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「——少し、話がある」
心臓が、跳ねなかった。跳ねなかったことに驚いた。この人が「話がある」と言ったのは、初めてだ。いつも「ああ」と「分かった」しか言わない人が、自分から口を開いた。
席に座り直した。背筋を伸ばして、膝の上で手を重ねた。業務の姿勢だ。報告を聞く姿勢。
「何でしょうか」
ラシードの目が、私を見た。見て、逸れた。窓を見た。壁を見た。また私を見た。口が開いた。
閉じた。
沈黙が落ちた。食器の片づけが廊下の向こうで聞こえている。ろうそくの芯がぱちりと弾けた。
ラシードの喉が動いた。何かを飲み込んだ。言葉を。あるいは言葉の手前にあるものを。
10秒。20秒。数えていた。また数えている。この人の沈黙の長さを。
30秒を過ぎた。
「……辺境伯?」
呼びかけた。丁寧語で。距離を保って。この沈黙の意味が分からなかった。ファリドと話した後からずっと、この人は何かを抱えている。拳を白くするほどの何かを。それを今、私に言おうとしている——のか。
ラシードの唇が、もう一度開いた。
「……お前に——」
途切れた。「お前に」の後が来ない。ラシードの目が苦しそうだった。言葉を探している。喉の奥に言葉があるのに、それを口まで引き上げられない。そういう顔だった。
待った。
待ちながら、背中が冷えていくのを感じていた。この沈黙を、どう分類すればいいのか分からない。告白ではないだろう。謝罪でもないだろう。では何だ。何を隠しているのだ。
——隠している。
その言葉が脳裏を走った瞬間、背骨の奥に古い冷たさが差し込んだ。アルフレートも隠していた。側妾のことを。笑顔の裏で、甘い言葉の裏で。隠すのは、隠さなければならない理由があるからだ。
違う。この人は違う。この人は——
——何が違うのか、説明できなかった。
「何かご用件でしたら、改めてでも構いません」
自分の声が、平らだった。冷たかった。冷血令嬢の声だった。業務の言葉で切った。切りたくなかった。でも、あの沈黙の中にいると、古い傷が開く。
ラシードの目が、一瞬だけ、痛みとは違う何かを映した。
「……いや。何でもない」
引き下がった。この人は、引き下がった。
席を立った。「おやすみなさいませ」と言った。声が震えなかったのは、訓練のおかげだ。社交界で磨いた仮面は、こういうときに役に立つ。
廊下に出た。
歩いた。自分の部屋に向かって。足音が石の床に響いている。一人分の足音。追いかけてこない。あの人はいつも追いかけてこない。いつも、待っている。
——何を言おうとしたのだろう。
居室の扉を閉めた。背を預けた。息を吐いた。
合理的に考える。ファリドと話した後に「話がある」と言った。ファリドの言葉に背を押されて、何かを言おうとした。しかし言えなかった。言えなかったということは、言葉にできないほどの何かだ。
何だ。
帳簿を開く気にもならなかった。あの帳簿には「裏切りの証拠」が一つも載っていない。載っていないことが、いちばん怖い。
寝台に横になった。目を閉じた。
体が、冷たかった。三日前の夜の温度が消えていた。あの人の体温が、指先から抜けていた。抜けたことが分かること自体が、覚えていた証拠だ。
——「何でもない」と言った。
嘘だ。あの目は「何でもない」の目ではなかった。
嘘をつく人だとは思っていなかった。この人は嘘が下手だ。いつも顔に出る。感情を隠せない。隠す気もない。なのに今日、言葉を飲み込んだ。
分からない。分からないことが、胸の底で燻っている。怒りでも悲しみでもない。もっと厄介なものだ。
——知りたいのだ。あの人が何を言おうとしたのかを。
心臓が、跳ねなかった。跳ねなかったことに驚いた。この人が「話がある」と言ったのは、初めてだ。いつも「ああ」と「分かった」しか言わない人が、自分から口を開いた。
席に座り直した。背筋を伸ばして、膝の上で手を重ねた。業務の姿勢だ。報告を聞く姿勢。
「何でしょうか」
ラシードの目が、私を見た。見て、逸れた。窓を見た。壁を見た。また私を見た。口が開いた。
閉じた。
沈黙が落ちた。食器の片づけが廊下の向こうで聞こえている。ろうそくの芯がぱちりと弾けた。
ラシードの喉が動いた。何かを飲み込んだ。言葉を。あるいは言葉の手前にあるものを。
10秒。20秒。数えていた。また数えている。この人の沈黙の長さを。
30秒を過ぎた。
「……辺境伯?」
呼びかけた。丁寧語で。距離を保って。この沈黙の意味が分からなかった。ファリドと話した後からずっと、この人は何かを抱えている。拳を白くするほどの何かを。それを今、私に言おうとしている——のか。
ラシードの唇が、もう一度開いた。
「……お前に——」
途切れた。「お前に」の後が来ない。ラシードの目が苦しそうだった。言葉を探している。喉の奥に言葉があるのに、それを口まで引き上げられない。そういう顔だった。
待った。
待ちながら、背中が冷えていくのを感じていた。この沈黙を、どう分類すればいいのか分からない。告白ではないだろう。謝罪でもないだろう。では何だ。何を隠しているのだ。
——隠している。
その言葉が脳裏を走った瞬間、背骨の奥に古い冷たさが差し込んだ。アルフレートも隠していた。側妾のことを。笑顔の裏で、甘い言葉の裏で。隠すのは、隠さなければならない理由があるからだ。
違う。この人は違う。この人は——
——何が違うのか、説明できなかった。
「何かご用件でしたら、改めてでも構いません」
自分の声が、平らだった。冷たかった。冷血令嬢の声だった。業務の言葉で切った。切りたくなかった。でも、あの沈黙の中にいると、古い傷が開く。
ラシードの目が、一瞬だけ、痛みとは違う何かを映した。
「……いや。何でもない」
引き下がった。この人は、引き下がった。
席を立った。「おやすみなさいませ」と言った。声が震えなかったのは、訓練のおかげだ。社交界で磨いた仮面は、こういうときに役に立つ。
廊下に出た。
歩いた。自分の部屋に向かって。足音が石の床に響いている。一人分の足音。追いかけてこない。あの人はいつも追いかけてこない。いつも、待っている。
——何を言おうとしたのだろう。
居室の扉を閉めた。背を預けた。息を吐いた。
合理的に考える。ファリドと話した後に「話がある」と言った。ファリドの言葉に背を押されて、何かを言おうとした。しかし言えなかった。言えなかったということは、言葉にできないほどの何かだ。
何だ。
帳簿を開く気にもならなかった。あの帳簿には「裏切りの証拠」が一つも載っていない。載っていないことが、いちばん怖い。
寝台に横になった。目を閉じた。
体が、冷たかった。三日前の夜の温度が消えていた。あの人の体温が、指先から抜けていた。抜けたことが分かること自体が、覚えていた証拠だ。
——「何でもない」と言った。
嘘だ。あの目は「何でもない」の目ではなかった。
嘘をつく人だとは思っていなかった。この人は嘘が下手だ。いつも顔に出る。感情を隠せない。隠す気もない。なのに今日、言葉を飲み込んだ。
分からない。分からないことが、胸の底で燻っている。怒りでも悲しみでもない。もっと厄介なものだ。
——知りたいのだ。あの人が何を言おうとしたのかを。
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