誰かの幸いの向こう側

ゆりすみれ

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#14 同じ空

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 春の新卒採用関係の激務をなんとかこなし、年間を通して夏の人事部は比較的落ち着いている。

 とはいえ中途採用は通年であるし、社員の健康診断の管理や夏の大きな転職フェアの準備もある。ここから秋にかけて人事評価や昇進関係の会議も増えてくるし、冬にはまた煩雑な年末調整の時期がやって来る。忙しない社会の一部に組み込まれ、毎日を淡々と生きていく。

 軽い残業で仕事を終えた火曜日の夜。夕飯と風呂を済ませ、冷蔵庫からビールを取り出した。

 今日の夕飯は、近所の弁当屋のしょうが焼き弁当にした。週に二回くらいは簡単なものを自炊するが、ほぼコンビニか弁当屋に頼っている。自炊も週初めの方はだるい気持ちが勝ってしまうのでやることはなく、やったとしても週の後半のみ。一人暮らしも12年目ともなると、必要最低限の労力で要領よく生きられるようになってくる。

 会社と家を往復する日々。同じようなことを毎日、毎週、くり返す。金曜の夜は誰かと……というかほぼ星彦と飲みに行き、週末に特別やるような趣味もない。ゲームくらいはするが、誰もが知っているようなビッグタイトルを気まぐれでやるだけ。それだって、飽きたらすぐにやらなくなる。

 ……どうしてもセックスがしたくなったら、適当にアプリで探して誰かに相手をしてもらう。そういうことも頻繁にはできず、本当に時々、衝動的にするだけだ。セフレになるほど相性のいい相手ともそうそう出会えない。それでも若いときはもう少し前のめり気味に人肌を求めたりもしたが、今は知らない人と会うことすら億劫になってしまった。性欲がその億劫さを大きく上回らないと行動に移せない。

 あ、俺……、知らない人と会うのなんてもう面倒だと思ってたのに、真咲とは最初から普通に会えてたな……。

 なんだか、それがすべてのように思えた。

 部屋着として着ているハーフパンツのポケットにスマホを入れ、まだ開けていない缶ビールを片手にベランダに出た。単身用アパートの三階。就職を機にここへ越してきた。広くもお洒落でもないごく普通の部屋は、身の丈に合っていて、自分では結構気に入っている。

 空はあいにく曇っていた。曇っていてもいなくても、ここで星は見えない。雨が近いのか、外の空気は思ったよりじめっとしている。

 ──真咲の気持ちが知りたい。けど、知りたくない。怖い。

 ネカフェであんな風にキスをしてしまってから、ずっと真咲のことを考えている。

 あの夜は欲の向くまま本当にキスばかりして、どこかで力尽きたのか、気づいたら二人でマットに転がって始発が走り出す頃まで眠っていた。

 幸せで、せつないキスだった。ずるかったとも思う。

 真咲は、少しくらいは俺に気があるんだろうか。脳が痺れるようなあんな濃いくちづけをして、さすがに嫌われているとは思わないが。……いや、全部俺の勘違いだったとして、星彦に続いて真咲にまで見放されたら今度こそ確実に再起不能になる。逃げ道を作っておくくらいの慎重さは必要だろう。真咲は寂しかっただけだと、期待しないように、一生懸命言い聞かせる。

 缶ビールを開けた。夜の静けさの中で一口飲む。

 でも、真咲に会いたいな……。

 今しがた慎重になるべきだと思ったのに、押し寄せる大胆な気持ちにも抗えない。

 ポケットからスマホを取り出し、春川真咲の名を表示させた。少しだけ迷い、それでも思いきって通話アイコンをタップし、耳に当てる。

『もしもし……?』

 数回のコール音のあと、明らかに不審がる真咲の声がした。

「今、大丈夫?」

『大丈夫だけど、急にどうしたの……電話なんて初めてだよね……? 急用?』

 いつもはラインでだらだらと、メッセージをやり取りするだけなのに。

「別に。……さみしがりやの真咲が、さみしがってるかもって思って」

『ふっ、……何それ』

 耳に流れ込んでくる軽やかな真咲の声がくすぐったい。よかった、いつも通りだ。気まずくなってしまったらつらいなと思っていたから、単純にほっとする。

「何してた?」

『んーと、いつもはこの時間だいたい望遠鏡タイムなんだけど、今日は曇ってるからナシだなーって思ってたとこです』

「そうだね、今日はがっつり曇ってる。もうすぐ雨降りそう」

『今、外なの?』

 すぐ天気の話に反応した俺に、真咲が訊いてきた。

「家のベランダ。缶ビール持って、夜風に当たりながら、真咲と電話してる」

『えー、いいな、それ。……おれもビール持ってこよ。ベランダ出るから、ちょっと待ってて』

「付き合いいいじゃん」

『星見えなくて、どうせ暇だったから』

 真咲がバタバタと移動しながら準備をしている音が微かに聞こえてくる。真咲の家には遊びに行ったことがあるから、どんな風に冷蔵庫にビールを取りに行くのかもだいたい想像できる。突然電話したのに、わざわざ同じようにして付き合ってくれるのも嬉しい。真咲をいとしいと思う時間は、どんどん増えていく。

