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2日目
雷鳴
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真夜中、どこか村の中。僕と妹が捕まった。
赤獅子の兵士達の不快な笑い声が聞こえてくる。
泣き喚く妹は最初に銃で撃たれて処刑された。
その刹那、とてつもない咆哮が波動し、僕は意識を失った。
朝、目が覚めた。周囲には兵士達の残骸があった。
妹の亡骸はどこかへ消えてしまった。
■8番車両 自室
夜半、闇の中。なにも見えぬこの狭い室内、このベッドの感触でかろうじて自室である事が分かった。窓ががらがらと鳴っている。薄闇の外は霞で覆われ、氷の礫が荒れ狂う。それらは窓を猛打し続けていた。時折雷雲は唸り、さながら死の獣が窓を喰い破ろうとしているかのようだった。
これはまだ夢の中なのか?……いや違う。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
ふいに雷が明滅し、部屋が一瞬だけ照らされる。
その一瞬、窓に黒い影が映ったような気がした。……誰かがこちらを見ているのか?
そっと立ち上がり、窓の方へ向かう。しかしそこには荒れ狂う礫が窓を濡らしているばかりで、他には何もなかった。
明かりをつける。時計を見れば、深夜になっていた。今夜ラウンジで落ち合う話を聞いていた。もうその頃合いだろうか。
カバンを手に取り、中から携帯ナイフを取り出した。
もし何かあった時のためにポケットへ忍ばせる。
そっと部屋を出た。
◾️4番車両 ラウンジ
ラウンジには昨日のバーテンダーが暇そうに立ち尽くしている以外、誰もいなかった。聞いていた話とは違う。まだその頃合いではないのかもしれない。スツールに座って時間が過ぎるのを待つ事にした。
「いらっしゃいませ、ルキ様。」
バーテンダーが話しかけてくる。
「こんばんは、今日は誰もいないんですね。この時間はいつもこんな感じなんでしょうか?」
そう言うと彼はため息をつく。
「いえ……ルキ様はブルーの噂を聞きましたか?この列車にその感染者がいるのだとか。そのせいで乗客達は閉じこもっているのです。オーナー様もこの事に苦心しているようで、明日また見解を表明するそうですよ。」
「なるほど。何というか……あなたはそんな中でも働いているんですね。」
「まぁ仕事ですから。普段ならば寒さを凌ぐためにお酒を飲みにくるお客様で溢れるものですがねぇ……。ルキ様は一杯飲まれます?」
「ああ……お金が無いんです。迷惑な客ですみません。」
「いえ大丈夫ですよ。どうせ暇ですから。待ち合わせでしょうか?」
「はい。そんな所です。ところで誰かラウンジに来ましたか?」
「今日は誰も来ていませんねぇ。通り過ぎる客はちらほらおりましたが、こんな閑散としてるバーでは客も寄り付きませんよ。」
そう言ってバーテンダーは長嘆息を漏らす。
なんだか可哀想だが、やはり聞いていた話とは違った。今夜ここで何か話があるんじゃなかったのだろうか。
ふいに雷鳴の音が聞こえてくる。
「この辺りはよく吹雪くんでしょうか?」
「はい。この辺りはまだまだ雪原や森ばかりです。吹雪で遭難してよく死者が出るのですよ。でももう慣れたものです。ジョーゼットの先端には熱を帯びたブレードが取り付けられておりますので、こんな中でも運行は出来るんですよ。ただそれにしても今日は寒いですね。暖房もあまり効いておりません。」
「確かに寒いですね。ここほどは冷えた土地の出身では無いので、特にこたえますよ……。この列車の目的地であるシフォンもこんな感じなのでしょうか?」
「あそこは蒸気の都市です。山上に聳え立つ石造りの家々には必ず煙突があり、熱でむせ返っておりますよ。土地柄もあって石油や石炭が多く取れるのですが、特に工業地帯は圧巻です。無数の鉄骨やパイプが無秩序に入り組んでいて、まさに現代の産業都市ですね。ただ貴族や平民達の住まう邸宅は優美で格調高いのですが、工業地帯にはスラムも多く、これからの課題なのだとか。」
「混沌としてて面白そうな土地ですね。僕の故郷の田舎とは大違いです。森や川、湖ばかりで、まぁそれはそれで好きなんですが。」
「ほぅ、ルキ様はどちらの出身でしょうか?」
彼は興味深そうにこちらを見る。
しかしその質問を答えるのに少し逡巡した。
ブルーの話をした後だ。正直にモスリンの出身だと答えたら厄介な事になりかねない。自身の記憶にはない病だが、みんな彼の地が発生源だと思っているのだから。
「ああいえ、デリケートな質問ですよね。失礼致しました。」
バーテンダーはこちらの様子を察したのか、質問を撤回した。しかしそのせいで少し気まずくなる。
それにいくら待てども誰も来ない。場所を聞き間違えたのだろうか?もう既に別の場所で話が済んでしまったのかもしれない。……徐々に焦りが生まれてくる。もうこの際アレクに直接話を聞きに行ってしまおう。彼は確か702号室だったはずだ。
「すみません。待ち人が来ないので引き上げますね。お話に付き合って下さりありがとうございました。」
そう言うと彼は会釈を返す。
夜も遅い。アレクが寝てしまっていたとしたら厄介だ。急ぎ足でラウンジを後にした。
◾️7番車両 通路
窓がカリカリと鳴り続ける。……少し寒気がした。また吹雪が激しくなって来たようだ。通路は少し暖房の効きが弱い。それに叩きつける氷の礫。外は相当寒いのだろう。列車の速度も落ち、徐行となっている。モスリンでは経験した事がない程の猛吹雪に少し恐怖を覚えた。
そっと702号室の前に立ち、ノックをする。
……返事はない。寝てしまっているのなら、アレクには少し悪いが起こしてしまおうと思った。
ノブに手をかけ、扉を開けようとする。しかしなぜかそれはズシリと重く、抵抗があった。その空気圧のようなものに逆らい、力強く扉を開け放った。
――ブォンっと音が鳴り、猛烈な冷気が身体を襲った。
◾️7番車両 702号室
窓が割れている。それが真っ先に目についた。
そして次に嫌な臭いがした。……更に眼下には何かが転がっていた。
そこには……生命の残滓があった。……おかしい、心臓が異常な速さで鳴り始めている。
なぜだ、なぜ目の前に異常なものが見えている。今にも目を背けたくなる何かが、ぼんやりと……。
雷が明滅する。
「うわぁっ!」
咄嗟に声を上げてしまう。
眼前には男の惨殺体があった。胴体は離れ、上半身についたその顔すらも半分が潰れ、残った目はどこかを永遠に見続けている。両腕は血塗れのシーツで縛られていた。
下半身はどこへ行った……。部屋の壁には黒い血と何かで引っ掻き回したような傷が無数についていて、ベッドからは綿が飛び散り、テーブルの脚は折れていた。そして床に落ちた派手なスーツが目についた。見覚えのある服。
「まさか、アレク……さんなのか……?」
雷鳴が遅れてやって来た。
「……お客様?」
ふいに誰かの声が後ろから聞こえて来る。
その声に驚き、勢いよく振り返る。……部屋の外には銀髪の客室乗務員、カチューシャがこちらを心配そうに見ていた。
「……ああ、ルキだったの。こんな時間に怪しいわねぇ。」
そう冗談めかしながら、カチューシャはおもむろに部屋の中を覗き込む。そしてその表情がみるみるうちに青ざめていった。
「きゃぁ――」
カチューシャが悲鳴をあげかけたので、咄嗟に彼女の口元を手で押さえつける。あまりの勢いに部屋を飛び出し、彼女を廊下の壁へと叩きつけてしまった。
彼女の口から痛そうな吐息が漏れ出る。
「突き飛ばしてごめん……それより落ち着いてくれ、カチューシャ。」
ふいに、ポケットから何か落ちた。……それはさっき忍ばせた携帯ナイフだった。落ちた衝撃で刃がビュンッと伸びる。彼女はそれを見て驚愕とした。
「ひ、人殺し……。」
「ち……違う。話を聞いてくれ。」
咄嗟にナイフを拾い、ポケットにしまう。そして彼女の両肩を持つ。
しかしカチューシャはこちらの顔を殴りつけて、怯んだ隙に隣の車両へと走って行った。
「待ってくれ!」
とにかく誤解を解かなければならない。しかし追いかけたら騒ぎ散らされ、余計に騒ぎになるかもしれない。……そう迷ってるうちに彼女は姿を消してしまった。
一旦冷静になれ。応援を呼ばれたら厄介だが、冷静に釈明するしか無い。この狭い車内を逃げ回れるなんて思えない。外に逃げたところでたちまち凍死するだろう。
とにかく状況を整理するために再び702号室へと戻った。
室内は相変わらず寒く、ビリビリに裂かれたカーテンがはためいていた。氷の礫もちらちらと中へ侵入して来ていて、床は水で濡れている。それにアレクから飛び散った血が混じり、薄く伸ばされていた。……その血は奇妙な事に、青紫色をしているようだ。
そっと扉を閉める。廊下からの灯りが遮られ、中は暗黒に包まれる。
雷が明滅した。
手探りで照明を探し、そのスイッチを入れた。しかし電球が破損しているのか灯は付かない。手探りで卓上照明を探し、それのスイッチを入れた。ほのかに室内が照らされる。
そして目を凝らし、再び室内をよく見回す。
彼の惨殺体や、壁についた傷痕を見ても、それは人間に出来るような惨状ではなかった。しかしシーツで縛り付けられた彼の両腕。ただの獣の類の仕業でも無いようだ。窓が割られているのは何者かがここから逃げだしたのだろうか?しかしこの吹雪の中逃げ出したのだとしたら、生きてはいないような気もする。
不意にカバンが目についた。……アレクの持ち物だろうか。何か情報は無いだろうかとその中を開ける。
すると中にはナイフの類が数種類入っていた。武器商人だとか言っていたが、やはり凶器は持ち込んでいたようだ。
それに彼は自分と同じ目的を持った人間だった。これくらいの凶器はあっても不思議では無い。
更に中を探ってみると、何かメモの端くれのような物があった。しかしこの薄暗い中では何を書いているのかが分からない。そっとポケットにそれを忍ばせた。
カバンを元通りに直したところで、ふいに扉が開かれた。
そして一人の女が入ってくる。カチューシャだ。帰ってきたようだ。彼女はこちらを認識するとビクッと驚く。
そして続けてもう一人、小柄な女が入ってきた。……黒髪の救命医の女、イエヴァだった。
部屋の外には大柄な警備員の男、コジロウも立っていた。どうも絶体絶命のようだ。
「イエヴァ……またこんな夜にごめんなさい。」
「寒……それにこれは……ひどい有様ね。」
イエヴァはこの光景を見て呆気に取られる。
そして彼女はおもむろにこちらを見た。
「ルキさん、こんばんは。よく会いますね。」
「こ、こんばんは……。」
「それでカチューシャ、私にこんなもの見せてどうしたいの?彼を捕まえるの?」
彼女は流し目でカチューシャを見る。
