王は愛を囁く

鈴本ちか

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黄国へ

黄国へ ④

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「このような御髪で外に出すわけにいきません」

 力強く言う巻に「ごめんね」と呟き大人しくされるがままにする。
 髪を結うのはどちらかと言えば嫌いだ。
 朔(さく)という植物から抽出した油でがちがちに固めてあった碧琉の髪を巻は細い櫛で力任せに梳く。
 まるで寝たあなたが悪いのですよと言われているようで痛いけれど痛いと言えなかった。
 寝崩れた部分にまた塗り込んで見かけはみるみる良くなるが碧琉は巻に悟られぬよう小さくため息を吐いた。
 何度洗えばこの朔、ちゃんと落ちるだろうか?
 一度塗りこんだだけでも翌日まで髪がごわつく。それをこう何度も塗り込めるなんて。
 他国の王に謁見するのだから可笑しな恰好で出すわけにはいかない。巻の思いは重々承知しているが、遠慮のない櫛さばきに痛みで涙目になる。

「ねえ、黄国にいるあいだ毎日この髪型じゃなくてもいいよね?」

 碧琉は鏡越しに巻を見る。
 行事の際はこの髪型にするが普段は長い金髪を垂らしたままだ。書き物や体術習いのとき、後ろで結わえるくらいなもので、慣れていないせいか頭皮が痛い。
 巻の口元がきゅっと締まったので碧琉は返事が分かってしまい肩を落とした。

「何をおっしゃっておいでですか。仮にも王族である碧琉様が黄王宮に滞在なさるとあらば毎日御髪も整えねばなりません、当然の事でございます」
「うん、そうだよね」

 ご自分のお家ではございませんのよ、と巻は追い打ちをかけた。
 ちゃんと覚悟してきたのかと聞かれたようで、碧琉はただただ小さくなるばかりだ。
 覚悟はある。
 今まで碧琉は王宮でのんびり暮らしてきた。
 国内外を忙しそうに駆け回る碧冠や碧佳、碧慈を見ているとたまに、優しい父、兄に囲まれぬくぬくと暮らしている自分はただの穀潰しのように感じることがあった。
 だから黄国行きが決まった時、これでやっと自分も樹王室の一員として皆と並び立てると感じた。
 いまこの瞬間もやっと自分も故郷の役に立てると思っているのだが、いかんせん他国に行くのも家族と離れるのも何もかも初めてだ。
 頼るものが傍に居ない事がこんなにも心許なく感じるものなのか。もうそこに黄が迫った今、覚悟や強い承認欲求さえも霞むほど碧琉は不安に囚われてしまった。
 
 碧琉が巻の手を借り髪や衣装を整え直した頃、船は黄国の港に到着した。
 甲板に出ると乾いた風が顔を撫でる。
 空気の、匂いが違う。樹はもっと湿った匂いがしていた。でもここは乾いた土の匂いがする。
 そしてこの暑さ。昼は暖かいが未だ夜は上着が必要な春の樹とは比較にならない。
 もう真夏かと思う程だ。
 見える風景も、当然初めてだ。街並みの、家々はそれだけ見れば樹と変わらないのに集合として眺めると違いを感じる。
 碧琉は口をきゅっと結んだ。

 「碧琉様こちらへ」

 碧琉は頷き鏡の導くままに下船し二頭立ての馬車に乗り込んだ。
 当然のように隣に巻が乗り込んでくると思っていたのだが巻には別の馬車が用意してあったようだ。
 一人きりで馬車の揺れに身を任せていると緊張がじわじわと高まってくる。
 この馬車は、王宮へ向かっているのだろうか?
 柔和な笑みの鏡に導かれるまま馬車に乗り込んでしまったが、目的地は聞いてない。
 自分がどこに向かうかくらいちゃんと把握しておかないと。こういうぼんやりしたところが子供と言われちゃうんだろうなあ、碧琉は反省しつつ窓の外を見ながら小さく息を吐く。
 市街を通り抜け馬車は三十分も走らぬうちに止まった。
 馬車の扉が開かれ、黄国の従者が扉横で頭を下げている。降りろ、ということなのだろう。袴の裾を押えつつ、碧琉は朱塗りの建物の前へ降り立った。
 ここは王宮なのか。
 振り返り見る馬車越しの邸門は遥か遠く、顔を戻す先には面全体に朱で塗られた巨大な柱が立っており奥に広間が見える。
 柱の脇から左右に人が立ち並びその列は奥の広間まで続いているようだ。
 碧琉は息を飲む。
 やはり黒髪、褐色の肌を持つ人がほとんどだ。
 中には色白の者もいる、髪も黒髪の者が多数を占めるが赤毛、茶毛の者もいる。
 樹は大半の国民が肌は白く金髪だ。
 こうして人々を目の当たりにすると、分かっている筈なのにここは祖国ではないんだと実感する。
 左右二重に並ぶ人波を良く見れば手前の者たちの着ている物が後ろの者より少しだけ豪華だ。身分の高いもの、という事だろうか。
 しかしいつ歩き出せばいいんだろう。こんな時、巻がいれば耳打ちしてくれるのに。
 動けずに、ただ突っ立って俯く碧琉の前に馬車から降りた鏡がすっと進み出た。
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