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#18.5 移り香
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星空に興味がないのはわかってたけど、おれにはちょっとくらいは興味があるのかな、とは思ってた。
引き出物のバウムクーヘンを半分食べてくれたあのときから、圭くんはおれの心にすっと入り込んで、そのままずっと居着いている。
最初から不思議な人だった。だいたい、夜の公園で不審者にしか見えなかったおれに物怖じせず話しかけてくるのもヘンだったし、その上で素性の知れない初対面の男をいきなり遊園地に誘うなんて、たとえ酔っていたにしてもどうかしていた。
……まぁ、それでほいほい連絡先教えて、のこのこ出掛けていったおれもどうかしてたけど。
圭くんは見た目穏やかそうな好青年なのに、やることは時々突拍子もなくて、でも常におれのことを気遣ってくれてる感じはあった。半歩先から手を差し伸べて引っ張ってくれる強引さと、その半歩先から都度後ろを振り返っておれを見守ってくれるようなやさしさ、その両方のバランスが妙に心地よくて、いつの間にかおれの方が圭くんに会いたがってたと思う。
だから花火の下で手を繋いだことも、ネカフェで結構凄いキスをしたことも、電話口で泊まりに来たいと言ってくれたことも、全部、全部、本気で嬉しかった。
正直、自惚れてた。このままおれたちうまくいっちゃうんじゃないの、って期待して。圭くんも絶対おれと同じ気持ちでいてくれてるはずだって、無邪気に信じて。
あとは、好きって伝えるだけだったのに。
圭くんが好きって、……言えなくなった。
『圭はダメだよ』
隣に座っている星彦さんが、顔だけをおれの方に向け、満面の笑みでそう言った。背中に鋭い氷の刃を当てられたように、ぞくっとする。口角は柔らかく持ち上げてくれているのに、この人の目は、まったく笑っていなかった。
『え……』
何を言われたのか瞬時に理解できなくて、おれはひどく間抜けな声を出した。どうして圭くんの名前が出てきたのかも、どうして星彦さんの目が笑っていないのかも、何もわからない。
本当は今夜、圭くんがうちに泊まりに来る予定だった。でも星彦さんから少し異常とも思える縋り方をされて、結局突き放せずに、言われるがまま彼の指定するバーに来てしまった。恋愛感情を抜きにしても星彦さんには学生時代からよくしてもらっているし、本気で弱っているなら後輩として放っておくことはできない。
それに、本当は、多少の驕りもあったんだと思う。圭くんはおれのことをそれなりに気に入ってるはずだから、一度くらい約束を延期したところで、笑って許してくれるだろうって。おれと圭くんの間にはもうそういう信頼関係があるから、少しくらい待たせても大丈夫だろうって。……そんなわけないのに。本当は何よりも、今夜の約束を大事にしなきゃいけなかったのに。
だからこれは、すべてを甘く見ていたおれへの、罰だ。
『圭はダメ。可愛い後輩のおまえにだってあげられない』
星彦さんはソルティードッグを傾けながら、今度はおれの顔を見ずにそう言った。
バーのカウンターで、星彦さんと並んで座っている。先に来ていた仕事帰りの星彦さんは、チャコールグレーの細身のスーツを上品に着こなしていて、バーの中の誰よりも目立っていた。星彦さんの存在感に気後れしながらも隣に腰かけ、バーテンダーにギムレットをお願いした。
『え……、っと、……それはどういう……』
本当に意味がよくわからなくて、本日二度目の間抜け声を出してしまう。
『最近の圭は、真咲ばっかりだから』
『……!?』