「その前に話を聞いてください。彼を殺したのは僕ではありません。カチューシャさんが勘違いして応援を呼んだだけです。」
「……とか言ってるけど?」
「彼の事は……気にしないで。私はイエヴァにこの遺体の様子を聞きたかっただけだから。こんな遺体……直視できないし。」
「はぁ、人を道具みたいに……分かったわよ。」
イエヴァは死体の前に座り込む。そして様子を確認し始めた。
「血のかたまり具合から言って、死んだのは数時間前。……ただ赤い血の中にわずかに青紫色の液体も混じってる。まさか彼もブルーにかかりかけていた?死因は……ありすぎてどれか分からない。その死体も見たところ上半身だけ。下半身はどこへ行ったのかしら……。それに胸に穴が空いていて、心臓が無くなってる。すごいわね……ちぎれた上半身から内臓が飛び出てるけど……所々食べられてるのか歯型が残ってるわ。それも食べ飽きたのか途中でやめてる。それに半分潰れた顔……口にはタオルが押し込まれてる。声も上げられなかったようね。……それに脳が無くなってる。内臓が好きなのかしら。でも眼球は好きじゃないみたい。何が好きなのかしら……やっぱり心臓?それとも肝臓?脳も悪くなさそう。ううん……どれかしら。とにかくこの死体を存分に味わったのが伝わってくるわ……。」
イエヴァは興味深そうに延々と語り続ける。
「イ、イエヴァ。遺体に関してはもう十分よ。」
カチューシャが気持ち悪そうな顔をして言う。するとイエヴァは立ち上がった。
「まぁ部屋の感じを見ても、とても人間の仕業のようには見えないわね。彼を疑っているのなら、その線は無いんじゃない?」
「そ、そうなの?」
「……じゃあイエヴァさんは、何者の仕業だと思うんでしょうか?」
「その話よりも、今はとにかく別の部屋へ行きませんか?ここは寒いし、込み入った話もし辛いでしょう。」
イエヴァがそう提案する。確かにその通りだった。
全員部屋を出る。
「ブルー……まさかな。」
コジロウがボソリと呟いた。
◾️8番車両 自室
1番近かった自分の部屋で続きを話す事にした。
こちらはベッドに座り、周囲の座席にイエヴァとカチューシャが座る。そしてコジロウは部屋の扉にもたれかかっていた。
少し重い空気が流れる。常軌を逸した死体を見た後だ、それぞれに思う事があるのだろう……。
「それでカチューシャ、まずあの死体の事はどうするの?上に報告しちゃうの?」
重い空気の中イエヴァが口火を切る。
「いや、秘密にしたい……。これ以上ジョーゼットを混乱させたくない。」
「馬鹿なことを言うな。なぜこんな事を隠そうとする?それにシフォンについたら、どう足掻いてもバレる。」
コジロウが反応した。
「こんな事騒ぎにしたくないのよ。正義を問うならまずは犯人を特定して。」
彼女は薄赤い瞳でコジロウをキッと睨みつける。
すると彼は少したじろいだ。
「まぁ、カチューシャの気持ちもわかります。面倒事を増やしたく無いのでしょう。実は私も、せめてシフォンに着くまでは秘密にしておきたいのです。」
イエヴァが意味深な事を言って彼女を庇う。
「……なぜだ?」
「コジロウさん、カチューシャの言う通りまずは犯人を探しましょう。今騒ぎ立てると犯人も姿を現しませんよ?まずは泳がせないと。」
「探偵にでもなったつもりか……。犠牲者が増えるかもしれないだろ。」
コジロウはそう言うと、ふいにこちらを睨みつけてきた。
「それにルキ……拙者はお前を疑っている。」
彼の左目に着いた鋭い傷跡がこちらを身震いさせる。
「な、何故ですか……。僕にあんな事出来るわけがないでしょう?」
「ここに来た本当の目的を言え。さもなくば窓から放り出すぞ。」
コジロウは腰元に備えた刀に手をかけ、こちらに迫ってくる。
「何を言ってるんですか……。ぼ、僕はただシフォンへ行きたいだけです。」
「嘘をつくな。お前から狼のにおいがするぞ。」
この男は何を訳のわからない事を言っているのだろうか。
「コジロウ、いい加減にして!」
カチューシャが止めに入る。すると彼はまた怯んだ。
「彼が何しに来たのかなんてどうでもいい。」
「カチューシャ……?なぜこの男を庇う。」
コジロウの疑問に、イエヴァが割って入る。
「まぁまぁ、一旦お開きにしませんか?明日また考えましょうよ。とにかく上には報告しない。知らんぷりをすれば私たちが隠したこともバレませんよ。だからこれは秘密にする。……良いですよね、コジロウさん。」
「イエヴァ、お前まさか……。ったく……。」
コジロウは頭を掻きながら、何かに納得する。
「さぁ皆さん行きましょう。」
そう言ってイエヴァは立ち上がり、部屋の扉を開ける。そしてみんなを帰るように促す。
「イエヴァ?まだ話は終わってないわ。」
「いえ、明日続きを話しましょう。」
カチューシャは彼女の様子を疑いつつも、しぶしぶと部屋の外に出た。コジロウもそれに続く。
「……ルキさん、少ししたら医務室まで来てください。ユリについてお話ししたいので。」
イエヴァはそう言い残して出て行った。
謎が残る会話だった。コジロウがこちらを疑うのはまだ分からなくもない。しかしイエヴァとカチューシャはなぜこちらを執拗に庇った。それにイエヴァは医務室へくるように言ってきた。ユリの事?それは今言う必要があることか?しかし容体が気になるのは事実だったが。
おもむろにポケットに手を突っ込む。すると何か感触があった。そうだ、アレクのカバンから何かメモを見つけた。
それを取り出し、中を確認してみる。
そこに書かれた冒頭の走り書きが、こちらの記憶を強烈に呼び覚ました。
――彼の者へ裁きを与えよ。浄火されたモスリンの仲間へ贖いを
◾️1年半前の記憶 モスリン
夜半、燻んだ臭いの立ち込める焼け野原に、建物の残骸があった。そこには妹のルキが隠れ潜んでいる。
「アキお兄ちゃん!どうだった?」
妹のルキはこちらの名前を呼ぶ。本当の名前。
「ルキ、赤獅子の軍隊から食料を奪ってきたよ。」
「さすがお兄ちゃん!奇襲がうまく行ったのね!」
ルキは大喜びする。
「今日はルキの17歳の誕生日だろ?豪勢にしないとな。もうこの辺りには家畜も野生動物もいない。今はこのマズイ糧食しかないけど、我慢してくれ。」
「ありがとう、お兄ちゃん。私のためにこんな事をしてくれて。……でも他の仲間達は?」
「ダメだった。散り散りになったよ。生きてるかどうかも分からない。」
「そう……。まだモスリンには緑が残ってる場所がある。そこへ移りましょう?人も動物たちもそこへ移動したのかも。そうだ、モスリンビークへ行こう。私達の生まれた場所。あの森は祝福の鐘が護ってくれるはず。」
「まぁ望み薄だけど、ここよりは安全かもな。この辺りはもう軍隊がひしめいてる。……でももう夜も遅い。今はルキの誕生日を祝おう。」
そう言ってこちらは誕生日パーティの準備をする。
杭に突き刺した赤獅子の将校の首を燃やし、二人で唄を歌い始めた。
「謳われし者へ祝福をー、幸福な誕生を迎えたーその名はルキ!神は呼んでいる、ルキの名前を!……誕生日おめでとう!」
「えへへ、ありがとうお兄ちゃん!この赤獅子、蝋燭みたいによく燃えるね!」
ルキはその燃え盛る首を見て大喜びする。
「奪った石油を顔にいっぱい塗ったんだ。こいつは俺やルキを最後まで人狼呼ばわりして馬鹿にしてきた。それに仲間も一人捕まって殺された。こいつは燃やされた仲間達の痛みを一身に受け止めてくれているはずだよ?」
「本当よ、人狼呼ばわりして燃やすなんてひどい。……そうだお兄ちゃん、今日通りすがりの人から詩を教えてもらったのよ?」
そう言ってルキは紙を取り出した。
「……なんだそれ?」
こちらの言葉を聞いて、ルキはふふっと笑い、それを読み上げ始めた。
「彼の者へ裁きを与えよ。浄火されたモスリンの仲間達へ贖いを。その罪の証を彼の者へ刻み込むのだ。謳われし者は彼の者を許さない。その首を天高く掲げるのだ。さすれば、彼の者の呪縛は解け、モスリンは蘇る。」
「彼の者?誰だそれ?」
「赤獅子のリーダーの貴族らしいの。そいつを殺せばモスリンは救われるらしいけど、本当かな?」
「変な話だな。……でもそれを信じて見ても良いかもしれない。神は俺たちを救ってくれるのかな。」
「うん!これはきっと私達に与えられた神の啓示、使命なのよ!明日からはこれを目標に生きていきましょう?」
「ははは、確かにそれもいいかもな。生きる目的なんて無くなっていたし。……じゃあルキ、今はとにかく生き残るんだ。これからに向けて、ゆっくり身体を休めよう。」
翌日、僕たちはモスリンビークの森を目指した。
◾️8番車両 自室
悲しい事に、モスリンの惨禍が起きてから二人の兄妹の倫理観は大きく狂わされてしまった。赤獅子に仲間を殺され続けた絶望感から、自身も敵を傷つけている事を喜んでしまっている。ただし、殺そうとしてくる者を返り討ちにする事は正義のはずだ。そこに躊躇は無い。今は彼の者を見つけ出し、その首を天高く掲げねばならない。モスリンの再生のために。
◾️4番車両 ラウンジ
医務室へ向かう途中、またバーが目についた。相変わらずバーテンダーしかいない。
「ああルキ様。今日は妙に人通りが多いですね?何かあったんでしょうか?」
カチューシャ達の事だろう。もちろん正直に答えるつもりはなかった。
「ううん、僕は誰一人すれ違っておりませんけど。どんな様子でした?」
「客室乗務員が焦った様子で医者と警備員を呼んでおりましたよ。医者と警備員の二人は先ほど帰って行きましたが。」
「へぇ……何かあったんですかね。」
「さぁ?……ところでルキ様は待ち人と会えたのでしょうか?」
「いえ、まだですね……。」
「そうですか。もし誰をお探しか教えていただければ、見かけた際にお声がけさせていただきますよ?」
「ああええと、アレクさん……とアンですね。」
そう言えばアンの存在を忘れていた。彼女の姿もない。
「承知いたしました。……ところでルキ様、一杯お酒をサービスさせて頂けませんか?」
そう言って彼は急に酒を作り始めた。おそらく暇なのだろう。
そして慣れた手つきでシェイカーをシャカシャカと振り、グラスに完成した酒を注ぐ。そして青紫色の液体の入ったグラスを出してきた。……それを見て少しうんざりした。
「もしかしてまたモスリンブルーってやつですか?……あの騒ぎがあった後なのに。すみませんが、僕はこれを飲もうとは思えません。」
そう言うとバーテンダーはがっくりとする。
「ルキ様、確かに趣味はあまりよろしくないかも知れません。しかしこのお酒には本当の意味があるのです。――モスリンで起こった悲劇を忘れない。ブルーは病による災害ではなく、人災なのです。その裏に隠されているのは、人狼病にかかったと言われた人々が焼き尽くされた悲惨な事件です。無差別で、罪のない人が多く焼かれました。私は水面下でそれを糾弾するための活動をしています。」
急に何の話だ……。糾弾するための活動……?まさか彼が?
