【完結】王太子の裏切りを目撃して婚約破棄を自ら突きつけた令嬢が、再婚先の辺境伯に「二度目はさせない」と甘く誓われました

積野 読

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 香水の匂いがした。

 甘くて、重くて、肺の底まで染み込む匂い。一年前と同じ匂い。体が先に反応した。肩が固くなった。指先が冷えた。匂いだけで——あの夜が、戻ってきた。

「イレーネ」

 呼ばれた。

 下の名前で。一年前と同じ声の高さで。同じ距離の詰め方で。振り向く前に分かっていた。この声を忘れたことはない。忘れたふりをしていただけだ。

 王太子アルフレートが、そこにいた。

 変わっていなかった。端正な顔。柔らかい笑み。夜会の灯りの下で金色に透ける髪。王族の正装が似合う。どこに立っていても似合う人だった。社交界は彼のために作られた場所のようだった。

「久しいね。……変わらず美しいな」

 笑顔が完璧だった。隙がなかった。この人の笑顔には、いつも隙がない。

「——ごきげんよう、殿下」

 声が出た。自分でも驚くほど平坦な声が。冷血の仮面がまだ機能していた。ここだけは、まだ——

「そんな他人行儀な。僕たちはずっと——」

「僕たち、という主語は不適切かと存じます。私はザハル辺境伯の妻でございます」

 遮った。遮れた。丁寧語が武器になった。

 アルフレートの笑みが一瞬揺れた。だがすぐに戻った。この人は崩れない。崩れ方を知らないのだ。

「……そうだね。ザハル辺境伯の。うん、聞いているよ。辺境でのお暮らしは? 不自由はないかい」

 心配するような声だった。心配しているのかもしれない。嘘をつける人ではなかった。嘘をつく必要がない人だった。ほしいものはすべて与えられ、正しさを疑われたことがない——そういう声。

「不自由はございません」

「そう。でも、辺境伯は言葉少なだと聞いた。君のような人には、少し物足りないんじゃないかな」

 ——来た。

 この言い方を知っている。甘い言葉に見せかけて、ラシードの不器用さを刺す。「蛮族」とは言わない。「言葉少な」と言う。上品に。品の良い侮蔑。

「辺境伯は行動で話される方です。言葉に頼る必要がありません」

「行動で、か。……君はいつも、そうだったね。合理的で、正確で。だから——」

 アルフレートが一歩近づいた。香水の匂いが濃くなった。

「だから僕は、君を失ったことを悔やんでいる。僕たちの間にあった誤解を——」

「誤解、でしょうか」

 声が凍った。自分の声だと分からなかった。

「殿下。私が目にしたものは、誤解の余地がないものでした」

 ——あの夜。あの東屋。月明かりに照らされた光景。

 視界の端が白くなった。呼吸が浅くなった。ここは夜会の大広間。百人を超える貴族がいる。今、ここで——

 アルフレートが眉を下げた。やさしい顔だった。やさしさが、刃だった。

「イレーネ。僕は君に謝りたいんだ。あれは慣習で——側室を持つことは王族として——」

「存じております」

「なら——」

「存じているから、破棄いたしました」

 沈黙が落ちた。

 アルフレートの唇が開いたまま止まった。この人が言葉に詰まるのは、初めて見たかもしれない。いや——初めてだ。

 背中に、気配があった。

 香水ではない匂いがした。砂と、陽に焼けた肌と、固い革の匂い。辺境の匂い。ラシードの匂い。

 いつ来たのか分からない。だが——いた。背中のすぐ後ろに。

 体の震えが、止まった。

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