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三日目

祝福

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10年前、やわらかい風がなでるモスリンビークの緑森。木々の合間には祭りの装飾が施されていた。その一本一本の木の狭間を縫って野生の狼が走り回っている。その様子をじっと観察し、狙いを定める。そしてヒュンっとクロスボウの矢を飛ばした。それは見事狼の首に刺さり、前へと転がり倒れ込んだ。周囲から子供や大人の歓声が上がる。
この大会にはたくさんの観客がいた。この成果に喜ぶ者、悔しがる者、それと関係なくケンカを始める者、ただただ酒を楽しむ者、それらの声が入り混じる祭りの空気が心地よい。
そこへまだ6歳のルキが駆け寄ってきた。あつらえた緑の布地と毛皮の民族衣装姿が可愛らしい。お兄ちゃんすごい、優勝よ!と言ってルキはこちらに抱きついてきた。僕はそんな幼き彼女の頭を優しく撫でる。こんな日々が永遠に続けば良いのに。
鐘の声が遠くから聞こえる。そんな神の祝福の雰囲気の中、年頃の女がこちらへ歩いてきた。お姉ちゃん、こっちこっち!そう言ってルキはその女を呼ぶ。その風になびく銀の髪、彼女の顔はおぼろげで、霞んでいた。
夕方になる。赤暗い空の下、人や木々の黒い影が遠くまで伸びている。そんな中三人は集まって一緒に踊っていた。民族衣装を纏ったその銀髪の女は見よう見まねで下手なスキップを披露していた。僕とルキが笑うと、女は僕に掴みかかってくる。初めてなんだから仕方ないでしょう!そんな事を言っていた気がする。
その夜、焚き火に照らされる暗い森の中、ルキは泣いていた。お姉ちゃんはモスリンを離れなければならないの。女はそう言って気丈に笑顔を見せた。お兄ちゃん、ルキちゃん。短い間だったけど、本当にありがとう。そう言って女は闇に消えていった。

■3日目 8番車両 自室

ベッドの上で目を覚ます。窓から入る日差しの照り返しが眩しかった。吹雪は去ったようだ。今は太陽の熱が部屋を暖めてくれていた。
……さっきのは10年前の平和な頃の夢。モスリンで毎年行われる狼獲祭の時期だ。家畜を喰らう狼を減らし、その毛皮を衣類や輸出品に変えるために行われていた。田舎者が集まっていかに早く野生の狼を仕留められるかを競い合い、16の頃は優勝出来た。なぜなら青年部の参加者が3人しかいなかったから。喝采する仲間、嫉妬するライバル、懐かしい。あそこにいた人々は全員死んだ。

窓の外は景色が少し変わっていて、小さい町が遠方に何箇所か見えている。それに巨大な石油パイプのようなものも遠方へずっと伸びている。
最終日、徐々に首都シフォンへ近づいているのだろう。

今日は部屋でじっとしていろと言われた。おもむろにカバンを取り出し、中の荷物を散らばして床に座り込む。
鉄のパイプやら部品を寄せ集め、ガチャガチャとそれらを組み上げ始めた。少しの間それを続けると、やがてそれは拳銃の形に仕上がる。
カチャリとそれを部屋の扉に向け、トリガーに指を添える。

「バーン。」
手で銃を上に傾け、発射するフリをした。
本当はクロスボウの方が得意だが、隠れて持ち運び出来るような代物じゃない。それに悲しいかな、最近は銃の扱いにも慣れてしまった。
ただこれは所詮手作りの銃だ。ここで試し撃ち出来ないのは少し不安にさせられる。照準や銃身は曲がっていないだろうか?今度は念入りに照準器を覗き込み、ドアノブの方をじっくりと狙った。

――すると突如扉が開いた。

「おは……えぇっ!?」
部屋に女が入ってきて、こちらを認識するや否や腰を抜かした。そのままその銀の髪を派手に揺らして床に倒れ込む。ポロッと水色の帽子が床に転がった……。

まずい……咄嗟に拳銃をポケットにしまう。

「あ……あんたねぇ。痛つつ……。」
彼女は腰を強打したようだ。手を添えてすりすりとしている。

「カ、カチューシャ、ノックぐらいしてくれよ。」
こちらは立ち上がり、代わりに扉を閉める。そして落ちた帽子を彼女の頭に被せた。
手を差し出して、彼女を起こす。

「はぁ。」
カチューシャは着衣を少し整えて、嘆息を漏らした。
そしてその薄赤い瞳でこちらをキッと睨みつけてくる。

「もう!あんたの事がよく分からないわ!昨日の事と言い、何なのよ一体!」

昨日の事?……そうだ、少し思い出した。昨夜は自分の瞳の色の変化に絶望してしまい、錯乱してしまった……。

「昨日はごめん。動転してしまって、カチューシャに迷惑をかけてしまった。」
こちらが素直に謝ると彼女も勢いを殺した。

「……そんな事気にしないでいいわ、――アキ――。それよりも――」

「ちょっと待て、なんで俺の……名前を知っている?」

「えっ……?あんた昨夜叫んでたじゃない。俺はアキだって。」
昨夜叫んでた?……何も覚えていない……。

「俺がなんか言っていたのか……?その、覚えてないんだ。教えてほしい。」
そう訊ねると彼女は首を傾げ、伏し目がちに昨日の事を思い出そうとした。そしてつらつらと断片的な言葉を紡ぎ始める。

