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「お義姉さま、昨夜はよくお眠りになれましたか」
翌朝。別邸の朝食の席で、ナディアが向かい側に座った。ラシードはいない。朝早くに出た、と使用人が言っていた。どこに行ったかは聞かなかった。
「ええ。問題ありません」
「嘘ですね」
パンを千切る手が止まった。
「……何のことですか」
「目の下が赤いです。泣いたか、眠れなかったか、どちらかです」
この子は——容赦がない。笑顔のまま、急所を突いてくる。ナディアの目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。遠慮がない目。辺境の人間は、みんなこういう目をする。
「乾燥です。王都の空気は肌に合いません」
「お義姉さまの『乾燥です』は、だいたい嘘です」
返す言葉がなかった。
ナディアが紅茶の杯を置いた。音が小さかった。この子が静かに物を置くときは、何か言いたいことがある。
「あの……兄さまのことなんですけど」
「辺境伯がどうされましたか」
「昨日の夜会の前。お義姉さまが支度をしている間、兄さま、廊下をうろうろしてたんです」
……うろうろ。
「三回。お義姉さまの部屋の前を通って。四回目に扉の前で止まって。五回目に踵を返して。私が『兄さま何してるんですか』って聞いたら、『別に』って」
情景が浮かんだ。あの人が廊下を歩く。固い靴底の音。扉の前で止まる。音が消える。また歩き出す。
「……それだけですか」
「それだけじゃないです。馬車の中でもそうでした。王都に向かう8日間、ずっとそわそわしてました。窓の外を見て、お義姉さまを見て、また窓を見て。話しかけようとして、やめて。私が気づかないと思ったんですかね」
胸の奥が、小さくざわついた。
「辺境伯は元々、口数の少ない方です。それは——」
「違います。口数が少ないのと、そわそわしてるのは別です」
ナディアの声が、少しだけ強くなった。
「兄さまは普段、そわそわしません。砂嵐が来ても、遊牧民が国境を越えても、黙って動くだけです。でもお義姉さまの前だと——言葉を探してるんです。見つからなくて。見つからないから、黙って水差しを持ってきたり、薪を足したり。……あの人なりの、精一杯なんです」
——知っている。
知っている。薪を足す回数も。水差しの回数も。食事で好物が出る回数も。帳簿に書いた。全部書いた。
ナディアが私の顔を覗き込んだ。
「お義姉さま。兄さまは昨夜、『俺の妻だ』って言ったんですよね。夜会の人たちが話してました」
杯を持つ指が震えた。置いた。音を立てないように。
「……ええ」
「兄さまが自分から言葉を出すの、すごく珍しいことなんです。あの人は——言葉が怖いんだと思います。お父さまがお母さまに言葉を伝えられなくて、お母さまが出て行ってしまったから」
知らなかった。
ラシードの母が去ったことは聞いた。だが——言葉が怖い、という部分は。
「だから兄さまは行動で全部やろうとするんです。でも昨日は言ったんです。噛みながら。……それって、すごいことなんですよ」
喉が詰まった。
——なぜ。
なぜ、直接言わないのか。なぜ、ナディアを通さなければ聞こえないのか。なぜ、あの人は自分の口で——
苛立ちが、胸の底から湧き上がった。合理的ではない苛立ちだった。ナディアに対する怒りではない。ラシードに対する——
……違う。これは怒りではない。
あの人の言葉が、聞きたい。
直接。ナディアの翻訳ではなく。噛んでもいい。掠れてもいい。短くていい。あの人の声で、あの人の口から——
帳簿に書けなかった。この感情に、項目がなかった。
「お義姉さま?」
「……ありがとう、ナディア。紅茶が冷めます」
話題を変えた。変えるしかなかった。
ナディアが何か言いかけて、口を閉じた。分かっていたのだろう。今はここまでだと。
窓の外で、固い靴音が聞こえた。ラシードが戻ってきた。何かを抱えていた。遠くて見えない。