「……ラウンジで話があるというのは、あなたなのですか?……もしかしてあなたが僕をこのジョーゼットに招待したという事ですか?」
そう訊ねるとバーテンダーは口元に指を添える。
「……ルキ様、乗車券をお持ちですか?」
バーテンダーの言葉を聞いて、確信する。
ポケットから乗車券を取り出して、スッと彼に見せた。すると彼はうんうんと頷く。
「ありがとうございます。念のため、詩を聞かせていただけませんか?……モスリンの人間ならばその使命を謳った詩を聞いたことがあるのでは無いかと思います。」
合言葉を言えということか。……おそらくこれだと思い当たるものがある。もはや一言一句心の中に刻みつけられた、自身の心に言霊として宿る詩が。それを心の中で反芻し、読み上げる。
『彼の者へ裁きを与えよ。浄火されたモスリンの仲間達へ贖いを。その罪の証を彼の者へ刻み込むのだ。謳われし者は彼の者を許さない。その首を天高く掲げるのだ。さすれば、彼の者の呪縛は解け、モスリンは蘇る。』
そう告げると、彼は納得したようにフッと息を吐き出す。
「……ありがとうございます。私はデミトリ。協力して使命を果たしましょう。」
彼は少し安堵しているようだった。
こちらも首謀者と合流できた事に安堵する。早速聞きたいことがあった。
「それでデミトリさん、彼の者とは誰ですか?このジョーゼットに乗っていると言われている赤獅子の貴族とは。」
そう訊ねると、彼は両肘をテーブルにつけ、指を組む。そしてその上に顎を乗せた。
「彼の者、それはサリ・シフォンヌという男です。シフォンの貴族で、表舞台にその名は知られておりません。しかし寄生虫のようにシフォンを内部で操っているのだそうです。……そして今はこの列車のオーナーを乗っ取り、ソル・ジョーゼットを名乗っていますよ。」
今朝出会ったあの威圧感のある貴族か。1番車両で護衛をぞろぞろと従えていたあの男。納得の行く話だった。……サリ・シフォンヌ。奴こそが目的の人物、その首を狙うべき対象か。
「ところでルキ様は、アレク様をお探しなんでしたね。私もここで待っているのですが、一向に姿を見せず困っている所です。」
アレクはさっき殺されているのを確認した。今なら正直に言ってしまった方がいいだろう。
「……彼は702号室で殺されました。それも、あまりにもひどい有様でした。」
そう告げるとデミトリは驚愕とする。
「な……今すぐ彼の様子を確認しに行ってもよろしいでしょうか?」
「……分かりました。僕は他に行く所がありますので、また合流しましょう。」
デミトリは会釈をしてそそくさとラウンジを飛び出した。誰もいなくなったラウンジでフッと吐息を漏らす。計画の首謀者が見つかり安心した所ではあるが、あまり楽観視出来ない状況でもある。
とにかくこちらは医務室へと向かった。
◾️2番車両 通路
通路の奥、1番車両へ向かう扉の横にいつも通りコジロウがもたれかかっていた。見たところ寝ているようだ。しかし彼は一人でずっとあそこにいるのだろうか。彼には目をつけられてしまった。そっと起こさないように医務室の扉をノックして、静かに開け放った。
◾️2番車両 医務室
医務室は清潔な香りの中に、少しだけ血の臭いが混じっている。そして奥のベッドにユリが寝かせられ、その様子をイエヴァが横から覗き込んでいた。ベッドは所々青紫色に染まっていて、あまり容体が良さそうにも見えない。
彼女はこちらの目をゆっくりと見て、微笑んだ。
「ルキさん、来ていただきありがとうございます。どうぞこちらへ。」
そう言ってイエヴァは手招きをしてくる。
こちらもベッドの側面へ近づき、イエヴァの隣まで来る。そして横に寝ているユリの顔を覗き込んだ。
「……時折目が覚めては、発狂するような声を上げてこの青紫色の血を吐き出すんです。」
そう言って彼女は指でユリのまぶたを開く。
「彼女の瞳、前見た時は黒かったのに、今はこんなに青くなっているのです。輝き始めているのが分かりますか?彼女は覚醒の時が迫っているのですよ。」
「はぁ……覚醒……?」
こちらの言葉を無視して、彼女は続ける。
「確認しておきたいのですが、ユリはモスリンの人間でしょうか?」
「まぁ……はい。」
「うふ……そうですか。やはり今回の惨殺事件……決まりですね。」
彼女は奇妙な笑い声を漏らした。
「何を納得したのか分かりませんが、まさかユリがアレクさんを殺したとでも言いたいのですか?」
そんな無茶苦茶な話があるとは思えない。ただもしかしたらブルーという病が何か関係しているのだろうか。
「……ルキさん、何を言ってるんですか。」
イエヴァはユリを見ながら伏し目がちに言う。
「あなたですよ。」
そして首を90度回し、こちらを見てきた。その目は丸く剥かれていて、瞳孔が開いたかのように黒々しくなっている。その異常な見た目に面食らい、ただたじろいだ、
「あなたもモスリン出身なのでしょう?」
イエヴァはカタカタと歯を鳴らし、薄ら笑いで聞いてくる。正直に答えたらまずいような気がした。
「いえ、僕はシフォンの人間です。」
咄嗟に嘘をついた。
すると彼女は眉をひそめる。
「その嘘……つまりはモスリンの人間に間違いないのですね。うふふ……。」
そしてまた不気味な笑い声をあげる。
「う、嘘なんてついておりません。」
「ほう、ではどこの地区の生まれでしょうか?例えばシフォン地区あたりだったり?」
「ええと……はい。」
そう言うと彼女は吹き出す。
「……すみません。そんな名前の地区はありませんよ?それにシフォンの吹雪の事も知らない人間が、いけしゃあしゃあと何を仰っているのでしょうか?」
「だ、騙したんですね……。」
そう言うと彼女はこちらの両肩を掴む。
「あなたも今私を騙そうとしたじゃありませんか。この土地の吹雪の事も知らなかったあなたが、付け焼き刃の知識で私を騙そうなど浅はかですね。さぁ、あなたの本当の出身地を仰ってください。当然モスリンですよね?」
彼女はヌッと首を近づけてくる。その異常な様子にいよいよ恐怖を覚え始めた。
「……そうだよ。モスリンだ。だ、だから何なんだ?」
そう言うと女は突如、発狂したかのように奇声を上げた。
耳をつん裂くようなその高い音が震える。ふいに耳を抑え、目を閉じてしまう。……まぶたをゆっくりと開くと、眼前にその瞳孔の開き切った黒々しい目が迫っていた。下まぶたが吊りあがり、うっとりとした表情を浮かべている。
「あはは……つまりあなたは……あなた様はモスリンの人狼なのですね!その青紫色の瞳、当然ですわ!」
青紫色の瞳?……何を言っている。
「俺は人狼じゃない。その侮蔑の呼び名を使うな!」
しかし彼女は勢いを殺さず続ける。
「分かりますよ……正体を隠されたいのですね。でもあの死体の惨状……とても人間の仕業ではございませんわ。それに彼の腕を縛り上げ、口にタオルを押し込んだ。あなた様はお食事をゆっくりと楽しんでおられたのでしょう?知性の高さもうかがえます。これが人狼以外の何者でしょうか!?」
女は眼前に迫る目をプルプルと震わせる。
「知ったことか!それにモスリンに人狼なんて存在しない!そんなもの勝手に作られた幻想だ!」
「いいえ、騙されませんよ!決して幻想ではございません!私はこの目で見たのですよ、人狼のお姿を!あはは……私は赤獅子の従軍医だったのです。」
――赤獅子――
その言葉が、脳へどす黒く不快な衝動を駆り立てる。
「赤獅子……?お前が?」
怒りが沸々と湧き立ち、それが徐々に憎悪、そして殺意へと変わっていく。
「ああ……焼け果てたモスリンのある村で、咆哮と共に人狼が顕れたのです!ああ……人狼が……人狼が……今目の前にも……。」
女は恍惚な表情を浮かべている。しかしその顔を満面の憎悪で睨みつけた。
「人狼人狼と……いい加減にしろ……赤獅子め、殺してやる。」
女を力任せに突き飛ばした。すると女は床へ派手に転がり込む。そしてこちらはそのまま馬乗りになり両手で女の首に掴みかかった。
――その手に力を込める。全力の殺意を持って。
「ぐぐっ……ぐが……」
女は声も出ず、喉から出る苦悶の音をただ鳴らし続けた。
しかしこの女に同情など一欠片も存在しない。首を折るまで、絶命するまで、ただただ力を込め続ける。
しかし突如背後から誰かに掴みかかられ、力づくで引き剥がされた。そして今度はこちらが首を腕で絞められる。
こちらも声が出ず、ぐがが……っと喉から苦悶の音を鳴らしてしまう。
「はぁ……はぁ……。コジロウ……さん。やめ……。」
女の掠れた声が聞こえてくる。
「ルキ……お前はもう一線を越えた。」
背後から東方訛りの声が聞こえてくる。……その力の強さに抗うことは出来なかった。
徐々に意識が遠のいていく――
◾️1年半前の記憶 モスリンビークの森
薄暮のモスリンビークの森には雨が降っていた。茶黒く枯れた草に白露がちらつき、足元を濡らす。霧で覆われた視界の狭い最中、自分と妹のルキは枯れた大樹にもたれかかり、雨宿りをしていた。
「せっかくここまで来たのに、ここももはや焼け野原か。なぁルキ、もう諦めてモスリンを脱出しないか?」
「ダメよ、お兄ちゃん。……私は神に留まるように言われているの。決してモスリンを離れる事は出来ない。」
「なぁ、神の声が聞こえるのは分かったけど……ルキ、今は生き残る必要があるんだよ。」