「そうね……。『俺はアキだ。ルキは人を喰う事を覚えただけ。俺も人狼なのか。……もしかして俺がアレクを殺したのか。身に覚えがない。俺は童貞だ。モスリンの悪夢で俺は狂ってしまった。平和だったモスリンのあの頃に戻りたい。……あの頃に。』……だいたいこんな感じかしら。」
そう言ってカチューシャはにやりとほくそ笑む。

その言葉に恐怖した。人に言いたくない事ばかり言ってしまったようだ……。

「ああごめん、一個嘘が混じってるわ。」
更に彼女は悪辣な笑顔を浮かべる。……しかしどれが嘘なのかが分からなかった。

「何が嘘なんだ……カチューシャ、教えてくれないか?」
そう訊ねると、彼女はなぜか同情するような目でこちらを見て来た。

「ごめんなさい。……全て真実よ。まぁ人それぞれ事情はあるわよね。」

「事情……そうだな。もし俺が人狼なのだとしたら、もしアレクさんを殺した張本人なのだとしたら……。復讐と関係のない殺人を犯した咎人だ。俺に正義なんて存在しなくなってしまう……。」
昨日の事を思い出すと、急に心が折れそうになった。

「アキ。……まさか弱気になってるの?」
彼女の言葉に目を伏せる。するとカチューシャはこちらの両肩を思い切り掴んだ。ぎりぎりと力を込められ、少し痛い。

「そんな手前勝手な倫理観なんて知ったこっちゃないわ。それにあたしはあんたが殺したなんて思っちゃいないの。丁度いいわ、今日の任務を与えてあげる。この車内で、そのアレクと言う仲間を殺した犯人を探して。人狼なのか、それとも単なる猟奇犯なのか、そしてそれが誰なのかをハッキリさせて。そうしたらあんたもスッキリするでしょう?場合によってはそいつを死体にしても構わないわ。」
カチューシャは睨みつけてくる。その叱責の様な言葉に啓発された。

「……分かった。俺が犯人じゃないって事を証明してみせる。」

「頼りにしてるわよ、アキ。」
カチューシャはこちらの肩をポンポンと叩く。
その時、窓がガタリと揺れた。
彼女はそれに驚き、小走りで窓の方へ向かって様子を確認する。

「今、人影がこちらを覗き込んでいたような……。気のせいかしら?」
彼女はため息をつく。

「……まぁいいわ、じゃあ今日はよろしく。……痛つつ……」
カチューシャは腰をおさえながら部屋を出ていった。

時計を見れば正午となっていた。この時間帯で人が多いのはレストランだろうか。
万一に備えて銃やナイフを忍ばせ、外に出た。


◾️8番車両 通路

通路に出た途端、目の前に大男が腕を組んで壁にもたれかかっているのが見えた。紺色の制服、細い左目の鋭い傷跡。

「コ、コジロウさん……。」
昨日彼に首を絞められた事を思い出し、思わず身震いしてしまう。その情けない様子を見てかコジロウはため息を吐く。

「はぁ……危害を加えるつもりはない。」

「……?じゃあ何か他の用事があるんですか?今からレストランへ行こうと思ったのですが……。」

「残念ながら、レストランは閉鎖中だ。昨日ユリが青紫色の血を吐いたからな。ブルーだブルーだと、客が騒ぎ立てた。……とにかく、そのユリの件でイエヴァが呼んでいる。ついてこい。」
そう言ってコジロウは壁から離れ、廊下を歩き始めた。

イエヴァが呼んでいる……?あの赤獅子の女……。不快感がまた蘇った。しかし危害を加えるような真似はもう出来ない。
しぶしぶとコジロウの後ろをついていった。

◾️通路

窓から燦々と光が差し込んでくる。その眩い輝きは昨夜の終末の様な景色とはまるで違う、地獄からの生還を祝福しているかのようだった。しかし車内は寂しげで、誰一人いない。まるで自分達以外消失したかの様に、ただ列車の進む音だけがガタンゴトンと鳴り響いていた。

「……誰も外に出ないんですね。やはりブルーの騒ぎのせいでしょうか。」

「ああ。ただ昼過ぎに、オーナーのソル・ジョーゼットが、ラウンジでブルーについて何か説明するらしい。」

「昼過ぎに……そうですか――」
そう言いかけた時、不意に自分の腹がぐぅっと鳴った。……腹が減ったようだ。
その音を聞いたコジロウは立ち止まり、ほくそ笑む。そして内ポケットからおもむろに何かを取り出した。それは植物の皮で包まれた何か。草紐を解くと皮がめくれ、中から白光りした手のひらサイズの球体が3つほど出てきた。よく見ればそれは粒々としている。

「おむすびだ。一つやる。」
コジロウはその球を一つ手渡して来た。……かぶり付けば良いのだろうか?じっと様子を見ていると彼はそれをもう一つ掴み、食らい付いた。なるほど。こちらもそれに食らい付く。すると舌の上で炭水化物のほのかに甘い味がした。
……!?なんだ!?歯で噛むと中からドロリとした何かが舌の上に踊り出てきた。それは非常に酸っぱく、顔中の筋肉が強張る。

「うわっ……なんですかこれ!?どろどろしてて酸っぱい!腐ってますよ!」
こちらの様子を見て彼は笑い出す。

「はは、それは梅干し。梅を塩で漬け込んだものだ。慣れるとクセになるぞ。」

「はぁ……?これは東方の料理なんですか?」
丸い球の中にドロドロとした実が見えた。

「料理……まぁそうだな。この国では東方米は高級品だぞ。味わって食え。」
彼は得意げな顔をする。
腐ったものをあえて食べる文化なのだろうか。しかしせっかく貰った手前、こちらは冷や汗をかきながら無理やり喉へ流し込んだ。

