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ゆりすみれ

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52【眞空+冬夜Diary】三つの想い

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 控えめにトントントンと三回扉を叩くが、中から返事はない。無理もないか……と思い、入るよとひと言断った眞空は、そっと冬夜の部屋に足を踏み入れる。

 夕食もいらないと拒絶して部屋に引きこもっている冬夜は、あれからずっと勉強机の椅子に座ってぼんやりとしていた。夜も徐々に深くなってきたが、しゃべることも動くことも眠ることも忘れてしまったように、何もないただ一点を見つめる虚ろな眼をしている。それはかつてひばり園の片隅で見たことがある冬夜の姿と重なって、またあの頃のように冬夜が感情を欠落させて笑わなくなってしまうんじゃないかと、眞空は決してくり返されてはならないその悲劇にひどく怯えた。

「……冬夜」

 掛ける言葉が見つからなくて、ただ名をなぞることしかできない不甲斐なさに、眞空は兄として恋人として自信をなくしかける。

 黙ったままの眞空がしばらく弟の背後に寄り添って立っていると、ぼんやりとしたままの冬夜がすっかり重たくなった口をようやく開いた。

「……ひとつめは、怒り」

「え?」

「単純に、怒ってる。どうして僕は預けられたんだろうって。母親も父親も健在だったのに、どうして僕はずっとひとりぼっちだったんだろうって。……複雑な事情も、この歳になった今なら頭では理解できるけど……でも、どうして! どうして……」

 冬夜の語気が、強くなってかすかに揺れる。

「どうして、一緒に生きて苦難を乗り越えるっていう道を、選んでくれなかったんだろう……って」

 幼い頃、自分だけが持っていない未知の愛情に飢えていた。微笑み合う親子を街で見かけるたびに、腹の底に醜い感情が渦巻いた。

「一緒に生きていれば、それだけでつらいことを乗り越える力になったかもしれないのに……苦しいときに支え合えたかもしれないのに……大人って、本当に勝手だなぁって。……少なくとも僕は、一緒に生きてみたかったって思うよ」

「冬夜……」

 顔を歪ませながらまたいとしい人の名を呼んでやることしかできなくて、眞空は悔しくて口唇を噛みしめた。いつもそうだ。結局自分は冬夜の孤独や絶望を全部わかってやることはできない。そのもどかしさに、狂いそうになる。

「ふたつめは、同情。僕の存在が、あの人の人生を狂わせたんだ。秀春さんの人生も変えた。あの人の夫だった人の人生も、多分他にもたくさん……」

「……冬夜、それは」

「僕ってきっと、事故でできたような子だったんだよね? 誰にも望まれてなかったのにさ……なに呑気に生まれてきてんのって感じ。……僕さえいなければ、みんなの人生にひずみが出ることはなかったんじゃないかって思うと、ほんとは僕なんか生ま……」

「冬夜! ……それ以上言ったらおれでも怒るよ」

 それはあまりにも哀しすぎる仮定で、眞空は思わず強い声でたしなめてしまった。予想以上にきつめの声が出て眞空自身も驚いたが、たしなめたことに後悔はない。

「そんなこと、冗談でも言ってほしくない。自分の存在を否定するなんて絶対に許さないよ。冬夜がそう思って卑屈になっても、おれは絶対に許さないから」

「……」

「冬夜がいなかったら、おれは誰を好きになればいいの? ……初恋なんだ。おまえがこの気持ち教えてくれたんだよ?」

 はっとした冬夜が後ろに立っている眞空を慌てて振り返ると、ひどく困った瞳をした眞空が、冬夜をじっと見つめていた。困惑と怒りの狭間で揺れる眞空の瞳を見て、冬夜は自分が発した言葉の愚かさを猛省する。