おれがサークルの飲み会で、圭くんとよく会ってることを軽率に話したから? 圭くんもおれとのことを星彦さんに話してたの? わからない。
『……なんで二人でこそこそ会うんだよ。オレだって仲間に入れてよ』
星彦さんは、手元の背の低いグラスに視線を落としていた。グラスのふちにつけられた食塩が、バーカウンターの仄暗い照明を反射して少し光って見える。
『そ、それは……』
星彦さんを入れて三人で? そんなこと、一度も考えたことはなかった。星彦さんには永遠の愛を誓った女性がちゃんといて、人生のフェーズ自体がおれたちとはまるで違う。軽く飲みに行くことぐらいはあっても、今おれと圭くんがしているような会い方に星彦さんを入れられるわけがない。だいたいそもそもの始まりが、あなたを忘れるため、なんだから。
何も言えなくなっているおれをちらっと見てから、星彦さんはまた自分の手元に視線を戻した。目は、多分まだ笑っていない。
『ま、仲間に入れてくれは冗談だけど。……圭は、オレの親友だからさ。一番の友達が、オレのことないがしろにするのが耐えられない』
『け……西沢さんは、星彦さんのこと、ないがしろになんてしな……』
『したんだよ。真咲と仲良くなってからね』
星彦さんの声音は柔らかいのに少し威圧的で、おれに反論の隙を与えない強さがあった。
『あの、変なことを訊くんですけど、……ダメっていうのは、星彦さんが……西沢さんを好き、だからですか……?』
『好きだよ』
『……っ』
動揺して、言葉に詰まる。
『圭も好きだし、もちろん真咲のことも好き。可愛い後輩を、オレはずっと大事にしてきたつもりだったけど』
伝わってない? と、星彦さんは軽くからかうようにおれを見てきた。
『……そういう、好きじゃなくて……』
『誰かを束縛したいって思う感情が恋愛だけだと思ってるなら、それは違うと思うんだよ。少なくとも、オレはね』
彼の揺るがない持論なんだろう。束縛したいと堂々と口にする星彦さんは、自信に満ちていた。そうする権利が、自分にはあるとでも言うように。
『圭は特別なんだ。……心から、親友だと思ってる』
特別、という単語に胸がざわついた。これを圭くんが聞いたら、どう思うだろう。
『オレの隣でずっと、オレのくだらない愚痴を聞いて笑っててほしい。オレが誘ったら断らずに絶対に来てほしい。他の誰よりも、オレを優先してほしい』
『……すごい、束縛しますね……、友達相手に』
『嫌なんだよ。オレの周りにいてくれる人、誰にも離れていってほしくない。全員、オレのこと、もっと愛してほしい』
愛情なのか、身勝手なのか、どっちかわからなくなりそうな言い分に、あぁこの人は……と静かに悟る。
この人は、すべてを手に入れても、きっと永遠に満たされることのない人だ。一度自分に向いた好意を、取りこぼすことが怖い。愛されていないと不安になる。男も女も関係なくて、恋情も友情もいろいろとごっちゃになっているんだろう。たくさんの人に、愛されすぎたせいで。
だからあのとき、おれにわけもなくキスをしたんだと、ずいぶんと月日が流れてからようやく合点がいく。あのときは多分、おれでさえも手元に留めておきたかったんだと思う。おれが、あなたに、無垢な好意を向けたから。
『……オレのこと、捨てないでくれよ……』
本当は圭くんに言いたいであろう言葉を、酒に酔いながら星彦さんがおれに告げる。今夜はあまりいい酔い方ではなさそうだ。
『圭はやさしくて面倒見もいいから、一緒にいたくなる気持ちはすごくわかるけどさ、』
圭くんは知ってるの? 星彦さんは、こんなにもあなたを求めてる。圭くんを縛って、どこにも行かせないようにしてる。
でもそれってきっと、圭くんにとっては、嬉しいことなんだよ、ね……?