「お、美味しかったです。ありがとうございます。」

「ほう、気に入ってくれたか。じゃあ今度梅干しの漬け壺をやる。梅がたくさん入ってるぞ。」
彼はにんまりと笑う。……勘弁してくれ。

「……しかし、なぜ僕なんかにこんな施しを?昨日は僕をとっちめたじゃありませんか。」
こちらが訊ねると、コジロウは再び歩き始める。

「まぁ……ルキ、お前はイエヴァに気に入られた。気の毒な事にな。危害を加えるなと強く言われた。……それに、お前は悪い奴じゃ無さそうだしな。」
そう言ってこちらの肩をポンポンと叩く。

「悪い奴じゃ無い?……いえ、昨日僕はイエヴァさんの首を絞めて殺そうとしました。一片の淀みなく、純粋な殺意を彼女へ向けました。……なのに何故そう思えるんですか?」

「イエヴァに関しては……まぁアイツも悪い。それに人狼が首を絞めるなんて生ぬるい殺し方はしない。鋭く長い爪を振り回すか、あるいは牙で噛み砕く。そして爪や牙についた血を長い舌でゆっくりと味わう。……お前の瞳は妙に青いが、それが似た病の症状なのか、まだ発現していないのか。まだ分からん。とにかく702の客を殺したのは別のヤツなんだろうと思い直している。」
コジロウは嘆息を漏らす。

「……やけに人狼とやらに詳しいんですね。あなたは人狼と遭遇したことがあるんですか?」

「まぁな。……そんな手作りの銃じゃ全く歯が立たないぞ。」
コジロウはこちらのポケットをちらっと見る。……気付いていたのか。そのまま彼は続ける。

「やつらは俊敏で、一気に距離を詰めてくる。特に森の中は霧がよく覆う。銃で狙う暇はない。だから赤獅子は火炎放射器で広範囲に焼き払う事を選んだ。火で囲み、銃を撃ち続ける。」

「はぁ……それ以外に何か対処方法でもあるんでしょうか?」

「まぁ、拙者にとってはこの刀で心臓を貫くのが最も効果的だ。一撃だぞ。実はこの刀はな――」

コジロウが刀について長々と語り始める。東方のフジ霊峰の神水がどうとか……いやどうでもいい。
辟易としながらそれを聞き流していると、いつの間にか2番車両に着いていた。

そこでは小柄な女が静かな様子でタバコを吸っている。肩にかからない程度の黒髪に、左目の下の憂ある泣きぼくろ……。

「ルキさん、こんにちは。来ていただけたのですね。」
イエヴァだ。彼女はこちらに気付くと、タバコを捨てて近寄ってくる。

「イエヴァさん。その……昨日はすみませんでした。……首を絞めてしまい。」

「いえ、気にしておりませんよ。とにかく医務室までお入りください。」
そう言って彼女は扉を開け、苦笑いを浮かべながらこちらを迎え入れた。

「達者でな。」
コジロウに見送られながら、その部屋の中へと入った。

◾️2番車両 医務室

中は異様な臭いで立ち込めていた。以前の清潔な香りを一掃するほどの獣臭さ、そして強烈な死臭。

「この臭い……。」
ぼそりと呟く。するとイエヴァは破顔の表情を見せた。

「あなた様にとってはお馴染みの香りでしょうね。ユーリャの花の香りです。人狼は強烈にそのかぐわしき匂いを放つのですから。あなた様からもその香りが微かにします。」
イエヴァはこちらの首に顔を近づけて目をつぶる。その鼻からスゥッと聞こえてきて、寒気がした。

ユーリャ……。モスリンで葬儀の際に供えられた荘厳な花。しかし誰しもが忌み嫌う、死の花と呼ばれた強烈な死臭と霧のような花粉。

その香りを放つ根源の方に目が行った。ベッドの方だ。そこに寝かされているのは人間の形をした けだものだった。だらりと垂れた腕は脈々と硬化していて、その指先からは刃物のような長い爪が伸びている。そして破砕した頭部にも異常な数の尖った牙が残っていた。
イエヴァはその青紫色に染まり切ったベッドへ近づき、おもむろにシーツを剥がす。するとその けだものに着せられた緑色の衣服が姿を現した。それは所々破裂したかの様に破れていて。服の内側から見える身体もまた脈々と、そして腫瘍のようにぼこぼこと隆起していた。更にはその腫瘍が破れ、火傷のように爛れてしまった痕も無数についている。そして露出した青紫色の心臓が……拍動をやめてしまっていた。

「ユリは発現したのです。あの夜、雷鳴と共に歌が聞こえてきました。すると彼女は絶叫と共に変異を始めたのです。あれは恐らく祝福の歌だったのでしょう。……しかし残念な事に彼女は自身の変異に耐え切れず、絶命致しました。ただ私は相見えることが出来たのです。かの人狼の誕生の瞬間と……。」
イエヴァは恍惚な表情を浮かべ、薄ら笑いを始めた。

