若頭、初恋を掴む

うんとこどっこいしょ

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第二話 安堵と不安

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 目を覚ました誠也は、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
 薄暗い部屋。窓の外には夜明け前の蒼い光が滲み、街の明かりがまだ残っている。

 ──翔吾は?

 隣に座っていたはずの彼の姿はなく、静かな部屋に自分の呼吸音だけが響いていた。
 何故か嫌な予感がした。

 コン、コン。

「っ!」

 突然のノックに肩が跳ね上がった。
 息を詰めてドアを見つめる。翔吾だろうか?

 恐る恐る立ち上がり、足音を忍ばせてドアへ近づく。だがすぐに、複数の低い声が混ざって聞こえてきた。

「……確かにここだったんだな?」
「はい、二人で入っていくのを見ました。もう帰ったんでしょうか」
「……こじ開けるか」

 背筋が凍りつく。
 見知らぬ男たちの穏やかでない会話に、心臓がパンクしそうなほどに暴れだす。

 ──どうしよう、どうしたらいい……。

 咄嗟に視線を窓へ向ける。
 そのとき、コン、コン、とガラスを叩く音がした。

「……っ!」

 驚いて喉が鳴る。振り返れば、ベランダに人影が立っていた。外気に揺れる黒いシルエット──。
 光の乏しい中で見えたのは、鋭い眼差し。翔吾だった。
 彼は窓越しに、口の形だけで告げる。

 ──開けろ。

「わ、分かった!」

 慌てて鍵を開けると翔吾は窓を開けて素早く身を乗り出してきた。
 その直後、ガッ、ガッ、とドアの向こうで硬い音が響く。男たちが無理やりこじ開けようとしているのだろう。
 翔吾は誠也の腕を掴んだ。

「誠也、こっちだ」

 息を呑む暇もなく、翔吾はバルコニーに設置された避難ハッチを持ち上げる。初めて見るそれに釘付けになっていると、ストッパーを外し梯子を下ろした翔吾が「下に降りるぞ」と冷静な声で言った。

「気をつけろ」

 有無を言わせぬ声に背中を押され、誠也は恐怖に震えながら鉄の梯子を下りる。
 こんな風に何かから逃げるのは人生で二度目だった。
 指先が冷たくなり、足がもつれそうになる。それでも下の階へと辿り着くと、翔吾もすぐ後を追って降りてきた。

 その瞬間、上の部屋でドアが開く音が響く。「どこだ!」「隠れても無駄だぞ」「おい、銃は出すな」と声が交錯する。

「行くぞ」

 避難ハッチの蓋を閉めると、下の階の窓を叩く。驚いて出てきた宿泊客に「上で火事だ」と嘘を吐き部屋を走り抜けて廊下へ飛び出す。

「巻き込んで悪かったな。お前はホテルを出て真っすぐ家に帰れ。分かったな」
「う、うん、でも翔吾は?」

 平気なのか、と聞くよりも早く翔吾はフッと笑って「大丈夫、また今度ゆっくり会おう」と誠也の背中を押した。

「ああそうだ、これ」

 やる、と言って渡されたのは翔吾のジャケットだった。

「え?」
「外は寒いぞ」
「あ、ありがとう」
「じゃあな」

 その一言とともに、翔吾は背を向けた。
 堂々とした背中は、残された誠也を遠ざけるようで、ただただ大きかった。

 誠也はホテルを出ると、夜明け前の肌寒さにぶるっと震えた。
 彼のジャケットを肩にかける。

「でかいな……」

 呟いた声は誰にも聞かれることなく消えていく。
 昇りゆく朝日が、帰り道を淡く染めていた。

*

 カタカタ──。
 ノートパソコンのキーを叩く音が、静かな部屋に小さく響いていた。

 誠也は、机の上に散らばるプロット用紙を眺めながら、鉛筆を指先でくるくると回した。
 書いているのはミステリー。殺人の動機とトリックはすでに固まっている。けれど、どうしても人の心の部分が筆に乗らなかった。

 ──あの夜から、何を書いても上滑りしている気がする。

 視線が自然と部屋の隅へ向かう。
 そこには、翔吾から渡された黒のジャケットがハンガーに掛けられていた。
 触れると、まだどこかに彼の体温が残っているような気がした。
 あのときの声、手の強さ、目の奥に宿っていた鋭さ──全部が頭にこびりついて離れない。

 ──どうしてあんな世界にいるんだろう。翔吾が、あの夜何をしていたのか。聞きたくても、聞けなかった。

 ぼんやりとジャケットを見つめていると、突然、携帯の着信音が鳴り響いた。

「……うわっ」

 慌てて手を伸ばし、通話ボタンを押す。

『もしもし、誠也くん? 編集の藤村です。原稿、進んでる?』

「あ、はい……ぼちぼちと」

『ぼちぼちって言葉ほど信用できないものはないよ?締切、来週だからね?』

「はは……わかってます」

 苦笑しながら返す。
 この声を聞くのも、あの夜以来だった。藤村は小山内の担当編集でもあり、誠也が弟子を辞めることになった経緯を、どこまで知っているのか気になった。

「あの、藤村さん……小山内先生って──」

 口を開きかけたが、次の瞬間、相手の声がかぶさった。

『あーごめん、今から会議。とにかく遅れないようにね。君の新作、楽しみにしてるから』

「あ、はい……ありがとうございます」

 通話が切れ、部屋に静寂が戻る。
 誠也はしばらく携帯を見つめたまま、ため息をついた。

 机の上の画面には、途中で止まったままの原稿が映っている。
 そこに書かれていた一文──

 『彼の残した痕跡は、まだこの部屋にある。』

 不意に、翔吾の大きな背中が脳裏に蘇る。
 胸の奥がざわつき、誠也は思わずジャケットの方へと視線を戻した。
 まるでそれが、何かを告げようとしているように見えた。
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