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庶民の矜持
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パン屋を出た頃には外は大分明るくなってきていた。大学が始まるまでまだ猶予はあるが、あまりのんびりもしていられないしカレルを待たせてしまっている。心持ち足を早めていると、何やら道端で怒鳴り合いが起きているのが目に入った。
複数の男女が水桶を手に、相手を牽制するように水場の大きな石造りの井戸に、手をのばしている。何をしてるのか、喧嘩かと思ったところで彼らの怒鳴り声がルドヴィカの耳に届いた。
「あんた水取りすぎなんだよ! もうねえんだから、ちょっと遠慮しろ」
「うるさい!! うちには小さい子がいるんだよ、多く貰って当たり前だ」
「子どもなんて我慢させておけば良いだろうが!」
常ならばこのような言い争いは起こらない程の、井戸が充分に潤うくらいの水が補給されているのに珍しいと思う。
確かに思い返すとルドヴィカが汲みに行った段階で井戸の半分以上の水がなくなっていた。あれでは、確かにこの近辺の人間の口を確保するのは難しいように思う。パン屋や食堂、花屋なんかは使う水の量も一般人とは比較にならない。風呂屋だけは魔術師が直々に出向いて水を補給するというが、他の一般家庭にはそのような補助もない。水場の水がなくなると、一日の生活は立ち行かない。
今にも殴り合いが起きそうな人間の諍いは、見ているだけで不安を煽るがルドヴィカに何が出来る、という訳もない。先程汲んだ水だって、生活に必要な分しか取っていないのだから、それを分けろと言われても困る。
そっとその場を離れようとしたルドヴィカの耳に、聞き覚えのある声が急に飛び込んできた。
「ごめん! それ俺のせいだ!!」
彼の声だ、と認識した瞬間何も考えずに振り返っていた。
水場に走り寄る若い男。輝くような金髪はまだ日が昇りきっていない時間にも目に鮮やかに映る。均整の取れた長身に、貴族とは思えない簡素な衣服を着用しているのはお忍びだから、というよりはただ動きやすさを意識しているだけだろう。現に、彼が下町に現れた事に誰も違和感を覚えずに受け入れている。
「エスキル様!? どうなさいましたか」
揉めていた男達も一旦争うのを止めると、揃ってエスキルに頭を下げた。しかしそれも身分差を感じさせるようなものではなく、くだけた軽いものだ。
「今日、ここの担当の魔術師が身体を痛めて……俺が代わりに補給の担当をしたんだ。だけど、量が足りなかったみたいだ、ごめん」
自分より遥かに下の身分の者にぺこぺこ頭を下げながら、エスキルは井戸に頭を突っ込んだ。
「危ないですよ、離れて」
おろおろとエスキルの身を案じる男達を、彼は意に介す様子はない。ぱっと顔を上げる。
「めちゃくちゃ水減ってんな……そりゃ、足りないよな。本当ごめん。取り敢えず必要な水、補充するよ」
そう言うと、エスキルは男達の抱えた水桶に水を発生させ始めた。本来エスキルのような身分の者が、一介の魔術師の仕事を請け負う筈がないのだが、普段から彼は下町にやってきては遊ぶだけではなく、市井の暮らしに混じって仕事をし、賃金を稼ぐような事をしているので決して珍しい光景ではなかった。
エスキルには魔術師の才覚はあまりないのだと、以前本人からルドヴィカは聞いた事がある。もっとはっきりと言うなら、魔力があまりにも低い、と。
魔数と比べると魔力は修行や勉学に励む事により、強くなる可能性はあるそうだ。しかし、元々あまりにも魔力が低いエスキルは大学に通い、専門家の指導を受けても尚も才能はあまり伸びなかった。
現に、男が抱えた水桶をいっぱいにするだけに何度も魔術をかけ直している。水を発生させる能力がある、という事はエスキルには水の魔術の才能がある筈なのだがそれにしても能力があまりにもお粗末だ。
「このくらいで大丈夫ですよ、ありがとうございます」
現に男達の一人は公子様に必死で水を補給していただく事に、畏れ多いと恐縮している。いや、恐縮しているというよりは公子ともあろう人物が額に汗しながら作り出すのが、僅かな量の水であるという事実にいたたまれなくなっているように見えた。
「え、本当にこれだけで大丈夫?」
「はい、はい。本当に、エスキル様自ら施しいただきなんと申し上げれば……」
「いやいや、大した事じゃないから。ごめんな」
エスキル自身は自分の魔術師としての実力はさしたるものではない事を、とても気にしていた筈だが、そんな素振りも見せずに水を汲みに来た者に次々と魔術の水を補給していた。
悔しい、と思った。
彼は公爵家という立場をひけらかす事もせず、自身の才能の無さにも挫けずに生活している。
水を補給にきた子ども連れの女性に、にこにこと手を振る姿を見ているとどうしても、焦がれる思いが拭い去れない。
「じゃあね、また来るよ」
親の使いで来たらしき、ルドヴィカと歳の変わらぬ少女に笑顔を向けたエスキルが、その場に立ち尽くしていたルドヴィカのいる方向に顔を向けた。
目が合った。
水色の、ルーフスでも公爵家以外では他に見ない淡い色の瞳を見開いて、エスキルはこちらを見た。
何も言えなかった。