「お兄ちゃん……私の名前を呼ぶのはやめてほしい。最近なんだかむず痒くなるの。……そうだ、名前を交換しない?私がお兄ちゃんの名前、アキを名乗って。それでお兄ちゃんがルキって名乗るの。どう?」
妹が人差し指を突き出して言う。
「……?いきなりどう言う事だよ。」
「お願い、ルキお兄ちゃん。お互い偽名で活動しましょう?」
「偽名?……それにしては近すぎやしないか。」
「いいのいいの。それよりお兄ちゃん、来て。ご馳走を見つけたの!ここ数日細々と糧食しか食べてないでしょう?」
妹は駆け出した。
焼け落ちた大樹のうろの中に入る。昏く狭いそこには人間の骸が押し込められていた。……その赤い軍服。赤獅子か。
「この兵士、もしかしておまえが殺したのか?」
「うん。数時間前の夜かな。」
か弱い娘のルキがこの屈強そうな兵士を殺したのか?この霧の中、うまく不意をついたのだろうか。雨で足音も消せる。……首の抉るような切り傷。ナイフでやったのか。しかしこの死体、野生動物の生き残りでもいたのか身体を喰われているようだった。
「私、これで喰い繋いでいくことにしたの!お兄ちゃんもどう?」
ルキは屈託なく笑う。しかしその言葉に驚愕した。
「……おいルキ、まさか人間を喰い始めたのか?……いつから?」
「数日前。お腹が空いて仕方がなかったから、糧食の代わりに。でもおかげで元気になってきたの。これなら一人攫えば良いだけだし、簡単よ?それに赤獅子はどんどん湧いてくるの。お兄ちゃんもどうかな?……こレおイシイヨ?」
ルキはくぐもった声を出す。
そしてその赤獅子の死体を見て、ルキはその目から青白い燐光を励起させた。そしてそのまま指で臓物のかけらを引きちぎり、ご馳走様のようにそれを喰らい始める。
強烈な死臭が漂う中、ぐちゃぐちゃと鳴る咀嚼音と共に、彼女は恍惚な表情を浮かべた。
頭がおかしくなりそうだった……。
このモスリンの惨禍によって妹はここまで狂わされてしまったというのか……。
霧中の森、雨音の狭間からモスリンの鐘の音が聞こえてくる。遥か遠くにあるそれはぼんやりとこちらを呼んでいるようで、それがただ耳の中でこだました。
◾️8番車両 自室
目を見開く。明るい天井……。それにしんと静まり返った室内。ここはジョーゼットの自室か。どうやらベッドで寝かされているようだ。
外はまだ暗いが、窓からはもうカリカリとした音が鳴らなくなっていた。どうやら吹雪も少しずつ弱まっているようだ。徐行だった列車の速度も上がっている。
……先程の過去の記憶を辿る。妹は焼けたモスリンビークの森で異常な変貌を遂げてしまった。……まさか?イエヴァの言葉を思い出す。まさか彼女はその人狼とやらに変貌してしまったのだろうか。……いや、確信なんてない。
それよりも先程、冷静さを欠いてイエヴァを殺そうとしてしまった。そしてコジロウに制止され、意識を失った。
今どういう状況なんだ。
ガバッとベッドから起き上がる。
「あっ。」
女のびっくりするような声が聞こえた。
その声の主は、銀髪の女。
「カチューシャ……いたのか。俺は……どうしてここに?」
そう訊ねると彼女は困ったように眉をひそめる。
「さぁ?コジロウがここにルキを連れてきたけど。」
「そうなのか。……で、何でカチューシャもここにいるんだよ?」
「ええと、さっき殴った事を謝ろうと思って。」
そう言って彼女は頬を指で掻く。確かに殴られたような気はするが。
「そんな事気にするなよ。本当にそれだけか?」
そう訊ねると彼女は首をかたむけ、伏し目がちに考え事を始める。
……何だと言うのか。
黙って彼女の様子を見ていると、少し逡巡したのち、ようやく話し始めた。
「……デミトリと話したそうね。計画の事も知ったのかしら?」
「なんだ……カチューシャも一枚噛んでいたのか。乗車券を見せた時には反応しなかったくせに。」
「ごめん。モスリンの人間はもう十分いたから、あなたはもう巻き込まなくていいと思ったの。」
「何でだ?人数は多い方が良いんじゃないのか?」
「……まぁ、暗殺に寄与するのは少数の方がいいわ。でも今はまずい状況ね。現状、モスリンの人間があなた以外全滅した。」
「なんだって?……アンは?」
「アン?……ああ、あの904号室の女の子、アンって言うのね。……昨日いなくなったのよ。他にも何人かいたけど、全員失踪してる。でも派手に殺されてたのはさっきの702の客だけ。多分あれは警告なんでしょうね。どうもこの計画、相手方に漏れてるみたい。」
「そうなのか。……そんな事でその計画とやらは大丈夫なのか?」
こちらの疑問に対して彼女は苦い顔を浮かべた。
「本当は今夜1番車両へ襲撃する予定だったけど、明日の深夜に合わせてデミトリと計画を練り直してる所よ。あなたに声をかけてるのもその一環ね。」
「そうか。……でももし計画がダメそうなら俺一人でも特攻する。その為の武器は持ち込んできたんだ。死ぬのは恐れていない。神の啓示、使命を果たす為ならなんだってやる。」
「ルキ……。その心意気は有難いけど、あなたは散々騒ぎを起こしてるのよ。今殺されていないのが不思議なくらい。だから明日の決行まではここでじっとしていて欲しい。」
彼女は真剣な眼差しをこちらへ向ける。
「……まぁ、明日の深夜までは言う事を聞いてもいいけど。」
「あら、それは良かった。」
そう言うと彼女は安堵の吐息を漏らす。
「じゃあこの話は一旦終わりにしましょう。」
ふと時計を見れば午前2時を過ぎていた。
夜も遅いが、カチューシャは手の甲に顎を乗せ、また何やら考え始めた。まだ何かあるのか。
「……ねぇルキ、モスリンに人狼って本当にいるの?……あなたの目、昨日は黒かったような気がするんだけど、妙に青くなってない?ブルーって……本当は人狼病なんでしょ?まさかあなたが犯人じゃないわよね?」
彼女はこちらの目をじっと見る。
人狼の話……そう言えばイエヴァにも目の色の事を言及されていた。そして今まさにカチューシャにも同じ事を言われてしまった。ズシリと頭に重いものがのし掛かる。そしてどんどん呼吸が乱れていく。自身の異変を確認しないと……。そそくさとベッドから立ち上がり、洗面台へと向かう。
鏡に自身の顔が映り込む。相変わらず覇気のない顔。……そしてその目には、真っ青になった瞳だけが確かに存在した。
……その瞳が揺らぎ、自身の顔がどんどんと憔悴していく。そして頭が霞に覆われ始めた。
「ルキ?だ、大丈夫?」
霞の中から、ふいにユリの顔が現れた。屈託のない笑顔に、青く発光した瞳。……彼女はじきに覚醒する?
続けて記憶の中の変貌した妹のルキも現れる。青白い燐光が励起した瞳、薄ら笑いをあげながら人肉を貪る姿。
そして自分自身、アキの青い瞳が再度浮かび上がった。……まさか自分もそうなのか。頭が混乱し始めた。
「あああ……。みんな狼なのか?あああ……。」
「お、落ち着いて!ルキ!」
ルキ……妹の赤い血が垂れた唇が映る。尖った歯と青紫色の口内を覗かせて。
「ルキ?お前は狼じゃないよな……人を喰う事を覚えただけ……。」
「人を喰う……?何を言ってるの?」
やがて霞が白黒の砂嵐に変化し、ぐらぐらと脳が揺れ始める。頭を抱えて抑えようとしてもまるで制御が効かなかった。
記憶と現実の世界が交錯し、眼前には緑生い茂る焼け果てた森、ねじ曲がったジョーゼットの車内がマーブル柄に混ざり合う。
――そして脳内に雷鳴が轟く。激しい明滅の末、702号室が、上半身だけの惨殺体が浮かび上がる。続けて自室で寝ている歪んだ自分の姿、そして次に医務室が。黒髪の泣きぼくろの女が黒々しい瞳でこちらを見る。あなたですよ。そんな事を言って。
「あああ……あああ……本当に俺がアレクを喰ったのか?まさか寝てる間に、狼に目醒めたのか?そんな訳ない……。記憶にない……。見覚えがない……。」
「落ち着いて、ルキ。変なこと聞いてごめんなさい。トラウマを刺激してしまったのね……。落ち着いて……。」
誰かに背後から抱きつかれるような感触がした。
また眼前は砂嵐になる。そして銀色の髪がぼんやりと浮かび上がった。
「ルキ!しっかりして!」
「うるさい!俺はアキだ!」
雷鳴が頭を駆け巡り続ける。なぜこんな事になってしまったのか。平和だった過去のモスリンへ戻りたい。みんな笑顔だったはずじゃないか。なぜここまでモスリンの人々は悪夢を見て、妹は、自分は、狂ってしまったのか。ああ……あの頃が懐かしい。祝福の季節だったあの頃、あの頃、あの頃――
赤獅子の兵士達の不快な笑い声が聞こえてくる。
泣き喚く妹は最初に銃で撃たれて処刑された。
その刹那、とてつもない咆哮が波動し、僕は意識を失った。
朝、目が覚めた。周囲には兵士達の残骸があった。
妹の亡骸はどこかへ消えてしまった。
■8番車両 自室
夜半、闇の中。なにも見えぬこの狭い室内、このベッドの感触でかろうじて自室である事が分かった。窓ががらがらと鳴っている。薄闇の外は霞で覆われ、氷の礫が荒れ狂う。それらは窓を猛打し続けていた。時折雷雲は唸り、さながら死の獣が窓を喰い破ろうとしているかのようだった。
これはまだ夢の中なのか?……いや違う。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
ふいに雷が明滅し、部屋が一瞬だけ照らされる。
その一瞬、窓に黒い影が映ったような気がした。……誰かがこちらを見ているのか?
