誰かの幸いの向こう側

ゆりすみれ

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#17 ひどい人

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 好きだよ、と君に言えなくなってしまった。

 言ったところで、困らせる。今日を最後にもう会ってくれなくなるかもしれない。言えない。言わない。

「ま、って、……圭くん、まって……」

 薄っぺらいラグの上に転がした男に覆いかぶさり、耳朶じだを食むように舐め回した。焦った真咲が、その細腕で俺のからだを押し戻そうとする。

「ちょ、っと、……まっ……」

「待ったよ……今日はもう、ずっと待ってたから、……もう待てない」

「まって……す、するなら、シャワー浴びたい、……だから、……」

「だめ……星彦の匂いが消えちゃうだろ」

「……っ」

 真咲の目が、わずかに曇った気がした。

「そんなに、この匂いが、いいの……?」

「これがいちばん星彦のこと思い出せるから。……このまま、したい……」

 星彦の匂いに欲情している振りをして、真咲を欲しがる気持ちを隠す。傷つかないように、逃げ道を作る。

「……ひど」

 諦めたように、真咲の長いまつげがそっと伏せられた。なんと言われようとも、もう引き返すことはできない。悪態をついた真咲の口を、これ以上何も言えないように塞ぎにいく。

「ん……っ、……ん」

 嫌がる素振りをしていたわりに、許可なく差し入れた舌は真咲の舌に丁寧に迎え入れられた。あの夜ネカフェで夢中になったのと同じように、躊躇うことなく絡まって、口の中でよく馴染む。

「んぅ、……んっ……」

 俺の両肩を掴んでいた、本当は俺のからだを押し戻したかったであろう真咲の手は、徐々に力を失い、やがて降参した。肩の上からそろそろと敗北の両手が伸びてきて、俺の首の後ろにゆっくりと巻きついてくる。

「……ぎゅってしがみついてくんの? かわい……」

 遠慮がちに回された真咲の腕にいとしさを覚えながらも、きっと誰にでもこうしているのだと思うと複雑で仕方なかった。寂しさを紛らわすための手段としてセックスを利用してきた俺たちは、好きじゃなくたって場の雰囲気で甘えられる。

「いつもこうやって甘えるんだ? こういうの、アプリの相手も喜ぶんじゃない?」

「……っ」

 至近距離で俺を仰ぐ真咲のつぶらな瞳が、何か言いたげに大きく揺らいだ。

「そういう圭くんは……乱暴で、強引。いつもそうなの……?」

「……そうかもね。だって、貴重な機会は……楽しまなきゃ損だし」

 違う。たまにする行為はもっと冷静に、淡々と。単純に快楽だけを求める。こんな風に感情的に押し倒したり、噛みつくようにキスをしたりなんて、まずしない。真咲だけだ。……でも、真咲だけが特別なんだと、今知られるわけにはいかない。

「たの、しむ……」

「そう。俺は正直、気持ちよければなんでもいいよ。……真咲もそういう感じ?」

「お、れは……っ……」

「相手、俺でごめんね。……でももう、やめてあげらんないからさ、……悪いけど今日だけは付き合って……」

「っ……」

 わざと、遠くに遠くに突き放す。俺が真咲を好きになってしまっているのを悟られないように、慎重に。ひどい言葉ばかりをくり返せば、さすがに好きだとは思わないだろう。

「ネクタイ、外し合いっこしよう? この前みたいに」

 真咲に乗り上げたまま、男の首元を詰めているバーガンディのタイの結び目に指を掛けた。片手で手早くほどき、引き抜かずに左右に流せば、細い布切れがはらりとラグの上に落ちる。

 真咲も俺の首に回していた手をそろそろと移動させ、垂れ下がっているそれに触れた。

「この前真咲に外してもらったの、すっごく興奮したから……クセになったかも」

 指先がゆっくりと伸びてきて、結び目がぎこちなく崩される。真咲はほどいたものを襟から引き抜くと、自分の頭上にふわっと放り投げた。

「このまま、おれが、ボタン外して脱がせたら……もっと興奮、する……?」

 ひとつひとつ確かめるように、言葉を短く切りながら真咲が訊いてくる。

「するよ。……して?」

 ねだると、真咲は両手を伸ばして、俺のワイシャツのボタンを上から順に外し始めた。同じ速度で、俺も真咲の閉じられた肌をひとつずつ解放していく。下に行くほど、釦を弾く指は勝手に熱を持った。

「興奮、してくれてる……?」

 不安そうに真咲が尋ねる。

「大丈夫、……ずっと、ぞくぞくしてる……」

 安心させてやるように組み敷いた男にそっとそう伝えると、ずっとどこか強張っていたような真咲は、やっと少しだけ目元を緩ませてくれた。

 俺の指も真咲の指も、互いのシャツの下方をスラックスから引っ張り出し、ほとんど同時に一番下までたどり着いた。最後のひとつを外し合うと、頼りなく半身を包んでいた衣が割れ、互いの腹筋があらわになる。

