『春に還る』

春夜夢

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第1話:運命の坂道で

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――ここで終わらせよう。

 三笠黎(みかさ れい)は、登りきった坂道の上でそう思った。

 季節は春。
 けれど、空はどこか冬のように灰色だった。
 見渡す限り、山と空と、まだ蕾のままの桜の木があるだけ。

 黎の胸には、ぽっかりと穴があいていた。

 誰にも言えなかったこと。
 誰にも助けを求めなかったこと。
 何度も「大丈夫」と言って、笑うふりをして、気づけば何もかも手放していた。

「……ここで、いい」

 ぼそりとつぶやいたその声は、風にすぐかき消された。

 そのときだった。

「ねぇ、そこに立っちゃだめだよ」

 背後から、女の子の声がした。

 振り返ると、白いワンピースに身を包んだ少女が立っていた。
 年の頃は十代半ば、いや、それよりもっと幼いかもしれない。
 けれど、その瞳だけは、どこまでも深く、そして静かだった。

「……誰だ」

「わたし? “春”だよ」

 まるで名前のように、そう名乗った。

 黎は、思わず目を細めた。
 この山には、誰もいないはずだった。観光地でも、ハイキングコースでもない。
 それなのに、なぜ彼女が――。

「さっき、笑ってなかったね。泣いてもなかった。そういう時は、だいたい“どこかに向かおうとしてる”時なんだよ」

 春は、まっすぐに黎を見た。

「でも、そこには、もう何もないよ。あなたの心は、まだここにあるから」

 その言葉が、不意に胸に刺さった。

 ――どうして、この子は、そんなことを言えるんだ。

 そう思ったとき、脚の力が抜け、黎はその場に崩れ落ちた。



 気がつくと、木造の小屋の中にいた。

 囲炉裏の火が、かすかにぱちぱちと鳴っている。
 自分の服はそのままだったが、手には毛布がかけられていた。

 傍らに座っていたのは、あの少女――春だった。

「おかえり。よく眠ってたよ」

 黎は起き上がり、辺りを見渡した。

「……ここは?」

「村だよ。山のふもとにある、小さな村」

「……なんで俺を?」

 春は首をかしげた。

「それはね、あなたが“来た”からだよ。“来よう”って思ったから」

「……わからない」

「うん、それでいいよ。最初から分かる人なんていないから」

 少女の声は、なぜだかとてもあたたかかった。



 その日、黎は春に案内されて、村の道を歩いた。

 そこには、古びた郵便受けのある家、風に揺れる洗濯物、よろよろ歩く猫、無言で庭に水をやる老夫婦。

 都会のような騒音もなければ、誰かの怒鳴り声もない。
 ただ、ゆっくりと人が暮らしていた。

「この村はね、“いったんおやすみするため”の場所なんだって」

「……誰が言ったんだ」

「昔、ここにいたおばあちゃん」

「……ここに来たら、何が変わるんだ?」

 春は足を止めて、振り返った。

「何かが変わるかは分からない。でも、“変わってもいい”って、思えるかもしれないよ」

 その言葉に、黎は返すことができなかった。



 日が暮れるころ、小屋に戻ると、囲炉裏の火はまだ赤々と燃えていた。

 春は、小さな器に湯を入れて差し出した。

「これ、野草のお茶。苦いけど、あったまるよ」

 それを口に含んだとき、不意に涙がこぼれた。

 苦さの奥に、どこか懐かしさがあった。
 昔、祖母が作ってくれた味に、少しだけ似ていた。

 そして、涙がこぼれる自分に、誰も何も言わなかったことが――今の黎には、何より救いだった。

 春は、ただ笑っていた。

「泣いてもいいんだよ。ちゃんと、ここにいるんだから」

 その言葉が、春の匂いと一緒に、胸の奥にそっと染みていった。
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