「……ごめん、今のは僕が悪い。言いすぎたね」

「うん……おれの想い、伝わってるならいい……」

 冬夜はいたずらが失敗した子供のように、少しだけ笑ってみせた。

「でもね、みっつめは、感謝……なんだ」

「感謝?」

「そうまでして僕を守ってくれてうれしい……感謝してるんだ。こうやって今日まで僕のことを忘れないでいてくれて、一緒に生きてみたいって迎えに来てくれて、すっごく驚いたけど、すごく……すごくうれしいってことに気がついた」

 冬夜が、まだ家族を知らなかった頃の淋しがりだった自分を思い返す。

「いつかこうやって本当の親が迎えに来るの、ひばりにいた頃はずっと夢見てたんだ。……ほら、時々いたでしょ、親や親族が迎えに来て、自分の家に戻る子たち。その子たちのことが羨ましくてたまらなかったんだよね、僕。いつか僕もって、……僕にも僕を求めてくれる人がいるんだよって、みんなに見せびらかしたかった。まさか高校生になってから、そのシチュエーションが来るとは思わなかったんだけど」

 あのとき淡白で冷静だった冬夜が、実はちゃんと子供らしいそんな羨望を抱いていたとは知らず、眞空は弟をやさしく見た。

「強いな、冬夜は。こんな状況、海斗だったら絶対怒鳴り散らして、泣きわめいて、大騒ぎだよ」

「ふふ……そうかもね、海斗はきっと泣くだろうね」

 感電したように虚ろにはなっていたが案外思考は正常を保っているとわかり、眞空はほっと胸を撫で下ろす。これなら言ってもいいかなと、眞空は由夏が帰ってからずっと考えていたことを丁寧に口にした。

「……行ってあげてもいいと思うよ、由夏さんのところ」

 座ったままの冬夜が、目をぐっと見開いて眞空の顔を仰ぎ見る。

「離れ離れになっちゃうんだよ!? もう離れないって約束は!? ……眞空は僕のこと、そこまで好きじゃないってこと?」

「そうじゃないよ。おれは冬夜が、誰より何より、大好きだよ」

 まっすぐに冬夜を見つめて愛を告げる眞空は、もういつもの意気地なしで気弱な兄ではない。

「僕、眞空が行くなって言ったら行かない。ずっとここにいる」

 少し駄々っ子のような言い方をして自分を仰いでいる冬夜を、眞空はなおもいとしく見つめ続けた。こらえきれなくて、冬夜の前髪をかき上げるように指をくぐらせる。

「離れたダイニングから見てるだけだったけど、由夏さんの目がさ、すごかったんだ。目が、冬夜を愛してる! って叫んでた」

「……」

「考えてみたらものすごいパワーだよな。冬夜の身の安全と幸せを優先するためって言ったって、おまえを手放すの、相当勇気いったと思う。そのあとひとりで暴力男と闘って、決着とけじめつけて、秀春さんにも頼らずおまえを迎え入れる準備して……って、一体何年掛かったんだよ。全部冬夜のためだろ? 母親って強いなって改めて思った」

 かつて自分にもいたかけがえのない肉親が、一生懸命自分たちを愛してくれていたことを知っているから、眞空は由夏の目の熱さをちゃんと感じ取ることができた。

「そう思ったらさ、家族って、無限の形があるんだなって。寄せ集めのおれたちみたいに血のつながりだって乗り越えられるし、一緒に暮らせなかったからって家族じゃないなんてこともない。大事なのは心なんだろうなって」

 血のつながらない自分たちが、心を寄り添わせて家族になったように。遠く離れていた由夏が、冬夜のことを片時も忘れなかったように。

「……眞空と離れるの、怖いよ」

「離れ離れって、そういうことじゃないだろ? もう想い合ってるの知ってるから、おれは何も心配してない」

 おそらくいろんな人の想いの狭間で戸惑っている冬夜の背中を、そっと押してやるのも兄の役目だと。心細げに視線をうろつかせながら自分を見上げる冬夜を、眞空は柔らかくのぞき込む。