エスキルも、何も言わなかった。黙って目を逸らすと、水を汲みに来た人間があらかた水が行き渡ったと判断したのか、そそくさとその場から走り去った。
ルドヴィカの方を二度と見る事はなかった。
複数の男女が水桶を手に、相手を牽制するように水場の大きな石造りの井戸に、手をのばしている。何をしてるのか、喧嘩かと思ったところで彼らの怒鳴り声がルドヴィカの耳に届いた。
「あんた水取りすぎなんだよ! もうねえんだから、ちょっと遠慮しろ」
「うるさい!! うちには小さい子がいるんだよ、多く貰って当たり前だ」
「子どもなんて我慢させておけば良いだろうが!」
常ならばこのような言い争いは起こらない程の、井戸が充分に潤うくらいの水が補給されているのに珍しいと思う。
確かに思い返すとルドヴィカが汲みに行った段階で井戸の半分以上の水がなくなっていた。あれでは、確かにこの近辺の人間の口を確保するのは難しいように思う。パン屋や食堂、花屋なんかは使う水の量も一般人とは比較にならない。風呂屋だけは魔術師が直々に出向いて水を補給するというが、他の一般家庭にはそのような補助もない。水場の水がなくなると、一日の生活は立ち行かない。
今にも殴り合いが起きそうな人間の諍いは、見ているだけで不安を煽るがルドヴィカに何が出来る、という訳もない。先程汲んだ水だって、生活に必要な分しか取っていないのだから、それを分けろと言われても困る。
そっとその場を離れようとしたルドヴィカの耳に、聞き覚えのある声が急に飛び込んできた。
「ごめん! それ俺のせいだ!!」
彼の声だ、と認識した瞬間何も考えずに振り返っていた。
水場に走り寄る若い男。輝くような金髪はまだ日が昇りきっていない時間にも目に鮮やかに映る。均整の取れた長身に、貴族とは思えない簡素な衣服を着用しているのはお忍びだから、というよりはただ動きやすさを意識しているだけだろう。現に、彼が下町に現れた事に誰も違和感を覚えずに受け入れている。
「エスキル様!? どうなさいましたか」
揉めていた男達も一旦争うのを止めると、揃ってエスキルに頭を下げた。しかしそれも身分差を感じさせるようなものではなく、くだけた軽いものだ。
「今日、ここの担当の魔術師が身体を痛めて……俺が代わりに補給の担当をしたんだ。だけど、量が足りなかったみたいだ、ごめん」
自分より遥かに下の身分の者にぺこぺこ頭を下げながら、エスキルは井戸に頭を突っ込んだ。
「危ないですよ、離れて」
おろおろとエスキルの身を案じる男達を、彼は意に介す様子はない。ぱっと顔を上げる。
「めちゃくちゃ水減ってんな……そりゃ、足りないよな。本当ごめん。取り敢えず必要な水、補充するよ」
そう言うと、エスキルは男達の抱えた水桶に水を発生させ始めた。本来エスキルのような身分の者が、一介の魔術師の仕事を請け負う筈がないのだが、普段から彼は下町にやってきては遊ぶだけではなく、市井の暮らしに混じって仕事をし、賃金を稼ぐような事をしているので決して珍しい光景ではなかった。
エスキルには魔術師の才覚はあまりないのだと、以前本人からルドヴィカは聞いた事がある。もっとはっきりと言うなら、魔力があまりにも低い、と。
魔数と比べると魔力は修行や勉学に励む事により、強くなる可能性はあるそうだ。しかし、元々あまりにも魔力が低いエスキルは大学に通い、専門家の指導を受けても尚も才能はあまり伸びなかった。
現に、男が抱えた水桶をいっぱいにするだけに何度も魔術をかけ直している。水を発生させる能力がある、という事はエスキルには水の魔術の才能がある筈なのだがそれにしても能力があまりにもお粗末だ。
「このくらいで大丈夫ですよ、ありがとうございます」
現に男達の一人は公子様に必死で水を補給していただく事に、畏れ多いと恐縮している。いや、恐縮しているというよりは公子ともあろう人物が額に汗しながら作り出すのが、僅かな量の水であるという事実にいたたまれなくなっているように見えた。
「え、本当にこれだけで大丈夫?」
「はい、はい。本当に、エスキル様自ら施しいただきなんと申し上げれば……」
「いやいや、大した事じゃないから。ごめんな」
エスキル自身は自分の魔術師としての実力はさしたるものではない事を、とても気にしていた筈だが、そんな素振りも見せずに水を汲みに来た者に次々と魔術の水を補給していた。
悔しい、と思った。
彼は公爵家という立場をひけらかす事もせず、自身の才能の無さにも挫けずに生活している。
水を補給にきた子ども連れの女性に、にこにこと手を振る姿を見ているとどうしても、焦がれる思いが拭い去れない。
「じゃあね、また来るよ」
親の使いで来たらしき、ルドヴィカと歳の変わらぬ少女に笑顔を向けたエスキルが、その場に立ち尽くしていたルドヴィカのいる方向に顔を向けた。
目が合った。
水色の、ルーフスでも公爵家以外では他に見ない淡い色の瞳を見開いて、エスキルはこちらを見た。
何も言えなかった。
エスキルも、何も言わなかった。黙って目を逸らすと、水を汲みに来た人間があらかた水が行き渡ったと判断したのか、そそくさとその場から走り去った。
ルドヴィカの方を二度と見る事はなかった。
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