『オレより仲良くなるの、やめてくれる?』
『──っ』
人をたらし込む無敵の笑みでそう言われ、思わずぱっと目を逸らした。変わらず笑っていない星彦さんの本気の眼に、はいも、いいえも、どちらも出てこなくなる。
もちろん、はいわかりました、とは嘘でも言えない。でも嫌ですと答えたら、まだ本人にも伝えていない圭くんへの気持ちをこの場で明かさなきゃいけなくなる。それはできない。……今は、適当にやり過ごすべきだ。
『……そんな難しい顔しないでよ』
黙ってギムレットを見つめていたおれに、ようやく少し柔らかく穏やかになった星彦さんの声が落ちてくる。茶化すようにくすっと笑ってそう言うと、星彦さんは突然おれの方に腕を伸ばしてきた。肩を組むように気安く腕を回され、一気に距離を詰められる。
『圭じゃなくてもさ、真咲なら他にもいっぱい友達いるでしょ』
おれの顔のすぐ横に、星彦さんの美しく整った顔があった。たくさんの人に愛されている、ずっと大好きだった顔。横目でちらりと見ても、心臓にはもう何も響いてこない。こんな風に肩を抱かれて、少し前だったら、鼓動で胸が痛くなっていただろうに。
……おれ、ほんとにもう、星彦さんのことはいいんだな……。塗り替えられたんだ、圭くんに。
『友達、そんなにいないですって』
他の友達じゃ意味がない。圭くんじゃなきゃ。圭くんがいい。あの日泣いていたおれに声を掛けてくれた、圭くんが好き。
『嘘だぁ。真咲みたいないい子、みんなすぐ友達になりたがるよ』
酔いが回ってきたのか、星彦さんは少しずつ調子を上げてきた。何杯目かわからないソルティードッグのグラスも、いつの間にか空になっている。おれは肩に星彦さんの腕の重みを感じながら、よそよそしく苦笑した。
『えっと、……おれにしか話せない話って……』
『うん。圭をとらないで、って話』
圭くんには絶対に知られてはいけないと思った。星彦さんが抱える本音を知ったら、圭くんは絶対に星彦さんのところへ行ってしまう。そうしたらおれは、“用済み”だ。あなたは、星彦さんを忘れる必要がなくなる。
『……よくばりな、ひと』
星彦さんに届くか届かないかくらいの細い声でそう伝えてみた。聞こえていないのか、星彦さんはバーカウンターの中を眺めながら満足そうに微笑んでいる。
冗談で回された腕からは、香水のいい匂いがした。
圭くんは、ひどかったし、やさしかった。
『おかえり』
アパートの部屋の前でしゃがみ込んでいた圭くんを見つけたとき、取り返しのつかないことをしたんだと、そこでようやく自分のあやまちに気がついた。顔は勝手に青ざめ、からだは思うように動かない。
『ずっと待ってたの……? こんな、暑い中……』
一体何時間待たせた? こんなところで、ひとりで、……帰ってくるかもわからない薄情なおれを、圭くんはどんな気持ちで待ってたの?
『あー……、勝手なことしてごめん。せっかくここまで来たから、少しでも会えたらなって……』
おれだって会いたかったよ。会いに来てくれて、待っててくれて、めちゃくちゃ嬉しいよ。圭くんはやさしく笑ってくれたけど、おれは自分の浅はかさに愕然として、うまく笑ってあげられない。好きな人に会えたのに、こんな情けない顔しかできないなんて最低だ。
『……星彦と会ってた?』
『っ!?』
『そうなんだろ?』
『……ごめん、な、さい……』
『なんで星彦……、っ……』
言い訳なんてできるわけがなかった。こっそり隠れるように星彦さんと会ってしまって、移り香に気づかず帰ってきて、いちばん大切にしたかった人を怒らせている。信用のすべてを失った気がした。どうすればいい? どうすれば、あなたにまた笑ってもらえる?
