坊っちゃんは執事をおとしたい

うんとこどっこいしょ

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第二章 思い出とレッスンと薔薇

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第3話【マントルピースと火の気配】

 夕食後。食後の紅茶を片手に、フィリップは暖炉の前の椅子に身を沈めていた。
 ぱち、ぱち、と静かに木がはぜる音。
 部屋は少し冷え込んでいたけれど、暖炉に火が灯っているだけで、空気はどこまでも柔らかく心地よい。

「ねぇノア。マントルピースって、意味知ってる?」

「暖炉の上部構造のことです。棚のように装飾されていることも多く、飾り棚としても使用されます」

「……うん、そういうのじゃなくてさ。もっと……ロマン的な意味で」

 ノアは首をわずかに傾げた。その仕草だけでも、妙に品があるのが腹立たしい。

「ロマン的な意味、ですか」

「うん。例えば……誰かと、こうして暖炉の前で並んで座って、ちょっと話すとか。飾ってある写真を一緒に見るとか。そういう時間を持つ場所っていうか……」

 言いながら、マントルピースの上に目をやる。古びた銀の写真立て。祖父母の肖像画。小さなガラスの花瓶。

「昔からある家ってさ、マントルピースに歴史を飾るんだよね。家族とか、記憶とか、思い出とか」

 ノアは一歩、フィリップの隣へと歩み寄った。すぐに座るでもなく、ただそこに立って、写真立てを見つめる。

「それなら……この場所も、坊っちゃんの記憶の一部になるでしょうか」

「……え?」

「こうして、貴方とお話しをしている時間も」

 フィリップは手に持っていたティーカップを置いた。心なしか表情が穏やかに見える。

「……ノア、今のって……ちょっとだけ優しさ混じってた?」

「気のせいです」

 すぐに表情はいつも通りの無機質なものへ戻っていた。だけど確かにフィリップには、聞こえた気がした。音がない燃える火のような、ぬくもりのある言葉が。

「……じゃあ、もっと此処で話そうか。俺の記憶になる時間、増やしたいし」

「ふむ、坊っちゃんの寝る時間がまた遅くなりますね」

「それでもいいよ」

 そう言ってフィリップはまた紅茶に口をつけた。

「坊っちゃんが良くても私が困るのですが」

 ノアの言葉にフィリップはくすくすと笑った。
 マントルピースの上では、古い時計が静かに時を刻んでいた。



第4話【レッスンと、白い手袋】

「今日は……マナーのレッスンだっけ」

「はい、坊っちゃん、手を出してください」

 ノアの声はいつもと変わらず淡々としていたけれど、フィリップの方はどこかそわそわしていた。
 午後の応接間。テーブルの上には銀食器がずらりと並び、窓からはやわらかい光が差し込んでいる。

「……こういうの、今さらって感じしない?」

「十八歳の誕生会は、名のある貴族も招かれます。どんな場でも恥をかかせないのが私の仕事です」

「……はいはい、わかってますよーだ」

 小さく舌を出しながらも、フィリップはノアの指示通りに右手を差し出した。その手に、ノアの手袋に包まれた手が添えられる。

「ナイフとフォークの持ち方、もう一度確認しましょう。坊っちゃんは緊張すると手首がすぐ固くなりますので」

「そ、それは君のせいで……っ」

「はい?」

「な、なんでもない……」

 フィリップはノアがマナーのレッスンをする時の距離感にいまだ慣れない。
 白い手袋越しに触れられる手。視線を合わせないようにしているのに、たまにふっと目が合ってドキドキして妙に落ち着かない──

「はぁ……集中なさってください、坊っちゃん」

「無理」

「落ち着いて。手の動きを覚えるにはまずは形からです。こちらを見てください」

 ノアはフィリップの手を自分の手の中に収めるようにして、ゆっくりと分かりやすく、角度や指の位置を調整した。

「こうして、自分の形を相手に見せるんです。マナーは演技の一部ですから」

「……君こそ完璧に演じてるよな……。いつになったら素でいてくれるんだか」

「今はレッスン中ですよ」

「……分かったよ。じゃあ僕が完璧にマナーを身に付けたら、僕だけに笑顔を見せてくれる?」

 ノアの指が一瞬止まった。

「え、ちょっと今、耳赤くない?」

「気のせいでは?レッスンを再開しますよ」

「ふーん?」

 フィリップはしてやったり顔でノアを盗み見る。
 無表情の執事の意外な反応を見れたフィリップは、今日のマナーレッスンはいつも以上に張り切っていたのだった。



第5話【薔薇とキス】

 伯爵家の広い屋敷の裏手には、小さな温室がある。代々の当主が趣味で育ててきた薔薇が咲き誇る、フィリップが落ち着ける場所。そして、屋敷の中でも数少ないひとりになれる場所でもあった。