「これが……ユリだって……?」

その顔は見るに耐えないほどの惨状だった。真っ青に染まったそれは原型をとどめておらず、頭蓋骨ごと粉砕している。余程の苦痛による絶叫だったのか……顎の骨は外れ、筋肉は断裂していた。表情などはもはやとてもじゃないが読み取れない。
その亡骸に近づき、膝を崩した。
その変異した青紫色の手をそっと握る。あの小さかった柔らかい手が、こちらの手を越えるくらい肥大化し、硬質化していた。……本当にこれがユリなのか?信じたく無かった。どこかで遊び回っていて、また誰かに迷惑をかけているんじゃないのか?喪失感と非現実間で心がぐらついた。涙が一滴一滴こぼれ始める。未だにモスリンの人間が次々と悲惨な死を遂げていく。いつまでこの罰を受け続け無ければならないのか……。

イエヴァはそんな亡骸を見つめ、ただ薄ら笑いを浮かべている。時折笑い声が漏れ出て、大層楽しそうだ。

「そんなにこれが面白いのか?人の命をなんだと思っているんだ?」
また苛立ちが抑えられなくなってくる。その様子を察知してか、イエヴァはハッとする。

「申し訳……ございません。あなた様のお友達でいらっしゃるのに、また取り乱す所でした。お許し下さいませ。あの夜あなた様を激昂させてしまってから、反省したというのに……。はぁ……はぁ……。」

彼女は急に過呼吸のように息を乱し始める。

「ああ……この……。この……。」
そして突然、彼女は自身の頬を拳で何度も殴り始めた。クセなのかと疑うほど自然に……しかし一発一発自身を傷つける姿は見るに忍びない。

「そ、そこまでしなくていい……。やめてください。」
すると彼女は鎮まり、急にどんよりと暗い表情を浮かべた。そして物憂げにぼそぼそと口元を動かす。

「申し訳…………ございません……。」
イエヴァは椅子に座り、頭を伏せ、ぐったりとする。その様子に面食らう。さっきまで薄ら笑いをしていたのに、今度は寡黙な人形のようになってしまった。

「……とにかく、ユリを手厚く葬ってやってくれないか?このままじゃ可哀想だ。」

「シフォンに着いたら、そのようにいたします。……かようなお姿では正規な手順は取れませんので、わたくしの方で上手く隠蔽致します。と言っても、こっそりご遺体を運び出し、埋葬するだけですが……。コジロウさんにも上手く協力して頂きます。」

「ありがとうございます、イエヴァさん。」
そう言うと、彼女はまたボソボソと喋り始めた。

「……私は昔、シフォンで医師の見習いをしておりました。……2年程前、院長からブルーと呼ばれた病の話を聞かされまして……そして貧しい医療体制のモスリンへ、赤獅子と帯同して行くように手引きされたのです。……しかしそこで赤獅子が行った惨い虐殺を目の当たりにして、騙されたのだと気付きました。その病を浄火するために、虐殺の手助けをするために私は呼ばれたのだと。傷ついた兵士を治療し、より効率的に森や村を燃やす為に。……私は自分自身の存在意義を見失いました。」
イエヴァは語り始めた。


◾️1年半前 モスリン

燻んだ香りのする焼け落ちた村の外れで、私は瓦礫に座ってタバコを吸っていた。最近覚えたこの草を紙で巻いた筒は、私の荒んだ心を鎮めるには良く作用してくれる。悲しいかな、種火はいくらでもあった。

「おいそんなところにいたのか!負傷者が出たから早く来い!」
倒壊した廃屋の方から、誰かの高圧的な声が聞こえる。赤い軍服に徽章。……小隊長だ。この男は私を呼んでいる。

この小隊長の事は心底嫌いだ。情け容赦が無く、残忍で……。欲望に従順。ただこの場は天職なのか、活躍も目ざましいらしい。少し前までただの一兵卒だったはずなのに、すぐに部下を率いるようになっていた。それがまた腹立たしい。

「誰が行くものですか。今日は村を襲って、何人殺したと思っているんですか。」

「なんだと!?てめぇは自分の仕事を忘れたのか!?」
男はどんどん近づいてくる。

「私を騙した奴等に言われたくありません!私はモスリンの人々の命を救うために来たのですよ?なぜこんな事をさせるのですか!」

「おいイエヴァ……程々にしろ。また悪目立ちする。」
そう声をかけてきたのは、東方の戦衣装を纏った男。その体躯は私の二倍位ある。

この男は何を考えているのかよく分からない。赤獅子の小隊に帯同していて、自慢げに刀を持ち歩いているくせにいつも見ているだけで何もしない。誰が傷付こうが、誰が死のうが一切感情が動いていない。ただ何故か私にだけは今みたいに気遣ってくる。

「……。」
私はしぶしぶ小隊長に付いて行く。それが悔しくて、不覚にもまた涙をこぼしてしまった。舌打ちする音が聞こえる。

「……いつまでもメソメソと、そろそろ慣れたらどうだ!素直に命令を聞け!命令を!」
小隊長は私を叱責し、また顔を殴って来た。そのまま瓦礫の上に倒れ込む。いつもいつも命令を聞けとうるさい。……頬が痛い。

「こんな事したくない……。こんな事したくないのよ……。シフォンで医者になりたい。」

「いい加減にしろ!泣き喚く女は嫌いだ!」
小隊長はまた拳を振り上げる。咄嗟に目を閉じてその降りかかる痛みに備えた。
――しかしそれが振り下ろされる事は無かった。東方の男がその拳を掴み、振り払った。