『じゃあさ、二人で星彦のこと想いながら、セックスしよ?』
『!?』
圭くんに許してもらえるならなんでもしたかったけど、これはあまりにも酷だと思った。ここに、おれはいない。圭くんは、おれの向こう側にいる星彦さんを求めてる。
『まって……す、するなら、シャワー浴びたい、……だから、……』
『だめ……星彦の匂いが消えちゃうだろ』
『……っ』
好きな人が、おれじゃない人の匂いに欲情している。この匂いをつけてこなかったら、おれは圭くんに見向きもされなかったのかな。……悔しい。星彦さんの代わりになんてなりたくないのに、ふれてくる圭くんの熱には抗えない。全身がどうしようもなく圭くんを欲しがるから、他の男の匂いにサカっていることには諦めて目を瞑る。
『……電気、消そっか。忘れてた』
『……い、ま?』
『だって、……星彦のこと考えながらセックスしよって言ったのに、俺の顔見たら萎えるだろ』
どうしてそんな悲しいこと言うの? 萎えるわけないじゃん。……それとも、圭くんがおれの顔見たら萎えるから暗くしたいってこと……? 突き放されるたびにいちいち傷ついて、おれを見てよって思いながらこっちからキスしたのに、圭くんにはなんにも響いてなさそうだった。
圭くん、おれを見てよ。今あなたの目の前にいるのは誰? 星彦さんじゃなくて、おれだよ? おれとしてるって、意識してよ。
『……ここから先は、名前呼ばないで』
『え……』
『俺も、君のことは呼ばないから』
『……っ!?』
名前を呼ぶことも許されない。呼んでももらえない。
真咲って呼んでいい? って訊いてくれて、圭くんって呼んでもいいよって言ってくれて、お互いの名前が特別になった気がしてた。
おれだけだったのかな? 本当は、おれだけが圭くんにそういう気持ちを抱いてた? 圭くんがわからない。一緒にイったって心は近づかないし、今日はずっと圭くんが、遠い。
気を張っているから、圭くんにはおれが怒ったり拗ねたりしているように見えるかもしれないな。
だって、気を抜いたら、きっと泣いてしまう。
『はっ、あぁっ……』
『せまくて、あつくて……どうにかなりそ……、っ』
圭くんのをねじ込まれて、腰を持っていかれて、頭が溶ける。こんなに気持ちいいのに、名前を呼んで、それを伝えることもできない。……やっぱりおれは、誰かの代わり? 誰かじゃなくて、おれを満たしてほしいのに。
あなたは腰を振りながら、違う誰かを想ってる。
『はぁ、っ、……あぁ……い、く……』
『……わかった、俺もいくから、……中で、いっぱい、こすらせて、……っ』
圭くん、圭くん……。
呼ばせてよ……呼びたいよ。
圭くんを好きだって言いたいのに。
……でも、こんなおれじゃ、信じてもらえるはずがない。
圭くんにとってこのセックスは、特別でもなんでもないかもしれないね。でもね、おれにとってはね。
──好き。圭くんが、好き。
『あっ、も、っ……、……いく、──っ!』
『俺も、……っ、──!』
ラグに精液を垂らして、肩で小さく息をしながらうずくまる。おれは顔が上げられなかった。圭くんがどんな顔でおれを見ているのかも、おれがどんな顔で圭くんを見つめてしまうのかも、確かめるのが怖い。
『……ひとつだけ、訊かせて』
それでもおれは、確かめなきゃいけなかった。床に視線を投げたまま、後ろの圭くんに問いかける。
『圭くんは、星彦さんが……好きですか?』
『……好きだよ』
決定打は、セックスのあと、唐突に打たれた。
……手遅れだよ。おれは、とっくに好きになってる。
次会ったらまた抱いてほしいって思うに決まってるし、この先、今よりももっと好きになる自信がある。