 素肌を、存分に晒し合う。明かりの下で、真咲の線の細い腰つきがくっきりと見えて、俺は思わず息を呑んだ。頻繁に会っていたのに、こんなの知らない。俺みたいな単純な男を誘惑するには充分すぎるほど、真咲のからだには独特の艶っぽさがあった。

「やらしい、からだ……」

 褒めながら華奢な脇腹をすうっと人差し指で撫でると、男のからだがびくっと揺れる。見上げてくる瞳が、俺がどんな風にふれてくるかを期待するように潤む。

「べつに、やらしくなんか……」

「自覚ないのか。……厄介だね」

 細く儚げな体躯が庇護欲を煽り、極限まで甘やかしたくなる。同時に、乱暴にしたらあっさりと壊れそうな危うさに、猛る情欲を無理やりぶつけてやりたくもなる。こんな厄介な感情を呼び起こされて、この男を前に、とても理性的ではいられない。

 たまらなくて、無防備になった肌に口唇を寄せた。

「……、……っ、あ」

 浮き出ている鎖骨を強めに吸っただけで、控えめなあまい声がすぐに降ってくる。この身体で感度もいいとか反則だろ……と頭を抱えたくなったが、落ちてくる愛らしい声をもっと浴びたくて、真咲の皮膚をわざと大きな音を立てて吸い上げる。

「っあ、……やっ、……」

「ねぇ、セフレとかいたの? 星彦のこと好きだって言いながら、実は他でヤリまくってた?」

 前戯の最中の下衆な問いかけに、真咲がひどく困った顔をした。

「……なん、で、……そんなこと……」

「だって、真咲みたいなの、……知った男はみんな放っておかないだろ」

 いっそ、いたよ、と言われた方が気が楽だと思った。君をビッチに仕立てあげて、この前のキスも、今も、全部ただの気まぐれで済ます。寂しさを埋めるための。どこにも発散できない欲を吐き出すための。

 意味のないセックスにしたいのに。そうじゃなきゃ、……つらい。俺だけが今を特別にしてしまったら、つらい。

「い、いたことなんて、ない……っ」

 真咲が瞳を歪めて、必死で訴える。

「……というか、こういうの、……ほんとは、ほとんど、……したことない」

「でもアプリで、タチの男見繕うんだろ?」

「数えるほどしか……したことないよ」

 硬い床に背を預けている真咲が、せつなげに俺を見上げた。

「おれは確かに、優等生じゃないかもしれないけど……」

 真咲が、羽織っているだけになった俺のシャツをぐしゃっと思いきり握る。

「でも、だからって……相手が誰でもいいわけじゃない……!」

「っ……」

 ……なんでそんなこと言うんだよ。星彦じゃないならもう誰だっていいって言ってただろ? 俺でも、俺じゃなくてもいいって言えよ。……いい加減に、適当なこと、言ってくれよ。

「だから……、っん……は、ぁ」

 そんな風に思っても続きを聞く勇気はなくて、何かを紡ごうとした真咲の口に自分の口唇を慌てて重ねた。真咲の口の中に入っている間は、何もかもがどうでもよくなる。

「んぁ……んっ、……ん」

 キスを深くしていく度に、真咲の目は驚くほど溶けていった。溶けていく過程を見逃したくなくて、薄目を開けて男を眺めながら余裕なくくちづける。いつも見惚れていた美しく長いまつげがひどく近いところにあって、ふと胸が詰まる。苦しい。好きなのに、近くて、とても遠い。

「それは、……俺としたかったってこと?」

 何ひとつ本音を確認しないまま、からだだけが勝手に繋がる準備を始めている。多分誰も幸せになれないセックスは、このまま始まってしまう。

 二つの瞳をぐずぐずにした真咲が、キスの余韻の息を整えながら、少し拗ねたように俺を仰いだ。

「だから、もぅ、……そんなに、ひどいことばっか言わないで……」

 床についていた俺の手に、真咲の指先が絡みつく。そのまま手首を越えて上がってきて、腕を縋るように掴んできた。真咲は、俺が離れていこうとすると、いつも腕やシャツを掴んでくる。

 君のいちばんには、なれないのに。

 ひどいのは、どっちだよ……。

「善処は、する」

 口ではそう言ったが、きっと無理だと思った。






「ん、っ……、……あ」

 ソファとローテーブルの間の狭いスペースで、好きな男に跨がり、上半身をまさぐる。男の首の辺りからは常時星彦の香水が香ってきて、気が狂いそうだった。

「やっ、……あっ、」

 さっきも試した通り真咲のからだは思った以上に敏感で、わずかな刺激を与えただけで、声もからだも容易く跳ね上がった。真咲があまりにも素直に俺を受け入れてくれるせいで、自分の指先が男を悦ばすことに長けているんじゃないかと錯覚しそうになる。指先ひとつで思い通りになるこの男が、たまらなく、いとおしい。