「……負傷者がいるんだろ?急げ。」
彼はまた私を庇ったようだ。彼は私の腕を掴み、引き起こしてくれた。

「……ちっ、ハンターのくせに出しゃばりやがって。東方の侵略者どもが、気にくわねぇ。おいチビ女、さっさと来い!」
小隊長は駆け出す。ただし私はあえてゆっくり歩いてついて行った。

村の真ん中まで進む。そこは硝煙が立ち込め、無数の廃屋の破片が散らばって、入り組んでいた。枯れた大樹の広場には石油や黒焦げた死体の臭いが漂っている。大樹の枝からはロープがたらりと垂れていて、その先に真っ黒な人間達が飾られていた。……焦げた石畳の上で、赤い軍服を着た男達がたむろしている。

「泣き虫グズがやっと来たか。」
誰かがこちらを見て罵倒している。今更気にしない。

「やめろ、もっと泣くぞ。ははは。それにやりすぎるとあの東方がブチ切れる。あれで守ってるつもりらしいぞ。」

「医者だから命令無視しても生かしてやってるというのに。……いや見習いだったか、全く役に立たねぇ。」

「ハズレを引かされたんだよ。ただ軍医も衛生兵も足りてない。こんなグズでも我慢するしかない。」

兵士どもの言葉を無視して広場の真ん中まで行く。
死んだ大樹の黒い根元付近には草藁が敷かれていて、その上に数名の兵士が寝かされていた。しかしそのどれもが全身を大きな爪のようなもので切り刻まれており、四肢が断裂していた。

「負傷者?どういう事ですか。全員どう見ても死んでる。こんなの誰が見ても分かりますよね?」
私が怒りを交えながら言うと、小隊長が反応し、こちらの胸ぐらを掴んできた。

「お前が遅かったからだろうが。見習いだかなんだかしらねぇが、生命を預かる人間とは思えねぇ怠慢だな。」

「こんなの、即死ですよ。あなた方の目は節穴なんでしょうね。」

「なんだと!」
小隊長が激昂して首元を掴んできた。身体が宙に浮き、苦しい。
ふいに村のはるか遠くから鐘の声が聞こえてくる……。
そんな中、そそくさと複数の兵士がやってきた。

「ヤーコフ小隊長!生き残りの小娘をとっ捕まえました!指示を!」
兵士達に乱暴に突き飛ばされて躍り出て来たのは、黒髪に緑の民族衣装を纏った年若い娘だった。青いその瞳……16、7くらいだろうか。
小隊長は私を放り捨て、娘をなめるように見る。下品な笑い声を漏らして。

「や、やめて!これ以上私達モスリンの人間を殺さないで!」
娘は震え声で懇願する。
その怯え切った表情を見て、ただ哀れな気持ちになった。彼女もこいつらに燃やされてしまうのか。
周囲からは下卑た笑い声がする。


「ははは、愛くるしい生娘じゃねぇか。一発可愛がってから燃やしてやろう。……おい、まずは大人しくさせろ!」
小隊長が指示すると、兵士達はその娘を羽交締めにして殴打し始めた。

「いたいいたい!やめてぇ!」
足掻く娘の悲鳴を聞いて目を伏せる。見るに耐えなかった。

「大人しくしねぇともっと痛い目に遭うぞ!?……ん?」

奇妙な事に娘は嬌声をあげ、薄ら笑いを始めた。

「うふふ、ふひひひ……許さない。いひひひひひひひひひ、全員まとめて喰っテやル。」

そして突如、咆哮が轟いた。鼓膜が破れそうになる程の音圧が波動し、枯れた草花が騒めいた。咄嗟にその場にいる全員が耳を押さえる。娘は顎が外れる程大きく開口し、その目からは青白い燐光が励起している。身体は隆起し、みるみるうちに人間の体躯を超えた。鼻が伸び、口が裂ける。その中から牙が無数に伸び散り、強烈な死臭を放つ。それら凄まじい様相は……さながら狼の怪物のようであった。



「あれが……人狼なのか!?ああ、人狼が出たぞ!燃やせ!燃やせ!」
兵士達が武器を構える前にそれは腕を振るう。すると長き爪が周囲の兵士達の四肢を飛び散らせた。
東方の男がすかさず私を抱え上げ、連れて行く。しかし目は離さなかった。火炎放射器の灼熱が辺りを包む。ただそれがもう一振りするとまた兵士達の断末魔が響き、その赤熱は霧散した。
……爽快だった。
モスリンの人々の抗う心が上位者をその身に顕現させたに違いない。このままこいつら全員殺してくれ。私はただその上位者を見つめ続け、賛美し続けた。それが腕を振るうたびに、赤い鮮血が飛び散る。私を卑下し、暴力を振るってくるこの赤獅子どもが死んでいくのだ……。あはは……。もっとやれ……。もっともっと……。
青空の下、赤い血の海が村を染めた。


◾️2番車両 医務室

「――しかしその人狼は殺されたのです。コジロウさんの刀がその心臓を貫き、燃え尽きるかのように灰と化しました。……とてもお美しい散り様でございました。私はそれ以来、上位者を探し求めています。しかしあれ以来会えておりませんでした。ユリは、そしてあなた様は私の希望です。上位者です。赤獅子を一人残らずぶち殺して下さいまし。あはは……。はひひひひひ……。いひひ……ひひ……。」
イエヴァは奇妙に笑いながら、息を乱し、涙を止め処なく流す。決壊したかのように延々と……。
……どうしてやれば良いのか分からず、こちらはただ立ち尽くした。ただ彼女へ抱いていた不快感や殺意は、何か別のよく分からない感情でモヤモヤとし始める。

「ああ……また涙が。情けない、私は自分の事が嫌いです……。この……。この……。」
イエヴァはまた自身の頬を殴り始める。

「イエヴァさん、やめてくれませんか?見てられない。」

「……ではわたくしにやめろとご命令下さい。」
め、命令?