圭くんに好きになってもらえないなら、いちばんになれないなら、これ以上一緒にいるのは結構きつい。……もう、会えないかもしれない。
圭くんの好きな人、おれじゃなかった。
引き出物のバウムクーヘンを半分食べてくれたあのときから、圭くんはおれの心にすっと入り込んで、そのままずっと居着いている。
最初から不思議な人だった。だいたい、夜の公園で不審者にしか見えなかったおれに物怖じせず話しかけてくるのもヘンだったし、その上で素性の知れない初対面の男をいきなり遊園地に誘うなんて、たとえ酔っていたにしてもどうかしていた。
……まぁ、それでほいほい連絡先教えて、のこのこ出掛けていったおれもどうかしてたけど。
圭くんは見た目穏やかそうな好青年なのに、やることは時々突拍子もなくて、でも常におれのことを気遣ってくれてる感じはあった。半歩先から手を差し伸べて引っ張ってくれる強引さと、その半歩先から都度後ろを振り返っておれを見守ってくれるようなやさしさ、その両方のバランスが妙に心地よくて、いつの間にかおれの方が圭くんに会いたがってたと思う。
だから花火の下で手を繋いだことも、ネカフェで結構凄いキスをしたことも、電話口で泊まりに来たいと言ってくれたことも、全部、全部、本気で嬉しかった。
正直、自惚れてた。このままおれたちうまくいっちゃうんじゃないの、って期待して。圭くんも絶対おれと同じ気持ちでいてくれてるはずだって、無邪気に信じて。
あとは、好きって伝えるだけだったのに。
圭くんが好きって、……言えなくなった。
『圭はダメだよ』
隣に座っている星彦さんが、顔だけをおれの方に向け、満面の笑みでそう言った。背中に鋭い氷の刃を当てられたように、ぞくっとする。口角は柔らかく持ち上げてくれているのに、この人の目は、まったく笑っていなかった。
『え……』
何を言われたのか瞬時に理解できなくて、おれはひどく間抜けな声を出した。どうして圭くんの名前が出てきたのかも、どうして星彦さんの目が笑っていないのかも、何もわからない。
本当は今夜、圭くんがうちに泊まりに来る予定だった。でも星彦さんから少し異常とも思える縋り方をされて、結局突き放せずに、言われるがまま彼の指定するバーに来てしまった。恋愛感情を抜きにしても星彦さんには学生時代からよくしてもらっているし、本気で弱っているなら後輩として放っておくことはできない。
それに、本当は、多少の驕りもあったんだと思う。圭くんはおれのことをそれなりに気に入ってるはずだから、一度くらい約束を延期したところで、笑って許してくれるだろうって。おれと圭くんの間にはもうそういう信頼関係があるから、少しくらい待たせても大丈夫だろうって。……そんなわけないのに。本当は何よりも、今夜の約束を大事にしなきゃいけなかったのに。
だからこれは、すべてを甘く見ていたおれへの、罰だ。
『圭はダメ。可愛い後輩のおまえにだってあげられない』
星彦さんはソルティードッグを傾けながら、今度はおれの顔を見ずにそう言った。
バーのカウンターで、星彦さんと並んで座っている。先に来ていた仕事帰りの星彦さんは、チャコールグレーの細身のスーツを上品に着こなしていて、バーの中の誰よりも目立っていた。星彦さんの存在感に気後れしながらも隣に腰かけ、バーテンダーにギムレットをお願いした。
『え……、っと、……それはどういう……』
本当に意味がよくわからなくて、本日二度目の間抜け声を出してしまう。
『最近の圭は、真咲ばっかりだから』
『……!?』
おれがサークルの飲み会で、圭くんとよく会ってることを軽率に話したから? 圭くんもおれとのことを星彦さんに話してたの? わからない。