目が、追っていた。
翌朝。別邸の朝食の席で、ナディアが向かい側に座った。ラシードはいない。朝早くに出た、と使用人が言っていた。どこに行ったかは聞かなかった。
「ええ。問題ありません」
「嘘ですね」
パンを千切る手が止まった。
「……何のことですか」
「目の下が赤いです。泣いたか、眠れなかったか、どちらかです」
この子は——容赦がない。笑顔のまま、急所を突いてくる。ナディアの目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。遠慮がない目。辺境の人間は、みんなこういう目をする。
「乾燥です。王都の空気は肌に合いません」
「お義姉さまの『乾燥です』は、だいたい嘘です」
返す言葉がなかった。
ナディアが紅茶の杯を置いた。音が小さかった。この子が静かに物を置くときは、何か言いたいことがある。
「あの……兄さまのことなんですけど」
「辺境伯がどうされましたか」
「昨日の夜会の前。お義姉さまが支度をしている間、兄さま、廊下をうろうろしてたんです」
……うろうろ。
「三回。お義姉さまの部屋の前を通って。四回目に扉の前で止まって。五回目に踵を返して。私が『兄さま何してるんですか』って聞いたら、『別に』って」
情景が浮かんだ。あの人が廊下を歩く。固い靴底の音。扉の前で止まる。音が消える。また歩き出す。
「……それだけですか」
「それだけじゃないです。馬車の中でもそうでした。王都に向かう8日間、ずっとそわそわしてました。窓の外を見て、お義姉さまを見て、また窓を見て。話しかけようとして、やめて。私が気づかないと思ったんですかね」
胸の奥が、小さくざわついた。
「辺境伯は元々、口数の少ない方です。それは——」
「違います。口数が少ないのと、そわそわしてるのは別です」
ナディアの声が、少しだけ強くなった。
「兄さまは普段、そわそわしません。砂嵐が来ても、遊牧民が国境を越えても、黙って動くだけです。でもお義姉さまの前だと——言葉を探してるんです。見つからなくて。見つからないから、黙って水差しを持ってきたり、薪を足したり。……あの人なりの、精一杯なんです」
——知っている。
知っている。薪を足す回数も。水差しの回数も。食事で好物が出る回数も。帳簿に書いた。全部書いた。
ナディアが私の顔を覗き込んだ。
「お義姉さま。兄さまは昨夜、『俺の妻だ』って言ったんですよね。夜会の人たちが話してました」
杯を持つ指が震えた。置いた。音を立てないように。
「……ええ」
「兄さまが自分から言葉を出すの、すごく珍しいことなんです。あの人は——言葉が怖いんだと思います。お父さまがお母さまに言葉を伝えられなくて、お母さまが出て行ってしまったから」
知らなかった。
ラシードの母が去ったことは聞いた。だが——言葉が怖い、という部分は。
「だから兄さまは行動で全部やろうとするんです。でも昨日は言ったんです。噛みながら。……それって、すごいことなんですよ」
喉が詰まった。
——なぜ。
なぜ、直接言わないのか。なぜ、ナディアを通さなければ聞こえないのか。なぜ、あの人は自分の口で——
苛立ちが、胸の底から湧き上がった。合理的ではない苛立ちだった。ナディアに対する怒りではない。ラシードに対する——
……違う。これは怒りではない。
あの人の言葉が、聞きたい。
直接。ナディアの翻訳ではなく。噛んでもいい。掠れてもいい。短くていい。あの人の声で、あの人の口から——
帳簿に書けなかった。この感情に、項目がなかった。
「お義姉さま?」
「……ありがとう、ナディア。紅茶が冷めます」
話題を変えた。変えるしかなかった。
ナディアが何か言いかけて、口を閉じた。分かっていたのだろう。今はここまでだと。
窓の外で、固い靴音が聞こえた。ラシードが戻ってきた。何かを抱えていた。遠くて見えない。
目が、追っていた。
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