「なんだそれ……。」
しかし彼女はこちらをじっと見ている。

「ええと……イエヴァ、やめろ。二度と自分を殴るな。……でいいのか?」

「はい。やめます。」
彼女は急にうっとりとした笑顔を浮かべ、それをやめた。
さっきまで泣いていたはずなのに。もうこの女が何をしたいのか分からない。
……ただ、彼女の話を聞いて少し同情してしまっている自分もいたのだが……。

「……実は俺はモスリンを再生させるためにここに来た。この列車に裁きを下すべき男がいるんだ。ただ、今はそれを邪魔する奴を探している。」

「ご主人様……わたくしもその捜索にご一緒してよろしいでしょうか?」

「えっ……?」
変な愛称を付けられた。

「ご主人様、ついて来いと命令してくださいまし。」
すがるような顔をする。

「いや……別にいいかな……。」
そう言うと女はまたどんよりと暗い顔をした。そして拳を上げ、プルプルとそれを見つめる。まさかまた自傷するつもりか……。

「つ、ついて来い……。」

「承知いたしました、ご主人様。」
イエヴァは笑顔を浮かべ、両腕でこちらの右腕をひしっと抱きしめる。……どっちが命令しているんだか分からない。

「ええと、歩きづらいから……腕を離せ。」

「その命令は聞けません。」
ふざけんな。

「とにかく参りましょう、ご主人様。」
イエヴァは腕を組んだままこちらを引きずるように扉へ歩いていった。


◾️2番車両 通路

イエヴァは医務室の扉に掛けられたボードを裏返し、クローズドにした。

「それで、どちらへ向かわれる予定でしょうか?」
彼女はこちらと距離を離し、外向きの顔で淡々と告げる。憂を感じさせる泣きぼくろ。どうやらいつもの彼女に戻ったようだ……。

周りを見ると、コジロウが遠くからこちらを見てほくそ笑んでいた。声が漏れていたのだろうか……。とてつもなく恥ずかしくなり、急いで別の車両へと移る。


◾️4番車両 デッキ

モスリン讃美歌第56番
――祝福の鐘は鳴る 素晴らしき聲 素晴らしき歌 それが聞こえし者はただ 祝福を享受する 謳われし者の しもべとなりて――

デッキに出る。青空の下、いつも通り冷気のひたたる景色。そこには雪原、針葉樹森、そして遠くには巨大な山々が連なっている。
そんな中、どこからか歌が聞こえていた。それは昨日聴いた讃美歌のような曲調だ。……しかし聴いたことのない歌詞だった。……この歌を聴いていると妙に胸が騒めき始める。

「この歌……昨夜聞こえてきたものによく酷似していますね。ユリを目醒めさせた、美しい祝福の歌でございます。……少し聴き入ってもよろしいでしょうか?」
そう言ってイエヴァはデッキの柵に手をかけ、横顔で流し目をする。
しかしこの歌を聴き続けるのが少し苦しかった。

「ご、ごめん。ラウンジの中へ入らないか?」

「すみません。はしたない要求を致しました。」
イエヴァは目を伏せた。


◾️4番車両 ラウンジ

中は珍しく人が多く集まっていて、ざわざわと私語が飛び交っている。奥には……この列車のオーナー、ソル・ジョーゼットがいた。いや本当の名はサリ・シフォンヌか。彼は鮮やかな金髪をして、赤と金の高貴なタキシードを纏い、堂々と立っていた。周りに護衛を4人従え、彼らは鋭く目を光らせている。仮にこの場で彼を暗殺しようにも、銃を構える隙すらまるで見当たらない。

他の場所を見渡すと、人混みの中にカチューシャとデミトリが立っていた。二人はこちらに気付くと歩み寄ってくる。また、背後からコジロウもやってきた。
自分を含めた5人が一箇所に集まる。

「こんにちは。……昨日の犯人が誰か分かったでしょうか?」
カチューシャが言う。

「さぁ誰なんでしょう?でも意外と近くにいるのかもね。」
イエヴァはこちらに流し目で目配せをしてくる。こちらは苦笑いを返した。するとイエヴァは嬉しそうに微笑む。

その様子をカチューシャが見て、少し眉をひそめた。

「しかし、オーナーから何の話があるのでしょうね。わざわざラウンジに人を集めるなど、見せたいものでもあるのでしょうか。護衛をあれだけ連れて、権威を見せびらかしたいのかもしれませんね。」
デミトリが言う。確かにあそこまで護衛を連れて何がしたいのだろうか。護衛の中の一人は、昨日見覚えのある男が混じっている。あの財布を盗んだ40代くらいの大男。

「ャ……ヤー……コフ……。」
イエヴァはぼそりとつぶやく。しかしなんと言っていたかは聞き取れなかった。彼女はこちらの腕を強く握り、鼻息を荒くした。その握る強さは少し痛みを感じるほどで、こちらを離さなかった。
カチューシャはそれを目ざとく注視する。

「お客様、彼女ととても仲がよろしいのですね。うふふ。まさか本日の予定をお忘れなのでしょうか?」
カチューシャは笑顔で言う。人前だからか丁寧な言葉遣いだが、その目は笑っていなかった。