『……なんで二人でこそこそ会うんだよ。オレだって仲間に入れてよ』
星彦さんは、手元の背の低いグラスに視線を落としていた。グラスのふちにつけられた食塩が、バーカウンターの仄暗い照明を反射して少し光って見える。
『そ、それは……』
星彦さんを入れて三人で? そんなこと、一度も考えたことはなかった。星彦さんには永遠の愛を誓った女性がちゃんといて、人生のフェーズ自体がおれたちとはまるで違う。軽く飲みに行くことぐらいはあっても、今おれと圭くんがしているような会い方に星彦さんを入れられるわけがない。だいたいそもそもの始まりが、あなたを忘れるため、なんだから。
何も言えなくなっているおれをちらっと見てから、星彦さんはまた自分の手元に視線を戻した。目は、多分まだ笑っていない。
『ま、仲間に入れてくれは冗談だけど。……圭は、オレの親友だからさ。一番の友達が、オレのことないがしろにするのが耐えられない』
『け……西沢さんは、星彦さんのこと、ないがしろになんてしな……』
『したんだよ。真咲と仲良くなってからね』
星彦さんの声音は柔らかいのに少し威圧的で、おれに反論の隙を与えない強さがあった。
『あの、変なことを訊くんですけど、……ダメっていうのは、星彦さんが……西沢さんを好き、だからですか……?』
『好きだよ』
『……っ』
動揺して、言葉に詰まる。
『圭も好きだし、もちろん真咲のことも好き。可愛い後輩を、オレはずっと大事にしてきたつもりだったけど』
伝わってない? と、星彦さんは軽くからかうようにおれを見てきた。
『……そういう、好きじゃなくて……』
『誰かを束縛したいって思う感情が恋愛だけだと思ってるなら、それは違うと思うんだよ。少なくとも、オレはね』
彼の揺るがない持論なんだろう。束縛したいと堂々と口にする星彦さんは、自信に満ちていた。そうする権利が、自分にはあるとでも言うように。
『圭は特別なんだ。……心から、親友だと思ってる』
特別、という単語に胸がざわついた。これを圭くんが聞いたら、どう思うだろう。
『オレの隣でずっと、オレのくだらない愚痴を聞いて笑っててほしい。オレが誘ったら断らずに絶対に来てほしい。他の誰よりも、オレを優先してほしい』
『……すごい、束縛しますね……、友達相手に』
『嫌なんだよ。オレの周りにいてくれる人、誰にも離れていってほしくない。全員、オレのこと、もっと愛してほしい』
愛情なのか、身勝手なのか、どっちかわからなくなりそうな言い分に、あぁこの人は……と静かに悟る。
この人は、すべてを手に入れても、きっと永遠に満たされることのない人だ。一度自分に向いた好意を、取りこぼすことが怖い。愛されていないと不安になる。男も女も関係なくて、恋情も友情もいろいろとごっちゃになっているんだろう。たくさんの人に、愛されすぎたせいで。
だからあのとき、おれにわけもなくキスをしたんだと、ずいぶんと月日が流れてからようやく合点がいく。あのときは多分、おれでさえも手元に留めておきたかったんだと思う。おれが、あなたに、無垢な好意を向けたから。
『……オレのこと、捨てないでくれよ……』
本当は圭くんに言いたいであろう言葉を、酒に酔いながら星彦さんがおれに告げる。今夜はあまりいい酔い方ではなさそうだ。
『圭はやさしくて面倒見もいいから、一緒にいたくなる気持ちはすごくわかるけどさ、』
圭くんは知ってるの? 星彦さんは、こんなにもあなたを求めてる。圭くんを縛って、どこにも行かせないようにしてる。
でもそれってきっと、圭くんにとっては、嬉しいことなんだよ、ね……?