『おまたせ、おれもベランダ来たよ。……わ、蒸し暑っ……、圭くん暑いの嫌いなのに、なんでベランダなんか出たの』

 涼しい部屋の中で飲めばいいのに、と真咲が不思議がった。

「真咲にいろいろ教えてもらってから、たまにこうやって外に出て、空見ることあるよ。見方わかんないから、結局月くらいしか見えないんだけど」

『肉眼じゃ厳しいよ』

 電話の向こうで真咲が苦笑する。

「子供の頃はさ、当たり前に見え過ぎて、逆に星空なんか意識したこともなかった。……こっち出てきて、星が見えないことにすら、ずっと気づかなかったんだけど」

 夜空なんて、大人になってから、ちゃんと見上げたこともなかった。

「真咲が教えてくれたから、もっと知りたいと思ったし、見たいと思ったんだよ」

 自分ひとりだけでは触れることもなかった世界に、触れようとする。誰かに影響される日々がこんなにもいとしいものだと、気づかされる。誰か……、じゃなくて。真咲だからだとは思うけど。

『ど、どうしちゃったの……布教が成功してるっぽいのは嬉しいけど』

 戸惑う真咲の顔が、容易に想像できた。

「俺も天体望遠鏡買おうかな」

『えー? 本気? 買うならおれが持ってるやつよりもいいやつにしてよ』

「なんで」

『そしたら圭くんのところで、最新の高性能のやつ覗かせてもらえるんでしょ』

「自分で買いなよ」

 どうでもいい会話をしながら、冷たい缶ビールを傾ける。星はおろか月さえ見えない夜だったが、いい夜だと思った。

「……電話っていいな」

 離れている相手と、声を繋ぐ。今すぐ会いに行けなくても、声が聞こえると、ひどく安心する。

『こんな、大事な用件のないただの電話、久しぶり』

 真咲にくすくす笑いながら言われ、俺も少し笑う。本当に勢いだけで電話してしまった。

『ほら、こういうシチュエーションで、同じ月を見てる……みたいなのあるじゃん。遠距離恋愛とかでさ』

 真咲が空を見上げているのが伝わった。俺も空を見上げる。厚い雲に覆われた、どんよりとした夏の夜空だ。遊園地のときみたいに花火も上がっていなければ、真咲と星彦がくちづけたという満天の星空でもない。とてもロマンチックとは言えない、ただの空。

「別に近場だし、今日は月も見えてないけど」

『……でも、同じ空見て電話してるのって、なんかすごくいいね』

 そう言った真咲の屈託ない笑顔がすぐに脳裏に浮かんで、あぁいいな、と胸が詰まる。

 ──会いたい。

「ねぇ」

『んー?』

 ビールを啜ったであろう真咲が、のんびりと気の抜けた返事をした。

「今週の金曜日、真咲の家行ってもいい?」

『おれんち? いいけど』

「泊まりで」

『……』

 わずかに、会話が止まる。

「ダメ?」

『い、いけど……何するの。……もしかしてほんとに、夜通しで望遠鏡覗きたいとか?』

「それもいいけど」

 仰いだ空の遠くを見つめて、俺は真咲に気づかれないように小さく息を整えた。

「……もっと、気持ちいいこと、かな」

『……っ、』

 電話のこちら側と、向こう側の、空気が一瞬であまくなる。欲まみれの真咲とのキスを思い出し、肌に熱が走った。

「この前の続き、したい……」

 この前の、互いにネクタイをほどいたあとの続きを。もう一度ふれ合って、気持ちの在り処を確認したい。真咲は、本当はどういうつもりだった?

「お誘いの電話でした」

『……っ、……め、めちゃくちゃ、大事な、電話だった……』

 油断していたらしい真咲は、電話の向こうであたふたしている。

「……ダメ、かな?」

『……いい、よ。……そもそも、先に誘ったのおれの方、だし……』

 たどたどしい真咲が、白状するように言葉をゆっくりと落とした。誘った自覚はちゃんとあったのか。あの夜わざと終電を逃していた真咲を思い出すと、いとしさで胸がぐっと締めつけられる。そうまでして俺と一緒にいたいと思ってくれたことが、ただ嬉しい。

「会社からそのまま行くけどいい?」

『……わかった。下着だけ持ってきて。あとはおれの服とか貸すから』

「準備しておいて。……いろいろ」

『っ……』

 準備、いろいろ、の意味をどう解釈したのか、真咲の照れた様子が電話越しにも伝わってくる。

『っていうか、電話』

「?」

『ほんとは圭くんが寂しかっただけなんじゃないのー?』

 楽しそうにからかってくる真咲の声が、耳に柔らかく響く。

 空を大きく見上げた。曇った同じ空を、真咲もこの世界のどこかで見ている。……会いたい。

「……当たり」

 寂しくて、君を求めていたのは俺の方。

 俺を受け入れてくれるこの男に、少しは期待してもいいんだろうか。もし、万が一、俺と同じ気持ちだったら。

「早く金曜にならないかな」

『……すぐだよ』

 グレーのまま曖昧にしてしまった感情に、今度はちゃんと色をつける。

 今度、君に会ったら。

 なんて伝えよう──?
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