「いえ……これには深い事情がありまして……。」

「それはそれは、さぞ深い事情があったのでしょうね。」
カチューシャの握り拳が少し上がりかけていた。

(おい、イエヴァ……離せ。)
……しかし彼女は掴んでいる手を離すことなく、じっと別の方を見ていた。サリ・シフォンヌ達の方だ。何かを強く見つめている。奇妙なのは今更だが、それにしても奇妙だった。

「まぁまぁ、まだ時間はございますので。」
デミトリがカチューシャをなだめる。

「フン、遊びに来たと勘違いしてるんじゃないかしら。」
カチューシャは吐き捨てるように言った。

(ご主人様、わたくしめに命令してください。勇気をお与えください……。)
突然イエヴァは奇妙な事を言う。

(勇気?……ううん、まぁ勇気を出せ。)
どうせ拒否したら面倒なことになる。すると彼女はゆっくりと深呼吸をした。……なんだか嫌な予感がするが。

「……何か運び込まれてきたぞ。」
コジロウの言葉に、皆その方を見た。

護衛の人間達がシーツに包まれたテーブルを、1台1台キャスターを転がしながら運んでくる。それを乗客達は奇異な目で見ていた。

「何か変な臭いがするぞ……。」

「一体何が始まるのでしょうか……。」

乗客達がざわざわとし始めたところで、合計4台のテーブルが並んだ。そしてサリは合図をすると護衛達は一斉にシーツを剥がした。

――乗客の悲鳴が上がる。
人間のようなものが四人寝かされていた。……全てあのユリのように身体が破砕していて、青紫色の血で染まっている。
乗客達はその様相から、またブルーの話を口々にし始めた。

「あの衣服……見覚えがある。……まさか列車内で失踪したモスリンの協力者達……?」
カチューシャがぼそっと漏らす。

「静まれ!」
サリは乗客のどよめきを一喝する。場がしんと静まり返った。

「このジョーゼットに、ブルーという病に感染した人間がいる。……このブルーというものはモスリンの人間にしか感染しない特殊な病だ。しかしこの目の前にいる四人、この者達がとある一室に隠されていたのを乗務員が見つけ出した。そんな憐れな彼らがモスリンの人間であると言うことも教えてくれた……。そしてこのような惨状を招いた元凶の人間がこの列車に乗っている事が分かったのだ!その凶徒は……この場に息を潜めている!」
サリは雄弁に乗客達へ語りかける。誰もが息を呑み、ただ黙ってその彼の次の言葉を待っていた。

『――皆さま、私はサーシャ・シフォンヌです。』
不意に上部から声が聞こえた。そこには天井からテレビが吊り下げられている。
どうやらそこから声がしているようだ。……そしてそのシフォンヌという家名を聞いて耳を疑った。

乗客達はテレビを注視する。
その白黒のテレビには、見覚えのある女性が映っていた。明らかに白い肌。そして薄色をした瞳……。おそらく銀色をした腰までかかる長い髪。……カチューシャという女性によく似たその顔立ち。その胸には徽章が点々と付いており、その中には……赤獅子の紋章も含まれていた。そのサーシャ・シフォンヌと名乗る女は続ける。

『シフォンヌ家は長年、ブルーと呼ばれた忌まわしき死の病と戦ってきました。モスリンへ軍隊や医者を派遣し、物資の供給、および病の研究・治療を行ってきたのです。そしてついにその病の治療法が確立され、ブルーによる惨禍は終息しました。モスリンは危機を乗り越えることが出来たのです。
冬の時代は終わりました。そして今、新たな実りの時代が始まったのです。ブルーは惨禍を与える一方で、モスリンの人達へ人智を超える力を与える事も判明したのです。私たちは更なる研究を進め、シフォンの人々の未来を導いて行く事をここに宣言します。今からその活動を公開いたします――』

サーシャと呼ばれた女の演説を聴いている間、徐々に乗客達はこちらの隣に立っている人間の方へ注目をし始めていた。カチューシャだ。
彼女は……その口をあんぐりと開け、震えていた。

「このビデオは数日前に事前入手したものだ。じきにシフォンでも放送されるだろう。そして先程も言ったように、ここに寝ている4人はモスリンの人間。そこの女は列車の中で彼らに実験を施したのだろう。」
サリはカチューシャの方を指差す。聴衆達は騒めき出した。

「あの客室乗務員……確かにテレビの女にそっくりだ……。」

「もうこの列車を止めろ、危険人物がいるんだぞ!」

「列車をとめろ?ふざけるな!こんなど田舎からシフォンまで歩くつもりか!吹雪に遭って野垂れ死ぬぞ!」

乗客達が騒めく最中カチューシャは……深呼吸を始めた。そしてゆっくりと息を吐き出し、サリをその薄赤い瞳でキッと睨み付ける。

「やってくれるじゃないの、サリ兄さん。ニセモノを使ってあんたがやった事をあたしに押し付ける気ね。」
彼女はあえてか不敵な笑みを浮かべる。その自信満々な態度は強がりなのか……?