『オレより仲良くなるの、やめてくれる?』
『──っ』
人をたらし込む無敵の笑みでそう言われ、思わずぱっと目を逸らした。変わらず笑っていない星彦さんの本気の眼に、はいも、いいえも、どちらも出てこなくなる。
もちろん、はいわかりました、とは嘘でも言えない。でも嫌ですと答えたら、まだ本人にも伝えていない圭くんへの気持ちをこの場で明かさなきゃいけなくなる。それはできない。……今は、適当にやり過ごすべきだ。
『……そんな難しい顔しないでよ』
黙ってギムレットを見つめていたおれに、ようやく少し柔らかく穏やかになった星彦さんの声が落ちてくる。茶化すようにくすっと笑ってそう言うと、星彦さんは突然おれの方に腕を伸ばしてきた。肩を組むように気安く腕を回され、一気に距離を詰められる。
『圭じゃなくてもさ、真咲なら他にもいっぱい友達いるでしょ』
おれの顔のすぐ横に、星彦さんの美しく整った顔があった。たくさんの人に愛されている、ずっと大好きだった顔。横目でちらりと見ても、心臓にはもう何も響いてこない。こんな風に肩を抱かれて、少し前だったら、鼓動で胸が痛くなっていただろうに。
……おれ、ほんとにもう、星彦さんのことはいいんだな……。塗り替えられたんだ、圭くんに。
『友達、そんなにいないですって』
他の友達じゃ意味がない。圭くんじゃなきゃ。圭くんがいい。あの日泣いていたおれに声を掛けてくれた、圭くんが好き。
『嘘だぁ。真咲みたいないい子、みんなすぐ友達になりたがるよ』
酔いが回ってきたのか、星彦さんは少しずつ調子を上げてきた。何杯目かわからないソルティードッグのグラスも、いつの間にか空になっている。おれは肩に星彦さんの腕の重みを感じながら、よそよそしく苦笑した。
『えっと、……おれにしか話せない話って……』
『うん。圭をとらないで、って話』
圭くんには絶対に知られてはいけないと思った。星彦さんが抱える本音を知ったら、圭くんは絶対に星彦さんのところへ行ってしまう。そうしたらおれは、“用済み”だ。あなたは、星彦さんを忘れる必要がなくなる。
『……よくばりな、ひと』
星彦さんに届くか届かないかくらいの細い声でそう伝えてみた。聞こえていないのか、星彦さんはバーカウンターの中を眺めながら満足そうに微笑んでいる。
冗談で回された腕からは、香水のいい匂いがした。
圭くんは、ひどかったし、やさしかった。
『おかえり』
アパートの部屋の前でしゃがみ込んでいた圭くんを見つけたとき、取り返しのつかないことをしたんだと、そこでようやく自分のあやまちに気がついた。顔は勝手に青ざめ、からだは思うように動かない。
『ずっと待ってたの……? こんな、暑い中……』
一体何時間待たせた? こんなところで、ひとりで、……帰ってくるかもわからない薄情なおれを、圭くんはどんな気持ちで待ってたの?
『あー……、勝手なことしてごめん。せっかくここまで来たから、少しでも会えたらなって……』
おれだって会いたかったよ。会いに来てくれて、待っててくれて、めちゃくちゃ嬉しいよ。圭くんはやさしく笑ってくれたけど、おれは自分の浅はかさに愕然として、うまく笑ってあげられない。好きな人に会えたのに、こんな情けない顔しかできないなんて最低だ。
『……星彦と会ってた?』
『っ!?』
『そうなんだろ?』
『……ごめん、な、さい……』
『なんで星彦……、っ……』
言い訳なんてできるわけがなかった。こっそり隠れるように星彦さんと会ってしまって、移り香に気づかず帰ってきて、いちばん大切にしたかった人を怒らせている。信用のすべてを失った気がした。どうすればいい? どうすれば、あなたにまた笑ってもらえる?