 今日も彼はそこで、見様見真似の剪定に励んでいた。手には小ぶりな剪定ばさみ、口元には少し得意げな笑み。けれど──

「……また勝手に薔薇の剪定をなさったのですね、坊っちゃん」

 背後から聞こえた静かな声に、フィリップはぴくりと肩を動かした。振り返れば執事のノアがこちらをじっと見つめていた。

「勝手とは失礼な。ちゃんと考えがあってやってるんだよ、僕なりに」

「お怪我などはしていませんか?」

「ん?あー、ちょっと棘が刺さったかな」

 そう言いつつ彼の視線はノアの手に向けられていた。白手袋の上からでも違和感に気がついたのだ。

「君のほうこそ、血が滲んでる。手袋取って」

「ああこれですか、さっき入り口で薔薇に触れたんです、大したことはないですよ」

「いいから早く」

「……」

 ノアは無言で従い、右手の手袋を外した。

「じっとしてね」

 フィリップはポケットから絆創膏を出すと、ノアの指先に貼り付けた。

「ありがとうございます」

「いいえ」

 絆創膏を貼り付けた"完璧じゃない執事ノア"を、フィリップは満足げに笑った。

「なんです?その笑顔」

「別に?ノアも赤い血の通う人間なんだと思ってさ」

「……私は人間ですよ」

「じゃあその証拠にもっと人間らしいところ見せてよ」

「人間らしい……ですか。困りましたね」

 そう言いながらもノアの表情は困ったようには微塵も見えない。

「笑ってみて、こう、可愛くさ」

 にぃっとフィリップが歯を見せて笑う。

「それは命令でしょうか」

「うーん、お願いってことにしておこうかな」

 フフとフィリップが鼻を鳴らすと、ノアはふと時計を見た。

「さあ、そろそろ家庭教師がくる時間ですよ」

「えー、もうそんな時間?まだ此処にいたい」

「お気持ちはわかりますが」

 ノアがそう言いかけたとき、フィリップは急にぐっと距離を詰めた。ノアの胸元に顔を寄せるようにして、彼の目を見上げる。

「……本当に行かなくちゃだめ?」

「坊っちゃん、そういうことは」

 ノアの瞳がわずかに揺れる。長年仕えてきた中で、フィリップがこうしてスキンシップをとることは珍しい。
 ふたりの間に危ない雰囲気が漂う。

「いけません」

「なんで。ただノアともう少し一緒にいたいだけなのに」

 その一言でノアはわずかに目を見開き、そしてそっと伏せた。もう我慢できない、まるでそう言わんばかりに、フィリップの頬にそっと手を伸ばし、優しく彼に触れる。

「本当に……困ったお方ですね」

「ごめん、だって」

 言葉の続きは、ノアの唇が重なる音にかき消された。一瞬、時が止まったかのような静寂。けれど棘のある薔薇の間で交わされたそのキスは、どこまでも柔らかく、どこまでも甘かった。
 離れたとき、フィリップの顔は少し赤く染まっていた。

「……ノア、いまのは?」

「貴方がもっと人間らしい私を望んだので」

「……仕方なく……したってこと?」

「いいえ、私がしたかったのです」

「そ!それって……っ!」

「申し訳ありません。坊っちゃんに抱いてはいけない感情でしたね。忘れてください」

「やっやだ!忘れない!……ねぇ続きは?続きもして欲しい……っ」

 フィリップの熱に潤んだ瞳がノアを見つめる。ノアもまた同じような瞳でフィリップを見下ろしていた。

「それはなりません。さあもう戻りましょう」

 そう言うと、ノアは手袋をもう片方の手に着け直し、何事もなかったかのように一礼してから温室を後にした。
 残されたフィリップは、薔薇の香りに包まれたまま、唇に手を当てる。

「……ノアも僕と同じ気持ち……?」
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