そっと立ち上がり、窓の方へ向かう。しかしそこには荒れ狂う礫が窓を濡らしているばかりで、他には何もなかった。
明かりをつける。時計を見れば、深夜になっていた。今夜ラウンジで落ち合う話を聞いていた。もうその頃合いだろうか。
カバンを手に取り、中から携帯ナイフを取り出した。
もし何かあった時のためにポケットへ忍ばせる。
そっと部屋を出た。
◾️4番車両 ラウンジ
ラウンジには昨日のバーテンダーが暇そうに立ち尽くしている以外、誰もいなかった。聞いていた話とは違う。まだその頃合いではないのかもしれない。スツールに座って時間が過ぎるのを待つ事にした。
「いらっしゃいませ、ルキ様。」
バーテンダーが話しかけてくる。
「こんばんは、今日は誰もいないんですね。この時間はいつもこんな感じなんでしょうか?」
そう言うと彼はため息をつく。
「いえ……ルキ様はブルーの噂を聞きましたか?この列車にその感染者がいるのだとか。そのせいで乗客達は閉じこもっているのです。オーナー様もこの事に苦心しているようで、明日また見解を表明するそうですよ。」
「なるほど。何というか……あなたはそんな中でも働いているんですね。」
「まぁ仕事ですから。普段ならば寒さを凌ぐためにお酒を飲みにくるお客様で溢れるものですがねぇ……。ルキ様は一杯飲まれます?」
「ああ……お金が無いんです。迷惑な客ですみません。」
「いえ大丈夫ですよ。どうせ暇ですから。待ち合わせでしょうか?」
「はい。そんな所です。ところで誰かラウンジに来ましたか?」
「今日は誰も来ていませんねぇ。通り過ぎる客はちらほらおりましたが、こんな閑散としてるバーでは客も寄り付きませんよ。」
そう言ってバーテンダーは長嘆息を漏らす。
なんだか可哀想だが、やはり聞いていた話とは違った。今夜ここで何か話があるんじゃなかったのだろうか。
ふいに雷鳴の音が聞こえてくる。
「この辺りはよく吹雪くんでしょうか?」
「はい。この辺りはまだまだ雪原や森ばかりです。吹雪で遭難してよく死者が出るのですよ。でももう慣れたものです。ジョーゼットの先端には熱を帯びたブレードが取り付けられておりますので、こんな中でも運行は出来るんですよ。ただそれにしても今日は寒いですね。暖房もあまり効いておりません。」
「確かに寒いですね。ここほどは冷えた土地の出身では無いので、特にこたえますよ……。この列車の目的地であるシフォンもこんな感じなのでしょうか?」
「あそこは蒸気の都市です。山上に聳え立つ石造りの家々には必ず煙突があり、熱でむせ返っておりますよ。土地柄もあって石油や石炭が多く取れるのですが、特に工業地帯は圧巻です。無数の鉄骨やパイプが無秩序に入り組んでいて、まさに現代の産業都市ですね。ただ貴族や平民達の住まう邸宅は優美で格調高いのですが、工業地帯にはスラムも多く、これからの課題なのだとか。」
「混沌としてて面白そうな土地ですね。僕の故郷の田舎とは大違いです。森や川、湖ばかりで、まぁそれはそれで好きなんですが。」
「ほぅ、ルキ様はどちらの出身でしょうか?」
彼は興味深そうにこちらを見る。
しかしその質問を答えるのに少し逡巡した。
ブルーの話をした後だ。正直にモスリンの出身だと答えたら厄介な事になりかねない。自身の記憶にはない病だが、みんな彼の地が発生源だと思っているのだから。
「ああいえ、デリケートな質問ですよね。失礼致しました。」
バーテンダーはこちらの様子を察したのか、質問を撤回した。しかしそのせいで少し気まずくなる。
それにいくら待てども誰も来ない。場所を聞き間違えたのだろうか?もう既に別の場所で話が済んでしまったのかもしれない。……徐々に焦りが生まれてくる。もうこの際アレクに直接話を聞きに行ってしまおう。彼は確か702号室だったはずだ。
「すみません。待ち人が来ないので引き上げますね。お話に付き合って下さりありがとうございました。」
そう言うと彼は会釈を返す。
夜も遅い。アレクが寝てしまっていたとしたら厄介だ。急ぎ足でラウンジを後にした。
◾️7番車両 通路
窓がカリカリと鳴り続ける。……少し寒気がした。また吹雪が激しくなって来たようだ。通路は少し暖房の効きが弱い。それに叩きつける氷の礫。外は相当寒いのだろう。列車の速度も落ち、徐行となっている。モスリンでは経験した事がない程の猛吹雪に少し恐怖を覚えた。
そっと702号室の前に立ち、ノックをする。
……返事はない。寝てしまっているのなら、アレクには少し悪いが起こしてしまおうと思った。
ノブに手をかけ、扉を開けようとする。しかしなぜかそれはズシリと重く、抵抗があった。その空気圧のようなものに逆らい、力強く扉を開け放った。
――ブォンっと音が鳴り、猛烈な冷気が身体を襲った。
◾️7番車両 702号室
窓が割れている。それが真っ先に目についた。
そして次に嫌な臭いがした。……更に眼下には何かが転がっていた。
そこには……生命の残滓があった。……おかしい、心臓が異常な速さで鳴り始めている。
なぜだ、なぜ目の前に異常なものが見えている。今にも目を背けたくなる何かが、ぼんやりと……。
雷が明滅する。
「うわぁっ!」
咄嗟に声を上げてしまう。
眼前には男の惨殺体があった。胴体は離れ、上半身についたその顔すらも半分が潰れ、残った目はどこかを永遠に見続けている。両腕は血塗れのシーツで縛られていた。
下半身はどこへ行った……。部屋の壁には黒い血と何かで引っ掻き回したような傷が無数についていて、ベッドからは綿が飛び散り、テーブルの脚は折れていた。そして床に落ちた派手なスーツが目についた。見覚えのある服。
「まさか、アレク……さんなのか……?」
雷鳴が遅れてやって来た。
「……お客様?」
ふいに誰かの声が後ろから聞こえて来る。
その声に驚き、勢いよく振り返る。……部屋の外には銀髪の客室乗務員、カチューシャがこちらを心配そうに見ていた。
「……ああ、ルキだったの。こんな時間に怪しいわねぇ。」
そう冗談めかしながら、カチューシャはおもむろに部屋の中を覗き込む。そしてその表情がみるみるうちに青ざめていった。
「きゃぁ――」
カチューシャが悲鳴をあげかけたので、咄嗟に彼女の口元を手で押さえつける。あまりの勢いに部屋を飛び出し、彼女を廊下の壁へと叩きつけてしまった。
彼女の口から痛そうな吐息が漏れ出る。
「突き飛ばしてごめん……それより落ち着いてくれ、カチューシャ。」
ふいに、ポケットから何か落ちた。……それはさっき忍ばせた携帯ナイフだった。落ちた衝撃で刃がビュンッと伸びる。彼女はそれを見て驚愕とした。
「ひ、人殺し……。」
「ち……違う。話を聞いてくれ。」
咄嗟にナイフを拾い、ポケットにしまう。そして彼女の両肩を持つ。
しかしカチューシャはこちらの顔を殴りつけて、怯んだ隙に隣の車両へと走って行った。
「待ってくれ!」
とにかく誤解を解かなければならない。しかし追いかけたら騒ぎ散らされ、余計に騒ぎになるかもしれない。……そう迷ってるうちに彼女は姿を消してしまった。
一旦冷静になれ。応援を呼ばれたら厄介だが、冷静に釈明するしか無い。この狭い車内を逃げ回れるなんて思えない。外に逃げたところでたちまち凍死するだろう。
とにかく状況を整理するために再び702号室へと戻った。
室内は相変わらず寒く、ビリビリに裂かれたカーテンがはためいていた。氷の礫もちらちらと中へ侵入して来ていて、床は水で濡れている。それにアレクから飛び散った血が混じり、薄く伸ばされていた。……その血は奇妙な事に、青紫色をしているようだ。
そっと扉を閉める。廊下からの灯りが遮られ、中は暗黒に包まれる。
雷が明滅した。
手探りで照明を探し、そのスイッチを入れた。しかし電球が破損しているのか灯は付かない。手探りで卓上照明を探し、それのスイッチを入れた。ほのかに室内が照らされる。
そして目を凝らし、再び室内をよく見回す。
彼の惨殺体や、壁についた傷痕を見ても、それは人間に出来るような惨状ではなかった。しかしシーツで縛り付けられた彼の両腕。ただの獣の類の仕業でも無いようだ。窓が割られているのは何者かがここから逃げだしたのだろうか?しかしこの吹雪の中逃げ出したのだとしたら、生きてはいないような気もする。
不意にカバンが目についた。……アレクの持ち物だろうか。何か情報は無いだろうかとその中を開ける。
すると中にはナイフの類が数種類入っていた。武器商人だとか言っていたが、やはり凶器は持ち込んでいたようだ。
それに彼は自分と同じ目的を持った人間だった。これくらいの凶器はあっても不思議では無い。
更に中を探ってみると、何かメモの端くれのような物があった。しかしこの薄暗い中では何を書いているのかが分からない。そっとポケットにそれを忍ばせた。
カバンを元通りに直したところで、ふいに扉が開かれた。
そして一人の女が入ってくる。カチューシャだ。帰ってきたようだ。彼女はこちらを認識するとビクッと驚く。
そして続けてもう一人、小柄な女が入ってきた。……黒髪の救命医の女、イエヴァだった。
部屋の外には大柄な警備員の男、コジロウも立っていた。どうも絶体絶命のようだ。
「イエヴァ……またこんな夜にごめんなさい。」
「寒……それにこれは……ひどい有様ね。」
イエヴァはこの光景を見て呆気に取られる。
そして彼女はおもむろにこちらを見た。
「ルキさん、こんばんは。よく会いますね。」
「こ、こんばんは……。」
「それでカチューシャ、私にこんなもの見せてどうしたいの?彼を捕まえるの?」
彼女は流し目でカチューシャを見る。
「その前に話を聞いてください。彼を殺したのは僕ではありません。カチューシャさんが勘違いして応援を呼んだだけです。」
「……とか言ってるけど?」
「彼の事は……気にしないで。私はイエヴァにこの遺体の様子を聞きたかっただけだから。こんな遺体……直視できないし。」
「はぁ、人を道具みたいに……分かったわよ。」
イエヴァは死体の前に座り込む。そして様子を確認し始めた。