「おれの存在がおまえの足枷あしかせになるのだけは、違うと思うからさ」

「眞空……」

「おれたちの親みたいに死んじゃったわけじゃないんだ。目の前にいるなら、……会えるなら、甘えたっていいんだよ」

 もうどうしたって会えない両親を少しだけ思い出し、感傷的になった眞空が弱く笑った。

「冬夜ってさ、ほんとはずっと、ひとりぼっちなんかじゃなかったんだよ。ひばりで、全部を拒絶するみたいなあんな顔、する必要なかったんだよ。亜楼も海斗もあんな風に取り乱すほどおまえのこと大好きだし、秀春さんに愛されて、ずっと離れてた由夏さんにもあんなに愛されて……もちろんおれがいちばんだけど」

 そう言って眞空は、椅子に座ったままの冬夜を後ろからやさしく抱きしめた。強く回された腕に安堵して、冬夜はどこか迷いを振り払ったような清々しい顔になる。

「……あぁ、もう……眞空には敵わないな。正論しか言わないんだから」

 眞空の言いたいことはなんとなく伝わって、冬夜が小さくため息をもらした。自由こそが残酷なのだと、幼い頃にはわからなかったことが今ならよくわかる。冬夜はもう、この先の未来を自分で選ばなくてはならない。

「そんなかっこいいことばっか言われちゃったら、僕もしっかりしなきゃってなるでしょ」

「無理はしないで。つらかったら、全部おれに言って」

「……うん、すぐには答え出せないと思うけど、いろいろ、ちゃんと考えとく」

「冬夜の好きにしたらいい。おまえが何を選んでも、おれは何も変わらないよ。……冬夜がずっと好き」

 そう聞いてひどく安心した冬夜は、自分に巻きつけられた兄の腕にそっと手を添えて、眞空の方を振り向かないままにゆっくりと告げる。

「……ねぇ眞空? ちょっと弱ってる僕から、ひとつお願いがあるんだけど」

 今日なら大目に見てくれるはずだと、さかしい冬夜はこの好機を逃すような愚かな真似はしない。

「うん?」

「……眞空とエッチしたい」

「──……っ!?」

 眞空のからだが、大きくどくんと跳ね上がった。

「抱いてよ」

 冬夜は顔だけを後ろに向けると、自分を抱きしめている眞空の首元あたりにそのなまめかしい言葉をささやいた。桃色に熟れた薄い口唇を不意打ちで首筋に寄せられて、眞空がまた全身をびくんとうねらせる。

「心だけじゃなくて、からだごと、僕を眞空のものにして」
 
 冬夜のあまい吐息が眞空の首筋をそっと湿らせると、絡ませ合った二人の手に信じられない熱が走った。

「……もう……っ、おまえはどこでそういう、……いやらしい言い方覚えてくるの……」

 そわそわと落ち着きなく冬夜を問い詰めながらも、眞空は振り向いた冬夜のあごに手を添えて顔をぐいっと上向かせた。素直に従う冬夜が長くて細いまつげをゆっくりと下ろすのを確認すると、眞空は上から噛みつくようなくちづけを、深く落とす。

「……っ、ん……は」

 出会った舌先が引き合うように絡み、互いのあまい蜜を器用に吸い取った。一度合わせてしまうと、舌はいつも、離れるのをひどく嫌がる。

「んん……っ、まそら、」

 欲しそうに名を呼ぶ冬夜の乱れた息が頬にかかり、眞空は容易に頭を空にした。考えなければならないことがいろいろあるように思ったが、もういい。この瞬間だけは難しい悩みもなくして、キスに夢中になっているただの恋人同士になる。

「してくれる……?」

 息を継ぐことも許されないほどに口唇を貪られた冬夜が、とろんとした双眸そうぼうで再び問う。

「そのお願い、おれが断れるわけないでしょ」

 陶器のように白く透き通った冬夜の頬に、眞空が指を滑らせた。熱い。ただ、熱い。

「いいよ」

 眞空が冬夜に、色欲にまみれた眼を向ける。弟が欲しくてたまらないという目を、もう隠さない。

「しよっか、エッチ」
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