『じゃあさ、二人で星彦のこと想いながら、セックスしよ?』
『!?』
圭くんに許してもらえるならなんでもしたかったけど、これはあまりにも酷だと思った。ここに、おれはいない。圭くんは、おれの向こう側にいる星彦さんを求めてる。
『まって……す、するなら、シャワー浴びたい、……だから、……』
『だめ……星彦の匂いが消えちゃうだろ』
『……っ』
好きな人が、おれじゃない人の匂いに欲情している。この匂いをつけてこなかったら、おれは圭くんに見向きもされなかったのかな。……悔しい。星彦さんの代わりになんてなりたくないのに、ふれてくる圭くんの熱には抗えない。全身がどうしようもなく圭くんを欲しがるから、他の男の匂いにサカっていることには諦めて目を瞑る。
『……電気、消そっか。忘れてた』
『……い、ま?』
『だって、……星彦のこと考えながらセックスしよって言ったのに、俺の顔見たら萎えるだろ』
どうしてそんな悲しいこと言うの? 萎えるわけないじゃん。……それとも、圭くんがおれの顔見たら萎えるから暗くしたいってこと……? 突き放されるたびにいちいち傷ついて、おれを見てよって思いながらこっちからキスしたのに、圭くんにはなんにも響いてなさそうだった。
圭くん、おれを見てよ。今あなたの目の前にいるのは誰? 星彦さんじゃなくて、おれだよ? おれとしてるって、意識してよ。
『……ここから先は、名前呼ばないで』
『え……』
『俺も、君のことは呼ばないから』
『……っ!?』
名前を呼ぶことも許されない。呼んでももらえない。
真咲って呼んでいい? って訊いてくれて、圭くんって呼んでもいいよって言ってくれて、お互いの名前が特別になった気がしてた。
おれだけだったのかな? 本当は、おれだけが圭くんにそういう気持ちを抱いてた? 圭くんがわからない。一緒にイったって心は近づかないし、今日はずっと圭くんが、遠い。
気を張っているから、圭くんにはおれが怒ったり拗ねたりしているように見えるかもしれないな。
だって、気を抜いたら、きっと泣いてしまう。
『はっ、あぁっ……』
『せまくて、あつくて……どうにかなりそ……、っ』
圭くんのをねじ込まれて、腰を持っていかれて、頭が溶ける。こんなに気持ちいいのに、名前を呼んで、それを伝えることもできない。……やっぱりおれは、誰かの代わり? 誰かじゃなくて、おれを満たしてほしいのに。
あなたは腰を振りながら、違う誰かを想ってる。
『はぁ、っ、……あぁ……い、く……』
『……わかった、俺もいくから、……中で、いっぱい、こすらせて、……っ』
圭くん、圭くん……。
呼ばせてよ……呼びたいよ。
圭くんを好きだって言いたいのに。
……でも、こんなおれじゃ、信じてもらえるはずがない。
圭くんにとってこのセックスは、特別でもなんでもないかもしれないね。でもね、おれにとってはね。
──好き。圭くんが、好き。
『あっ、も、っ……、……いく、──っ!』
『俺も、……っ、──!』
ラグに精液を垂らして、肩で小さく息をしながらうずくまる。おれは顔が上げられなかった。圭くんがどんな顔でおれを見ているのかも、おれがどんな顔で圭くんを見つめてしまうのかも、確かめるのが怖い。
『……ひとつだけ、訊かせて』
それでもおれは、確かめなきゃいけなかった。床に視線を投げたまま、後ろの圭くんに問いかける。
『圭くんは、星彦さんが……好きですか?』
『……好きだよ』
決定打は、セックスのあと、唐突に打たれた。
……手遅れだよ。おれは、とっくに好きになってる。
次会ったらまた抱いてほしいって思うに決まってるし、この先、今よりももっと好きになる自信がある。
圭くんに好きになってもらえないなら、いちばんになれないなら、これ以上一緒にいるのは結構きつい。……もう、会えないかもしれない。
圭くんの好きな人、おれじゃなかった。
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涙と希望が交差する、切なくも温かい愛の物語。
僕の恋人は、超イケメン!!
八乙女 忍
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
今日もBL営業カフェで働いています!?
卵丸
BL
ブラック企業の会社に嫌気がさして、退職した沢良宜 篤は給料が高い、男だけのカフェに面接を受けるが「腐男子ですか?」と聞かれて「腐男子ではない」と答えてしまい。改めて、説明文の「BLカフェ」と見てなかったので不採用と思っていたが次の日に採用通知が届き疑心暗鬼で初日バイトに向かうと、店長とBL営業をして腐女子のお客様を喜ばせて!?ノンケBL初心者のバイトと同性愛者の店長のノンケから始まるBLコメディ
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