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「お義姉さま、お茶を持ってきました」
ノックもなかった。扉が開いて、薔薇茶の香りが先に入ってきた。ナディアが両手で盆を抱えている。湯気が頬に当たるほど近い距離で、にっこり笑っていた。
「……ナディア。入室の際は声をかけてからにしてください」
「かけました。今」
反論が正しいのが腹立たしい。確かに声はかけた。返事を待たなかっただけだ。
ナディアが勝手に小応接間の椅子に座り、茶を二つ並べた。砂漠の薔薇を乾燥させたもので、こはく色の液体から甘い香りが立つ。冬のザハルでは貴重な茶だと聞いている。
断る理由がなかった。椅子を引いて向かい合った。
「兄さま、今朝おかしかったですよね」
杯を口に運ぼうとした手が止まった。
「おかしい、とは」
「粥を三杯食べたんです。普段は二杯なのに」
三杯。
——その情報を、私は持っていない。ラシードが粥を何杯食べるか、数えたことがなかった。ナディアは数えている。妹として、当然のように。
「粥の量は個人の体調に左右されるものです。特段おかしなことでは——」
「機嫌がいいと多いんですよ、兄さま」
言葉が続かなかった。機嫌がいい。なぜ。何が。昨夜のことが頭をよぎって、杯を握り直した。
「それから」
ナディアが指を折った。一本目。
「薪を足すのは、寒がっていないか気になるからです。兄さまは暑がりなので、自分の部屋には足さないんです」
知っている。知っていた。毎朝、新しい薪がある。でもそれは——配慮であって——
「水を置くのは」
二本目。
「お酒に弱いのを心配してるから。お義姉さまが宴の席で杯を三度に一度しか口をつけないのを見て、最初の宴から水を置くようになりました」
三度に一度。あの人が、私の飲む間隔を見ていた?
「挨拶を噛むのは」
三本目。
「お義姉さまの前だと緊張するからです。他の人の前では噛みません」
指が三本、開いていた。ナディアの手は、翻訳するための手だった。兄の行動を一つずつ、言葉に変換していく。
「ナディア」
「はい」
「……気のせいです」
声が、自分でも分かるくらい弱かった。
ナディアが茶を一口飲んで、杯を置いた。
「お義姉さま」
「はい」
「数えてるでしょう」
息が止まった。
「兄さまの行動。薪を足した回数、水を置いた回数、挨拶を噛んだ回数。全部。数えてるんですよね」
指が、茶碗の縁を辿っていた。無意識に。一回。二回。三回。
三回目の途中で気づいて、手を膝に下ろした。
「……数えて、いません」
「じゃあ今、茶碗を何回辿りました?」
答えられなかった。
ナディアが笑った。からかいではない。心配でもない。もっと穏やかで、もっと確かなもの。
「怖がりながら数えてるんです、お義姉さまは」
扉の向こうで足音がした。重くて硬い、石の回廊に響く靴音。ラシードの足音。
通り過ぎた。立ち止まらなかった。
——通り過ぎただけなのに、足音が消えるまで耳を澄ませている自分がいた。
ナディアがそれを見ていた。何も言わなかった。薔薇茶を、もう一杯注いだ。
ノックもなかった。扉が開いて、薔薇茶の香りが先に入ってきた。ナディアが両手で盆を抱えている。湯気が頬に当たるほど近い距離で、にっこり笑っていた。
「……ナディア。入室の際は声をかけてからにしてください」
「かけました。今」
反論が正しいのが腹立たしい。確かに声はかけた。返事を待たなかっただけだ。
ナディアが勝手に小応接間の椅子に座り、茶を二つ並べた。砂漠の薔薇を乾燥させたもので、こはく色の液体から甘い香りが立つ。冬のザハルでは貴重な茶だと聞いている。
断る理由がなかった。椅子を引いて向かい合った。
「兄さま、今朝おかしかったですよね」
杯を口に運ぼうとした手が止まった。
「おかしい、とは」
「粥を三杯食べたんです。普段は二杯なのに」
三杯。
——その情報を、私は持っていない。ラシードが粥を何杯食べるか、数えたことがなかった。ナディアは数えている。妹として、当然のように。
「粥の量は個人の体調に左右されるものです。特段おかしなことでは——」
「機嫌がいいと多いんですよ、兄さま」
言葉が続かなかった。機嫌がいい。なぜ。何が。昨夜のことが頭をよぎって、杯を握り直した。
「それから」
ナディアが指を折った。一本目。
「薪を足すのは、寒がっていないか気になるからです。兄さまは暑がりなので、自分の部屋には足さないんです」
知っている。知っていた。毎朝、新しい薪がある。でもそれは——配慮であって——
「水を置くのは」
二本目。
「お酒に弱いのを心配してるから。お義姉さまが宴の席で杯を三度に一度しか口をつけないのを見て、最初の宴から水を置くようになりました」
三度に一度。あの人が、私の飲む間隔を見ていた?
「挨拶を噛むのは」
三本目。
「お義姉さまの前だと緊張するからです。他の人の前では噛みません」
指が三本、開いていた。ナディアの手は、翻訳するための手だった。兄の行動を一つずつ、言葉に変換していく。
「ナディア」
「はい」
「……気のせいです」
声が、自分でも分かるくらい弱かった。
ナディアが茶を一口飲んで、杯を置いた。
「お義姉さま」
「はい」
「数えてるでしょう」
息が止まった。
「兄さまの行動。薪を足した回数、水を置いた回数、挨拶を噛んだ回数。全部。数えてるんですよね」
指が、茶碗の縁を辿っていた。無意識に。一回。二回。三回。
三回目の途中で気づいて、手を膝に下ろした。
「……数えて、いません」
「じゃあ今、茶碗を何回辿りました?」
答えられなかった。
ナディアが笑った。からかいではない。心配でもない。もっと穏やかで、もっと確かなもの。
「怖がりながら数えてるんです、お義姉さまは」
扉の向こうで足音がした。重くて硬い、石の回廊に響く靴音。ラシードの足音。
通り過ぎた。立ち止まらなかった。
——通り過ぎただけなのに、足音が消えるまで耳を澄ませている自分がいた。
ナディアがそれを見ていた。何も言わなかった。薔薇茶を、もう一杯注いだ。
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