え?」
「"人の気配が少ない"場所です」
「……うわ、言われてみれば……」
ノアはカップの縁を拭きながら続けた。
「伯爵家の屋敷は美しく飾られてこそ意味を持ちます。ですが坊っちゃんが本当に安らぐのは、飾られていない場所のようですね」
「……じゃあ、ノアの落ち着ける場所は?」
ノアは少しだけ首を傾けた。
「私は基本的に坊っちゃんの傍におりますので」
「はあ?回答になってなくないか?」
(それとも僕の世話で落ち着ける時間と場所がないって……そういうこと?)
無性に腹が立って、それと同時に悲しみがやってくる。
「本望、ということですよ」
「え……それって……」
フィリップの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「不服ですがね」
「な!なんで不服なんだよ!君だってちょっと嬉しそうだろ」
「おやこれは大変だ、目医者の予約をしなくては……」
「おい!」
そんなふうに今日もまた、アルセイン伯爵家の午後は穏やかに過ぎていくのだった。
「坊ちゃま、お時間です」
耳元でささやかれた声は、まるで水面を揺らす風のように静かで、冷たかった。しかしどんなに寝ぼけていても、その声を聞けば自動的に目が覚めてしまう。
「……まだ朝の気配すらないんだが?」
「すでに陽は昇っております。カーテンを開けますよ」
その宣言と同時に、重厚な遮光カーテンがスッと引かれた。眩しすぎる朝の光が容赦なく降り注ぎ、寝台に横たわる僕──フィリップ・アルセインは顔をしかめた。
「君さ……もうちょっとこう、あるでしょ。僕の枕元で微笑みながら優しくおはようって言うとか……」
「紅茶を淹れております。お口をゆすいでからお越しください」
一切の感情を感じさせない声と表情。無駄がなく、完璧すぎる所作。
これが我が家の執事、ノア・グレイス。父の代から仕えているというが、なぜか年齢不詳、表情不変、人間味ゼロ。
そんな彼に、僕は──ここ数年、恋をしている。
「いつかその完璧な仮面を剥がしてやる……」
「何かおっしゃいましたか、坊ちゃん?」
「な、なんでもない!」
そう。これは、若き坊ちゃんが完璧すぎる執事を落とそうとする物語──
第1話【新しい朝と冷たい紅茶】
ノアが去ったあとの寝室には、微かな紅茶の香りと、軽く開いた窓から差し込む朝の風が残った。
(完璧すぎるんだよなぁ、ほんと……)
ため息をひとつ吐いて、フィリップはベッドから起き上がった。
寝癖がついたままの赤茶の髪をくしゃくしゃと掻き、カーテンの隙間から外を眺める。
今日も庭の手入れは完璧。花壇の色合いすら計算されたかのようだ。もちろん、これらは全てノアの指示によるものだった。
(執事なのに……庭の設計も、料理も、着付けも完璧。なんなら剣の腕もあるとかおかしいだろ。人間か?)
ぶつぶつと文句を言いながら洗面台に向かい、口をゆすぎ、軽く顔を洗う。
「……でもなぁ、たまにはあの無表情を崩して、ちょっとでも感情を出してくれたら可愛いんだけどな……」
誰に聞かせるでもなくそう呟いて、フィリップはやや拗ねたように眉をひそめた。
階下の食堂へ降りると、ノアはすでに紅茶をテーブルの上に並べていた。姿勢はまっすぐ。片手は背中に添えられ、まるで舞台の上のような立ち姿。朝の紅茶のあとの朝食すら用意が完璧で、フィリップは思わず尋ねた。
「いつも思うけどさ、どうやってこんなに早く準備できるの……?君って本当に人間……?」
「さあ、どうでしょう」
「濁すなよ、怖い」
フィリップは席につき、目の前の紅茶をひとくち口に含んだ。温度は完璧、香りも申し分なし。けど、どこか冷たい気がするのは……きっと気のせいじゃない。
「……ねぇ、ノア」
「はい」
「たまには、『おはよう』って笑顔で言ってくれてもいいんじゃないか?」
ノアはわずかに瞬きしただけで、何も答えない。
「……やっぱり、そう簡単には笑わないか」
「坊っちゃんが寝坊をせず、自らの意志で六時に起きたら考えます」
「ハードル高っ!」
口を尖らせるフィリップの顔を、ノアがじぃっと見つめる。いつもと変わらない無表情、……のはずだったが……
(……あれ、いま少し口元がちょっとだけ動かなかったか?)
確証はないけれど、口角が心なしか上がっているような気がした。
「……よし。じゃあ、明日から早起きチャレンジしてやろうじゃないの」
「どうぞ」
その一言で終わる会話。でも、フィリップの胸の奥は、なぜかほんのりあたたかかった。
第2話【アルセイン伯爵家の屋敷】
アルセイン伯爵家の屋敷は、郊外の丘の上に建っていた。
森に囲まれ、遠くには湖がきらめく。季節によって風の匂いが変わる、美しい場所だ。
重厚な鉄の門を抜けると、左右対称の花壇と石畳が続き、堂々とした白亜の屋敷が迎えてくれる。屋根は濃い青灰色。大理石の柱に囲まれた玄関。正面の大窓からは、午後の光がふわりと漏れている。だが──
「やっぱ広すぎるんだよ、この家……!」
書斎でソファに沈んだフィリップが、ぐてぇっと溶けた声で叫ぶ。
「この部屋だけで、一般家庭の何倍あると思ってるの?」
「使用人が数十人おりますので、維持は可能です」
「そういうことじゃなくてさ、生活感ってものがないんだよ!こんなに広いのに、落ち着ける場所が限られてるって、おかしいと思わない!?」
ノアは、静かにカップを差し出した。香り高いアールグレイ。ちゃんと蜂蜜入り。フィリップの" ぐちぐち "用だ。
「では、坊っちゃんにとって落ち着ける場所とはどちらですか」
「んー……」
フィリップはカップを受け取りながら、ふと思案する。
「暖炉の前の椅子と……東の塔の読書室と……あ、あとあそこの温室かな!」
「屋敷裏にある薔薇の温室ですね。……ふむ、共通点があります」
「え?」
「"人の気配が少ない"場所です」
「……うわ、言われてみれば……」
ノアはカップの縁を拭きながら続けた。
「伯爵家の屋敷は美しく飾られてこそ意味を持ちます。ですが坊っちゃんが本当に安らぐのは、飾られていない場所のようですね」
「……じゃあ、ノアの落ち着ける場所は?」
ノアは少しだけ首を傾けた。
「私は基本的に坊っちゃんの傍におりますので」
「はあ?回答になってなくないか?」
(それとも僕の世話で落ち着ける時間と場所がないって……そういうこと?)
無性に腹が立って、それと同時に悲しみがやってくる。
「本望、ということですよ」
「え……それって……」
フィリップの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「不服ですがね」
「な!なんで不服なんだよ!君だってちょっと嬉しそうだろ」
「おやこれは大変だ、目医者の予約をしなくては……」
「おい!」
そんなふうに今日もまた、アルセイン伯爵家の午後は穏やかに過ぎていくのだった。
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