「血のかたまり具合から言って、死んだのは数時間前。……ただ赤い血の中にわずかに青紫色の液体も混じってる。まさか彼もブルーにかかりかけていた?死因は……ありすぎてどれか分からない。その死体も見たところ上半身だけ。下半身はどこへ行ったのかしら……。それに胸に穴が空いていて、心臓が無くなってる。すごいわね……ちぎれた上半身から内臓が飛び出てるけど……所々食べられてるのか歯型が残ってるわ。それも食べ飽きたのか途中でやめてる。それに半分潰れた顔……口にはタオルが押し込まれてる。声も上げられなかったようね。……それに脳が無くなってる。内臓が好きなのかしら。でも眼球は好きじゃないみたい。何が好きなのかしら……やっぱり心臓?それとも肝臓?脳も悪くなさそう。ううん……どれかしら。とにかくこの死体を存分に味わったのが伝わってくるわ……。」
イエヴァは興味深そうに延々と語り続ける。
「イ、イエヴァ。遺体に関してはもう十分よ。」
カチューシャが気持ち悪そうな顔をして言う。するとイエヴァは立ち上がった。
「まぁ部屋の感じを見ても、とても人間の仕業のようには見えないわね。彼を疑っているのなら、その線は無いんじゃない?」
「そ、そうなの?」
「……じゃあイエヴァさんは、何者の仕業だと思うんでしょうか?」
「その話よりも、今はとにかく別の部屋へ行きませんか?ここは寒いし、込み入った話もし辛いでしょう。」
イエヴァがそう提案する。確かにその通りだった。
全員部屋を出る。
「ブルー……まさかな。」
コジロウがボソリと呟いた。
◾️8番車両 自室
1番近かった自分の部屋で続きを話す事にした。
こちらはベッドに座り、周囲の座席にイエヴァとカチューシャが座る。そしてコジロウは部屋の扉にもたれかかっていた。
少し重い空気が流れる。常軌を逸した死体を見た後だ、それぞれに思う事があるのだろう……。
「それでカチューシャ、まずあの死体の事はどうするの?上に報告しちゃうの?」
重い空気の中イエヴァが口火を切る。
「いや、秘密にしたい……。これ以上ジョーゼットを混乱させたくない。」
「馬鹿なことを言うな。なぜこんな事を隠そうとする?それにシフォンについたら、どう足掻いてもバレる。」
コジロウが反応した。
「こんな事騒ぎにしたくないのよ。正義を問うならまずは犯人を特定して。」
彼女は薄赤い瞳でコジロウをキッと睨みつける。
すると彼は少したじろいだ。
「まぁ、カチューシャの気持ちもわかります。面倒事を増やしたく無いのでしょう。実は私も、せめてシフォンに着くまでは秘密にしておきたいのです。」
イエヴァが意味深な事を言って彼女を庇う。
「……なぜだ?」
「コジロウさん、カチューシャの言う通りまずは犯人を探しましょう。今騒ぎ立てると犯人も姿を現しませんよ?まずは泳がせないと。」
「探偵にでもなったつもりか……。犠牲者が増えるかもしれないだろ。」
コジロウはそう言うと、ふいにこちらを睨みつけてきた。
「それにルキ……拙者はお前を疑っている。」
彼の左目に着いた鋭い傷跡がこちらを身震いさせる。
「な、何故ですか……。僕にあんな事出来るわけがないでしょう?」
「ここに来た本当の目的を言え。さもなくば窓から放り出すぞ。」
コジロウは腰元に備えた刀に手をかけ、こちらに迫ってくる。
「何を言ってるんですか……。ぼ、僕はただシフォンへ行きたいだけです。」
「嘘をつくな。お前から狼のにおいがするぞ。」
この男は何を訳のわからない事を言っているのだろうか。
「コジロウ、いい加減にして!」
カチューシャが止めに入る。すると彼はまた怯んだ。
「彼が何しに来たのかなんてどうでもいい。」
「カチューシャ……?なぜこの男を庇う。」
コジロウの疑問に、イエヴァが割って入る。
「まぁまぁ、一旦お開きにしませんか?明日また考えましょうよ。とにかく上には報告しない。知らんぷりをすれば私たちが隠したこともバレませんよ。だからこれは秘密にする。……良いですよね、コジロウさん。」
「イエヴァ、お前まさか……。ったく……。」
コジロウは頭を掻きながら、何かに納得する。
「さぁ皆さん行きましょう。」
そう言ってイエヴァは立ち上がり、部屋の扉を開ける。そしてみんなを帰るように促す。
「イエヴァ?まだ話は終わってないわ。」
「いえ、明日続きを話しましょう。」
カチューシャは彼女の様子を疑いつつも、しぶしぶと部屋の外に出た。コジロウもそれに続く。
「……ルキさん、少ししたら医務室まで来てください。ユリについてお話ししたいので。」
イエヴァはそう言い残して出て行った。
謎が残る会話だった。コジロウがこちらを疑うのはまだ分からなくもない。しかしイエヴァとカチューシャはなぜこちらを執拗に庇った。それにイエヴァは医務室へくるように言ってきた。ユリの事?それは今言う必要があることか?しかし容体が気になるのは事実だったが。
おもむろにポケットに手を突っ込む。すると何か感触があった。そうだ、アレクのカバンから何かメモを見つけた。
それを取り出し、中を確認してみる。
そこに書かれた冒頭の走り書きが、こちらの記憶を強烈に呼び覚ました。
――彼の者へ裁きを与えよ。浄火されたモスリンの仲間へ贖いを
◾️1年半前の記憶 モスリン
夜半、燻んだ臭いの立ち込める焼け野原に、建物の残骸があった。そこには妹のルキが隠れ潜んでいる。
「アキお兄ちゃん!どうだった?」
妹のルキはこちらの名前を呼ぶ。本当の名前。
「ルキ、赤獅子の軍隊から食料を奪ってきたよ。」
「さすがお兄ちゃん!奇襲がうまく行ったのね!」
ルキは大喜びする。
「今日はルキの17歳の誕生日だろ?豪勢にしないとな。もうこの辺りには家畜も野生動物もいない。今はこのマズイ糧食しかないけど、我慢してくれ。」
「ありがとう、お兄ちゃん。私のためにこんな事をしてくれて。……でも他の仲間達は?」
「ダメだった。散り散りになったよ。生きてるかどうかも分からない。」
「そう……。まだモスリンには緑が残ってる場所がある。そこへ移りましょう?人も動物たちもそこへ移動したのかも。そうだ、モスリンビークへ行こう。私達の生まれた場所。あの森は祝福の鐘が護ってくれるはず。」
「まぁ望み薄だけど、ここよりは安全かもな。この辺りはもう軍隊がひしめいてる。……でももう夜も遅い。今はルキの誕生日を祝おう。」
そう言ってこちらは誕生日パーティの準備をする。
杭に突き刺した赤獅子の将校の首を燃やし、二人で唄を歌い始めた。
「謳われし者へ祝福をー、幸福な誕生を迎えたーその名はルキ!神は呼んでいる、ルキの名前を!……誕生日おめでとう!」
「えへへ、ありがとうお兄ちゃん!この赤獅子、蝋燭みたいによく燃えるね!」
ルキはその燃え盛る首を見て大喜びする。
「奪った石油を顔にいっぱい塗ったんだ。こいつは俺やルキを最後まで人狼呼ばわりして馬鹿にしてきた。それに仲間も一人捕まって殺された。こいつは燃やされた仲間達の痛みを一身に受け止めてくれているはずだよ?」
「本当よ、人狼呼ばわりして燃やすなんてひどい。……そうだお兄ちゃん、今日通りすがりの人から詩を教えてもらったのよ?」
そう言ってルキは紙を取り出した。
「……なんだそれ?」
こちらの言葉を聞いて、ルキはふふっと笑い、それを読み上げ始めた。
「彼の者へ裁きを与えよ。浄火されたモスリンの仲間達へ贖いを。その罪の証を彼の者へ刻み込むのだ。謳われし者は彼の者を許さない。その首を天高く掲げるのだ。さすれば、彼の者の呪縛は解け、モスリンは蘇る。」
「彼の者?誰だそれ?」
「赤獅子のリーダーの貴族らしいの。そいつを殺せばモスリンは救われるらしいけど、本当かな?」
「変な話だな。……でもそれを信じて見ても良いかもしれない。神は俺たちを救ってくれるのかな。」
「うん!これはきっと私達に与えられた神の啓示、使命なのよ!明日からはこれを目標に生きていきましょう?」
「ははは、確かにそれもいいかもな。生きる目的なんて無くなっていたし。……じゃあルキ、今はとにかく生き残るんだ。これからに向けて、ゆっくり身体を休めよう。」
翌日、僕たちはモスリンビークの森を目指した。
◾️8番車両 自室
悲しい事に、モスリンの惨禍が起きてから二人の兄妹の倫理観は大きく狂わされてしまった。赤獅子に仲間を殺され続けた絶望感から、自身も敵を傷つけている事を喜んでしまっている。ただし、殺そうとしてくる者を返り討ちにする事は正義のはずだ。そこに躊躇は無い。今は彼の者を見つけ出し、その首を天高く掲げねばならない。モスリンの再生のために。
◾️4番車両 ラウンジ
医務室へ向かう途中、またバーが目についた。相変わらずバーテンダーしかいない。
「ああルキ様。今日は妙に人通りが多いですね?何かあったんでしょうか?」
カチューシャ達の事だろう。もちろん正直に答えるつもりはなかった。
「ううん、僕は誰一人すれ違っておりませんけど。どんな様子でした?」
「客室乗務員が焦った様子で医者と警備員を呼んでおりましたよ。医者と警備員の二人は先ほど帰って行きましたが。」
「へぇ……何かあったんですかね。」
「さぁ?……ところでルキ様は待ち人と会えたのでしょうか?」
「いえ、まだですね……。」
「そうですか。もし誰をお探しか教えていただければ、見かけた際にお声がけさせていただきますよ?」
「ああええと、アレクさん……とアンですね。」
そう言えばアンの存在を忘れていた。彼女の姿もない。
「承知いたしました。……ところでルキ様、一杯お酒をサービスさせて頂けませんか?」
そう言って彼は急に酒を作り始めた。おそらく暇なのだろう。
そして慣れた手つきでシェイカーをシャカシャカと振り、グラスに完成した酒を注ぐ。そして青紫色の液体の入ったグラスを出してきた。……それを見て少しうんざりした。
「もしかしてまたモスリンブルーってやつですか?……あの騒ぎがあった後なのに。すみませんが、僕はこれを飲もうとは思えません。」
そう言うとバーテンダーはがっくりとする。
「ルキ様、確かに趣味はあまりよろしくないかも知れません。しかしこのお酒には本当の意味があるのです。――モスリンで起こった悲劇を忘れない。ブルーは病による災害ではなく、人災なのです。その裏に隠されているのは、人狼病にかかったと言われた人々が焼き尽くされた悲惨な事件です。無差別で、罪のない人が多く焼かれました。私は水面下でそれを糾弾するための活動をしています。」
急に何の話だ……。糾弾するための活動……?まさか彼が?
