坊っちゃんは執事をおとしたい

うんとこどっこいしょ

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第三章 ステップは心のままに、

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第6話【ステップは心のままに】

「坊っちゃん、今日は午後からダンスのレッスンが入っております」

「ダンス?なんのために?」

 ノアの言葉にフィリップは眉をひそめた。
 外で体を動かすのは嫌いではないが、踊るとなると話は別だ。

「来月の社交会にて、許嫁との初ダンスが予定されております」

「……は?」

 フォークを落としかけた。

「いや、待って。許嫁って誰の?僕の?」

「はい。アルセイン伯爵家の次期当主として、正式な顔合わせの一環です」

「誰も僕に了承とってないんだが?」

「了承を得る義務は、残念ながらなかったようで」

 ノアはさらりと言ってのけた。いつものことだが、今に限ってはその冷静さが妙に引っかかった。

「君、平気なの?僕が誰かと結婚するかもしれないってことだよ」

「坊っちゃんが誰と結婚されようと、私は執事として仕えるだけです」

 何の躊躇もなく、即答。まるで胸の内に一滴の揺れもないような声音に、フィリップはぐっと言葉を詰まらせた。

*

「ストップ!」

 レッスン室にフィリップの声が響く。

「やっぱり君じゃ無理」

 フィリップは講師を軽く手で制した。

「僕のステップに合わせられるのはノアしかいないから」

 講師が目を丸くして去るのを確認してから、フィリップはノアの前に立った。

「ほら、手を出して。どうせなら、君の完璧なリードを教えてくれよ」

「坊っちゃん、わがままはよしてください」

「冗談じゃない!どうして僕が他の誰かとなんか……。君の手が一番しっくりくるんだ、ねぇお願い」

 ノアは数秒の沈黙のあと、しぶしぶ片手を差し出した。

 曲が流れ始める。
 二人のステップは息もピッタリ。おそろしく滑らかで寸分の狂いもない。

「ノア」

「はい」

「僕は胸が痛い」

「……」

 ノアの足が、わずかに止まりかけた。

「僕が他の誰かと踊るところを見て君は平気なの?」

「坊っちゃん……」

「ちゃんと答えて。これは命令でも冗談でもない」

 ノアは目を伏せた。そして──

「……平気ではありませんよ」

「なら、踊って。僕と、もっと」

 フィリップがすっと距離を詰めた。曲の終わりが近づいても、彼の手はノアの肩から離れなかった。

「ダンスなんて……許嫁なんて、どうでもいい」

 苦しそうな表情で、フィリップは吐き出すように言った。
 曲が止まり、レッスン室には沈黙が訪れる。
 フィリップはノアの顔を見上げハッとした。

「わ、悪い……ノア。君を困らせたいわけじゃないんだ、忘れてくれ」

 そう言うとレッスン室を出て行った。



第7話【すれ違いと本音】

 ノアはレッスン室の中央に立ち尽くしていた。静寂が重くのしかかる中、握っていた手の余韻がまだ掌に残っている。

「……どうして、あんな顔をするのです、坊っちゃん」

 ぽつりと呟く。
 フィリップの苦しげな表情が脳裏に焼き付いて離れない。



 夕食の席にはフィリップの姿はなかった。

「本日は、ご気分が優れないとのことでお部屋で取られるそうです」

 メイドの報告にノアは静かに頷き、自室に戻ろうとしたが、その足は思わずフィリップの部屋の前で止まっていた。

 扉をノックしようとして、拳を止める。執事として入る理由はある。だが、それ以上の想いが今の自分にはある気がして、躊躇った。そのとき、内側から小さな声が漏れた。

「……ノア……こんなに、好きなのに……」

 ノアの目が見開かれた。無意識に扉に手をかける。

「坊っちゃん」

 静かに声をかけると、中からガタッと音がした。

「ノア!? なんで……」

「夕食にお姿がなかったので、気になりまして。失礼いたしました」

「……ううん、来てくれて、嬉しい」

 フィリップの声はかすれていた。ノアはためらいながらも中へ入り、机に肘をついて俯いているフィリップの傍に立つ。暫しの沈黙──そして、

「本音を申し上げれば、坊っちゃんが他の誰かと踊る姿を想像するだけで……胸が苦しくなります」

 フィリップが顔を上げた。少しだけ潤んだ目で。

「じゃあ、お願いがある」

「なんでしょう」

「社交会のダンス、本番直前まで、君が練習相手をしてよ。誰よりも僕のステップを知ってる君と踊って、自信をつけたい。……それに、できるだけ長く君と一緒に踊ってたいんだ」

 ノアは目尻を下げ、わずかに笑った。

「はい、坊っちゃん。私もそう願っておりました」

 やがて、穏やかな夜がふたりを包み込む。誰かと結ばれる未来よりも、いま隣にいる存在を互いに愛おしく思いながら──。
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