「あっ……」

「ここ……弱いね」

 真咲の声が一層高くなるところはすぐにわかって、指は執拗にそこに留まった。気づいてしまったら、離してやれるはずがない。

「数えるほどしかしたことないのに、乳首感じるんだ? やっぱ、えろ……」

「ち、がっ……、や、っん」

 胸にのっている丸い二つの粒を、同時につまみ、しつこく丁寧にいじってやる。何度くり返しても真咲の声は高く弾み、こぼす息は徐々に荒く規則的になっていった。

「違わないでしょ。……いいんだよ、やらしくて。少しでも気持ちいいって思ってくれてるんなら、俺も、さわり甲斐あるし」

「ん……っ、気持ちいいの、おれだけ……?」

 また少し心細そうにしている真咲の重たい前髪に手を伸ばし、そっと撫でてやる。

「俺は……気持ちよさそうにしてる真咲を見て、」

 真咲の耳朶まで一気に口唇を寄せ、そこで囁いた。

「……すっごく勃たせてる」

「……っ!?」

 耳元に顔を近づけている状態でも、真咲の表情が変化したのがわかった。

「確かめたら?」

 耳のそばでそう言ってから改めて男を見下ろすと、すっかり頬を上気させた美しい真咲と目が合う。いいよ、の意味を込めて少し微笑んでやると、真咲の手がおずおずと俺に近づいてきた。

 男の指が、ベルトのバックルに掛かる。もどかしい手つきでベルトを外され、そろそろとジッパーを下ろされた。

「っ……」

「ほらね」

 今にも爆ぜそうな力強さで持ち上がっている性器に、真咲の視線がしばらく釘付けになった。自分も同じものを持っているはずなのに、驚きと感嘆を混ぜた潤む瞳で、俺をじっと見つめてくる。

「真咲は? 勃ってる?」

「……わ、わかるでしょ……」

「わかんないよ。見せて」

 今度は俺が、真咲のベルトに触れた。かちゃかちゃと乾いた金属音が、静まり返ったアパートの一室で、切り取られたように妙に響き渡る。ベルトの革が擦れる音も、ジッパーをゆっくりと下げる音も、神聖な儀式の一部となって脳の奥まで届く気がした。

「真咲もガチガチ。一緒だ」

「……っ、わかってた、くせに……」

 緩めたスラックスから真咲の大きく膨らんだ陰茎を取り出し、空気に晒す。揃いの欲深い根をゆっくりと近づけ、裏同士をぴたりと合わせると、羞恥の限界にきたらしい真咲が自身の顔を両腕で雑に覆った。

 興奮する。好きな男が、自分の下で同じようにおっ勃てて、俺がふれるのを待っている。最高の眺めだと思った。

「勃ってんの、よく見える」

「い、言わなくて、いいっ……」

 よく見える、と自分で言い出して、今さらはたと気づく。部屋の電気をつけたままだった。勢いで真咲を押し倒したから消すタイミングもなかったし、気にする余裕もなかった。

 どうりでよく見えるはずだ。明るくて、最高の眺め、……のはずなのに。

 恥じらって顔を隠している真咲を明かりの中で見下ろせば、虚しさは浮き彫りになった。

 こんな風に、人には見せない部分をさらけ出したって、君は俺のものにはならない。だったらこれ以上興奮することがないように、余計な明かりはもういらない。

「……電気、消そっか。忘れてた」

「……い、ま?」

 顔を覆っていた腕を少しだけずらし、隙間から真咲が不思議そうに俺を見た。愛らしく覗く瞳に、思わず苦笑する。

「だって、……星彦のこと考えながらセックスしよって言ったのに、俺の顔見たら萎えるだろ」

「……」

「真っ暗にしていい? ……リモコンど、れ……っ、ん」

 ローテーブルに並べられたいくつかのリモコンの中から、それを探そうと軽く上体を起こすと、ついてくるように少しからだを持ち上げた真咲の片腕が勢いよくこちらに伸びてきた。首の後ろに腕を回され、ぐいっと持っていかれる。頭ごと引き寄せられて、真咲の方からくちづけられた。

「ん……、っ」

 君の顔がはっきり見えたら、つらいだけなんだよ──。

「……真咲? リモコンは」

「電気消さなくていい……このままで、いいから」

「明るいままするの……? ……大胆」

 君がそう望むなら。……やるせない気持ちは、我慢しよう。

 諦めながら薄く笑って、真咲のからだをそっと抱き寄せた。
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