「……ラウンジで話があるというのは、あなたなのですか?……もしかしてあなたが僕をこのジョーゼットに招待したという事ですか?」
そう訊ねるとバーテンダーは口元に指を添える。
「……ルキ様、乗車券をお持ちですか?」
バーテンダーの言葉を聞いて、確信する。
ポケットから乗車券を取り出して、スッと彼に見せた。すると彼はうんうんと頷く。
「ありがとうございます。念のため、詩を聞かせていただけませんか?……モスリンの人間ならばその使命を謳った詩を聞いたことがあるのでは無いかと思います。」
合言葉を言えということか。……おそらくこれだと思い当たるものがある。もはや一言一句心の中に刻みつけられた、自身の心に言霊として宿る詩が。それを心の中で反芻し、読み上げる。
『彼の者へ裁きを与えよ。浄火されたモスリンの仲間達へ贖いを。その罪の証を彼の者へ刻み込むのだ。謳われし者は彼の者を許さない。その首を天高く掲げるのだ。さすれば、彼の者の呪縛は解け、モスリンは蘇る。』
そう告げると、彼は納得したようにフッと息を吐き出す。
「……ありがとうございます。私はデミトリ。協力して使命を果たしましょう。」
彼は少し安堵しているようだった。
こちらも首謀者と合流できた事に安堵する。早速聞きたいことがあった。
「それでデミトリさん、彼の者とは誰ですか?このジョーゼットに乗っていると言われている赤獅子の貴族とは。」
そう訊ねると、彼は両肘をテーブルにつけ、指を組む。そしてその上に顎を乗せた。
「彼の者、それはサリ・シフォンヌという男です。シフォンの貴族で、表舞台にその名は知られておりません。しかし寄生虫のようにシフォンを内部で操っているのだそうです。……そして今はこの列車のオーナーを乗っ取り、ソル・ジョーゼットを名乗っていますよ。」
今朝出会ったあの威圧感のある貴族か。1番車両で護衛をぞろぞろと従えていたあの男。納得の行く話だった。……サリ・シフォンヌ。奴こそが目的の人物、その首を狙うべき対象か。
「ところでルキ様は、アレク様をお探しなんでしたね。私もここで待っているのですが、一向に姿を見せず困っている所です。」
アレクはさっき殺されているのを確認した。今なら正直に言ってしまった方がいいだろう。
「……彼は702号室で殺されました。それも、あまりにもひどい有様でした。」
そう告げるとデミトリは驚愕とする。
「な……今すぐ彼の様子を確認しに行ってもよろしいでしょうか?」
「……分かりました。僕は他に行く所がありますので、また合流しましょう。」
デミトリは会釈をしてそそくさとラウンジを飛び出した。誰もいなくなったラウンジでフッと吐息を漏らす。計画の首謀者が見つかり安心した所ではあるが、あまり楽観視出来ない状況でもある。
とにかくこちらは医務室へと向かった。
◾️2番車両 通路
通路の奥、1番車両へ向かう扉の横にいつも通りコジロウがもたれかかっていた。見たところ寝ているようだ。しかし彼は一人でずっとあそこにいるのだろうか。彼には目をつけられてしまった。そっと起こさないように医務室の扉をノックして、静かに開け放った。
◾️2番車両 医務室
医務室は清潔な香りの中に、少しだけ血の臭いが混じっている。そして奥のベッドにユリが寝かせられ、その様子をイエヴァが横から覗き込んでいた。ベッドは所々青紫色に染まっていて、あまり容体が良さそうにも見えない。
彼女はこちらの目をゆっくりと見て、微笑んだ。
「ルキさん、来ていただきありがとうございます。どうぞこちらへ。」
そう言ってイエヴァは手招きをしてくる。
こちらもベッドの側面へ近づき、イエヴァの隣まで来る。そして横に寝ているユリの顔を覗き込んだ。
「……時折目が覚めては、発狂するような声を上げてこの青紫色の血を吐き出すんです。」
そう言って彼女は指でユリのまぶたを開く。
「彼女の瞳、前見た時は黒かったのに、今はこんなに青くなっているのです。輝き始めているのが分かりますか?彼女は覚醒の時が迫っているのですよ。」
「はぁ……覚醒……?」
こちらの言葉を無視して、彼女は続ける。
「確認しておきたいのですが、ユリはモスリンの人間でしょうか?」
「まぁ……はい。」
「うふ……そうですか。やはり今回の惨殺事件……決まりですね。」
彼女は奇妙な笑い声を漏らした。
「何を納得したのか分かりませんが、まさかユリがアレクさんを殺したとでも言いたいのですか?」
そんな無茶苦茶な話があるとは思えない。ただもしかしたらブルーという病が何か関係しているのだろうか。
「……ルキさん、何を言ってるんですか。」
イエヴァはユリを見ながら伏し目がちに言う。
「あなたですよ。」
そして首を90度回し、こちらを見てきた。その目は丸く剥かれていて、瞳孔が開いたかのように黒々しくなっている。その異常な見た目に面食らい、ただたじろいだ、
「あなたもモスリン出身なのでしょう?」
イエヴァはカタカタと歯を鳴らし、薄ら笑いで聞いてくる。正直に答えたらまずいような気がした。
「いえ、僕はシフォンの人間です。」
咄嗟に嘘をついた。
すると彼女は眉をひそめる。
「その嘘……つまりはモスリンの人間に間違いないのですね。うふふ……。」
そしてまた不気味な笑い声をあげる。
「う、嘘なんてついておりません。」
「ほう、ではどこの地区の生まれでしょうか?例えばシフォン地区あたりだったり?」
「ええと……はい。」
そう言うと彼女は吹き出す。
「……すみません。そんな名前の地区はありませんよ?それにシフォンの吹雪の事も知らない人間が、いけしゃあしゃあと何を仰っているのでしょうか?」
「だ、騙したんですね……。」
そう言うと彼女はこちらの両肩を掴む。
「あなたも今私を騙そうとしたじゃありませんか。この土地の吹雪の事も知らなかったあなたが、付け焼き刃の知識で私を騙そうなど浅はかですね。さぁ、あなたの本当の出身地を仰ってください。当然モスリンですよね?」
彼女はヌッと首を近づけてくる。その異常な様子にいよいよ恐怖を覚え始めた。
「……そうだよ。モスリンだ。だ、だから何なんだ?」
そう言うと女は突如、発狂したかのように奇声を上げた。
耳をつん裂くようなその高い音が震える。ふいに耳を抑え、目を閉じてしまう。……まぶたをゆっくりと開くと、眼前にその瞳孔の開き切った黒々しい目が迫っていた。下まぶたが吊りあがり、うっとりとした表情を浮かべている。
「あはは……つまりあなたは……あなた様はモスリンの人狼なのですね!その青紫色の瞳、当然ですわ!」
青紫色の瞳?……何を言っている。
「俺は人狼じゃない。その侮蔑の呼び名を使うな!」
しかし彼女は勢いを殺さず続ける。
「分かりますよ……正体を隠されたいのですね。でもあの死体の惨状……とても人間の仕業ではございませんわ。それに彼の腕を縛り上げ、口にタオルを押し込んだ。あなた様はお食事をゆっくりと楽しんでおられたのでしょう?知性の高さもうかがえます。これが人狼以外の何者でしょうか!?」
女は眼前に迫る目をプルプルと震わせる。
「知ったことか!それにモスリンに人狼なんて存在しない!そんなもの勝手に作られた幻想だ!」
「いいえ、騙されませんよ!決して幻想ではございません!私はこの目で見たのですよ、人狼のお姿を!あはは……私は赤獅子の従軍医だったのです。」
――赤獅子――
その言葉が、脳へどす黒く不快な衝動を駆り立てる。
「赤獅子……?お前が?」
怒りが沸々と湧き立ち、それが徐々に憎悪、そして殺意へと変わっていく。
「ああ……焼け果てたモスリンのある村で、咆哮と共に人狼が顕れたのです!ああ……人狼が……人狼が……今目の前にも……。」
女は恍惚な表情を浮かべている。しかしその顔を満面の憎悪で睨みつけた。
「人狼人狼と……いい加減にしろ……赤獅子め、殺してやる。」
女を力任せに突き飛ばした。すると女は床へ派手に転がり込む。そしてこちらはそのまま馬乗りになり両手で女の首に掴みかかった。
――その手に力を込める。全力の殺意を持って。
「ぐぐっ……ぐが……」
女は声も出ず、喉から出る苦悶の音をただ鳴らし続けた。
しかしこの女に同情など一欠片も存在しない。首を折るまで、絶命するまで、ただただ力を込め続ける。
しかし突如背後から誰かに掴みかかられ、力づくで引き剥がされた。そして今度はこちらが首を腕で絞められる。
こちらも声が出ず、ぐがが……っと喉から苦悶の音を鳴らしてしまう。
「はぁ……はぁ……。コジロウ……さん。やめ……。」
女の掠れた声が聞こえてくる。
「ルキ……お前はもう一線を越えた。」
背後から東方訛りの声が聞こえてくる。……その力の強さに抗うことは出来なかった。
徐々に意識が遠のいていく――
◾️1年半前の記憶 モスリンビークの森
薄暮のモスリンビークの森には雨が降っていた。茶黒く枯れた草に白露がちらつき、足元を濡らす。霧で覆われた視界の狭い最中、自分と妹のルキは枯れた大樹にもたれかかり、雨宿りをしていた。