「でたらめを言う余裕はあるようだな。サーシャ・シフォンヌを捕まえろ!」
サリの命令に、護衛の男が二人カチューシャの方へ走り出す。

「不敬な!下がれ!」
カチューシャがそう一喝するも、護衛達は彼女をすんなりと拘束する。

「さぁお嬢ちゃん、大人しく正体を現しやがれ!」
護衛の一人、ヤーコフがカチューシャの帽子をひっぺがし、三つ編み髪の根本を掴んで乱暴に引っ張る。するとそれが解け、腰までかかる長い髪がひらりと舞った。……その姿はやはりテレビに映っているサーシャという女と瓜二つだった。

「やっぱりあの女だ!」
乗客達の動揺がどんどん激しくなっていく。

――そんな中、他方で悲鳴が上がった。

「あぐぁぁぁっ!」
女が護衛の男の脇腹に何かを突き刺していた。

「小隊長……。」
イエヴァは薄ら笑う。……彼女が突き刺していたもの……それはナイフでもない、しかし鋭い生体的な得物……まさか爪?こちらの持ってきた携帯ナイフなんかよりもひと回り大きいが……そうだこれは、さっき見たユリの変異した爪だ。持ち歩いていたというのか。

そしてヤーコフは刺された箇所を抑え、悶絶している。もう一人の護衛は彼女を抑えにかかるが、その隙にカチューシャは走って逃げ出した。
するとその護衛は本懐を思い出したのか、ヤーコフを置き捨てて彼女を追いかけた。それをデミトリが抑えようとまた彼も走り出す。

「皆さまは避難を!騒動はこちらで抑えます。」
コジロウが乗客に呼びかけ、誘導を始める。……イエヴァを止める気はないようだ。とにかく場は完全に混乱していた。悲鳴が飛び交い、乗客達は吸い込まれるようにラウンジの出口へと走り出した。……そしていつの間にかサリ達の姿も消えていた。

混乱するラウンジを背後にして、周囲には自分とイエヴァ、ヤーコフだけがいた。
ヤーコフは脇腹をおさえながら倒れ込んでいる。

「随分と……いいご身分……小隊長。」
イエヴァは爪をヤーコフから引き抜く。

「うぐっ!……て……てめぇは……グズの見習い……。」

「もう見習いじゃありませんよ……。うふふ……今まであなたが私を殴った回数を覚えていますか?今から私も同じ回数だけ突き刺しましょう。」
そう言って彼女は目を丸くし、黒々しい瞳を彼に向けた。そしてそのまま両手に持った凶爪を振り下ろし、脚へ突き刺す。ヤーコフの苦悶の声が漏れた。返り血が彼女の顔に飛び散る。

「や……やめ……うぐっ!」
ヤーコフは脚から下を引きずり、腕だけを這わせて逃げようとする。
イエヴァはそれを歩いて追いかけ、その腕へ鋭く太いナイフのような爪を突き刺した。

「あがぁあっ!お願いだ……。」
イエヴァは彼の言葉など歯牙にもかけず、容赦なく次々と刺す。

「あぐ……。ぐっ……。」
やがてヤーコフは声を小さくしていった。

一切の躊躇もなく、イエヴァはそれを10回20回と繰り返す。やがてヤーコフはその苦悶の声すら発さなくなった。

しかしそれはまだまだ続いた……。


「……イエヴァ、もういいよ。」
もはやヤーコフは刺されていない箇所が無い程に穴だらけになっていた。

「待ってください、あと3回なんです!」
そう言ってその3回とも顔へ突き刺した。もはや識別不可能の顔。

そして彼女は呼吸を落ち着かせ、ゆっくりと立ち上がる。その血まみれの笑顔、狂気の沙汰だった。

「ご主人様、わたくしめに勇気を与えて頂きありがとうございました。お返しとして、ぜひこの死体を喰らって頂けませんか?」
そうだ……彼女はこちらの事を人狼だと確信しているんだった。

「ええと……今はお腹空いてないんだ。」

「わ……わ、わたくしの手料理を喰べていただけないのですか!?」
イエヴァは血まみれの顔を悲壮に歪ませ、呼吸を乱す。その手に凶器の爪が握られたまま……。まずい……また暴走しそうだ。

丁度いいタイミングでコジロウが帰ってくる。

「はぁ……派手にやらかしたな。」
コジロウは嘆息を漏らしながら、イエヴァの首根っこを掴んでこちらから引き剥がす。ポイっと爪も没収された。……助かった。

「離してください、コジロウさん!コジロウさん!ご主人様!ご主人様ぁあああああ!!!」
イエヴァはコジロウに抱え上げられ、どこかへ消えてしまった。

彼女から解放された瞬間、ホッと胸を撫で下ろした。
……しかし状況はあまり芳しいものでは無い。カチューシャはどこへ行ったんだ。そして彼女は何者なんだ。そそくさとラウンジを出る。

◾️4番車両 デッキ

デッキに出ると、また神秘的な歌声が聞こえて来た。
さっきから一体どこから聞こえてきているというのか。どことなく上方から聞こえてくるのは分かるが、まさか屋根に誰かいるのか。
歌声に混じって、不意に強烈なメッセージが聞こえてくる。

――ああ青き瞳の眷属よ ああ目醒めるのだ――

突如強烈な頭痛が走り回った。

「あが……ぐぐ……。くるし……。」
心臓が張り裂けんばかりに激しく胸を打ち始める。
膝が崩れて、デッキに倒れ込む。身体が少しずつ熱くなっていく。呼吸は乱れ、脂汗が止まらなくなった。熱い……熱い……。溜飲が口にたまり、その場に何かを吐き出す。
……青紫色の液体?
ユリの時みたいじゃないか……止まらない。ゴボゴボとそれを吐き続ける。……意識が朦朧としていく。……意識が……。死にたくない……。
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