「せっかくここまで来たのに、ここももはや焼け野原か。なぁルキ、もう諦めてモスリンを脱出しないか?」
「ダメよ、お兄ちゃん。……私は神に留まるように言われているの。決してモスリンを離れる事は出来ない。」
「なぁ、神の声が聞こえるのは分かったけど……ルキ、今は生き残る必要があるんだよ。」
「お兄ちゃん……私の名前を呼ぶのはやめてほしい。最近なんだかむず痒くなるの。……そうだ、名前を交換しない?私がお兄ちゃんの名前、アキを名乗って。それでお兄ちゃんがルキって名乗るの。どう?」
妹が人差し指を突き出して言う。
「……?いきなりどう言う事だよ。」
「お願い、ルキお兄ちゃん。お互い偽名で活動しましょう?」
「偽名?……それにしては近すぎやしないか。」
「いいのいいの。それよりお兄ちゃん、来て。ご馳走を見つけたの!ここ数日細々と糧食しか食べてないでしょう?」
妹は駆け出した。
焼け落ちた大樹のうろの中に入る。昏く狭いそこには人間の骸が押し込められていた。……その赤い軍服。赤獅子か。
「この兵士、もしかしておまえが殺したのか?」
「うん。数時間前の夜かな。」
か弱い娘のルキがこの屈強そうな兵士を殺したのか?この霧の中、うまく不意をついたのだろうか。雨で足音も消せる。……首の抉るような切り傷。ナイフでやったのか。しかしこの死体、野生動物の生き残りでもいたのか身体を喰われているようだった。
「私、これで喰い繋いでいくことにしたの!お兄ちゃんもどう?」
ルキは屈託なく笑う。しかしその言葉に驚愕した。
「……おいルキ、まさか人間を喰い始めたのか?……いつから?」
「数日前。お腹が空いて仕方がなかったから、糧食の代わりに。でもおかげで元気になってきたの。これなら一人攫えば良いだけだし、簡単よ?それに赤獅子はどんどん湧いてくるの。お兄ちゃんもどうかな?……こレおイシイヨ?」
ルキはくぐもった声を出す。
そしてその赤獅子の死体を見て、ルキはその目から青白い燐光を励起させた。そしてそのまま指で臓物のかけらを引きちぎり、ご馳走様のようにそれを喰らい始める。
強烈な死臭が漂う中、ぐちゃぐちゃと鳴る咀嚼音と共に、彼女は恍惚な表情を浮かべた。
頭がおかしくなりそうだった……。
このモスリンの惨禍によって妹はここまで狂わされてしまったというのか……。
霧中の森、雨音の狭間からモスリンの鐘の音が聞こえてくる。遥か遠くにあるそれはぼんやりとこちらを呼んでいるようで、それがただ耳の中でこだました。
◾️8番車両 自室
目を見開く。明るい天井……。それにしんと静まり返った室内。ここはジョーゼットの自室か。どうやらベッドで寝かされているようだ。
外はまだ暗いが、窓からはもうカリカリとした音が鳴らなくなっていた。どうやら吹雪も少しずつ弱まっているようだ。徐行だった列車の速度も上がっている。
……先程の過去の記憶を辿る。妹は焼けたモスリンビークの森で異常な変貌を遂げてしまった。……まさか?イエヴァの言葉を思い出す。まさか彼女はその人狼とやらに変貌してしまったのだろうか。……いや、確信なんてない。
それよりも先程、冷静さを欠いてイエヴァを殺そうとしてしまった。そしてコジロウに制止され、意識を失った。
今どういう状況なんだ。
ガバッとベッドから起き上がる。
「あっ。」
女のびっくりするような声が聞こえた。
その声の主は、銀髪の女。
「カチューシャ……いたのか。俺は……どうしてここに?」
そう訊ねると彼女は困ったように眉をひそめる。
「さぁ?コジロウがここにルキを連れてきたけど。」
「そうなのか。……で、何でカチューシャもここにいるんだよ?」
「ええと、さっき殴った事を謝ろうと思って。」
そう言って彼女は頬を指で掻く。確かに殴られたような気はするが。
「そんな事気にするなよ。本当にそれだけか?」
そう訊ねると彼女は首をかたむけ、伏し目がちに考え事を始める。
……何だと言うのか。
黙って彼女の様子を見ていると、少し逡巡したのち、ようやく話し始めた。
「……デミトリと話したそうね。計画の事も知ったのかしら?」
「なんだ……カチューシャも一枚噛んでいたのか。乗車券を見せた時には反応しなかったくせに。」
「ごめん。モスリンの人間はもう十分いたから、あなたはもう巻き込まなくていいと思ったの。」
「何でだ?人数は多い方が良いんじゃないのか?」
「……まぁ、暗殺に寄与するのは少数の方がいいわ。でも今はまずい状況ね。現状、モスリンの人間があなた以外全滅した。」
「なんだって?……アンは?」
「アン?……ああ、あの904号室の女の子、アンって言うのね。……昨日いなくなったのよ。他にも何人かいたけど、全員失踪してる。でも派手に殺されてたのはさっきの702の客だけ。多分あれは警告なんでしょうね。どうもこの計画、相手方に漏れてるみたい。」
「そうなのか。……そんな事でその計画とやらは大丈夫なのか?」
こちらの疑問に対して彼女は苦い顔を浮かべた。
「本当は今夜1番車両へ襲撃する予定だったけど、明日の深夜に合わせてデミトリと計画を練り直してる所よ。あなたに声をかけてるのもその一環ね。」
「そうか。……でももし計画がダメそうなら俺一人でも特攻する。その為の武器は持ち込んできたんだ。死ぬのは恐れていない。神の啓示、使命を果たす為ならなんだってやる。」
「ルキ……。その心意気は有難いけど、あなたは散々騒ぎを起こしてるのよ。今殺されていないのが不思議なくらい。だから明日の決行まではここでじっとしていて欲しい。」
彼女は真剣な眼差しをこちらへ向ける。
「……まぁ、明日の深夜までは言う事を聞いてもいいけど。」
「あら、それは良かった。」
そう言うと彼女は安堵の吐息を漏らす。
「じゃあこの話は一旦終わりにしましょう。」
ふと時計を見れば午前2時を過ぎていた。
夜も遅いが、カチューシャは手の甲に顎を乗せ、また何やら考え始めた。まだ何かあるのか。
「……ねぇルキ、モスリンに人狼って本当にいるの?……あなたの目、昨日は黒かったような気がするんだけど、妙に青くなってない?ブルーって……本当は人狼病なんでしょ?まさかあなたが犯人じゃないわよね?」
彼女はこちらの目をじっと見る。
人狼の話……そう言えばイエヴァにも目の色の事を言及されていた。そして今まさにカチューシャにも同じ事を言われてしまった。ズシリと頭に重いものがのし掛かる。そしてどんどん呼吸が乱れていく。自身の異変を確認しないと……。そそくさとベッドから立ち上がり、洗面台へと向かう。
鏡に自身の顔が映り込む。相変わらず覇気のない顔。……そしてその目には、真っ青になった瞳だけが確かに存在した。
……その瞳が揺らぎ、自身の顔がどんどんと憔悴していく。そして頭が霞に覆われ始めた。
「ルキ?だ、大丈夫?」
霞の中から、ふいにユリの顔が現れた。屈託のない笑顔に、青く発光した瞳。……彼女はじきに覚醒する?
続けて記憶の中の変貌した妹のルキも現れる。青白い燐光が励起した瞳、薄ら笑いをあげながら人肉を貪る姿。
そして自分自身、アキの青い瞳が再度浮かび上がった。……まさか自分もそうなのか。頭が混乱し始めた。
「あああ……。みんな狼なのか?あああ……。」
「お、落ち着いて!ルキ!」
ルキ……妹の赤い血が垂れた唇が映る。尖った歯と青紫色の口内を覗かせて。
「ルキ?お前は狼じゃないよな……人を喰う事を覚えただけ……。」
「人を喰う……?何を言ってるの?」
やがて霞が白黒の砂嵐に変化し、ぐらぐらと脳が揺れ始める。頭を抱えて抑えようとしてもまるで制御が効かなかった。
記憶と現実の世界が交錯し、眼前には緑生い茂る焼け果てた森、ねじ曲がったジョーゼットの車内がマーブル柄に混ざり合う。
――そして脳内に雷鳴が轟く。激しい明滅の末、702号室が、上半身だけの惨殺体が浮かび上がる。続けて自室で寝ている歪んだ自分の姿、そして次に医務室が。黒髪の泣きぼくろの女が黒々しい瞳でこちらを見る。あなたですよ。そんな事を言って。
「あああ……あああ……本当に俺がアレクを喰ったのか?まさか寝てる間に、狼に目醒めたのか?そんな訳ない……。記憶にない……。見覚えがない……。」
「落ち着いて、ルキ。変なこと聞いてごめんなさい。トラウマを刺激してしまったのね……。落ち着いて……。」
誰かに背後から抱きつかれるような感触がした。
また眼前は砂嵐になる。そして銀色の髪がぼんやりと浮かび上がった。
「ルキ!しっかりして!」
「うるさい!俺はアキだ!」
雷鳴が頭を駆け巡り続ける。なぜこんな事になってしまったのか。平和だった過去のモスリンへ戻りたい。みんな笑顔だったはずじゃないか。なぜここまでモスリンの人々は悪夢を見て、妹は、自分は、狂ってしまったのか。ああ……あの頃が懐かしい。祝福の季節だったあの頃、あの頃、あの頃――
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