『春に還る』

春夜夢

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第9話:春の真実

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黎は、春の村で迎える何度目かの朝に、ふとした違和感を覚えた。
 空の色、風の匂い、鳥の声……すべてが、ほんの少しだけ“鮮やかすぎる”のだ。

 まるで、絵本の中に迷い込んだような感覚。

 そしてその感覚は、春に出会った最初の日――
 あの“坂の上”の出来事を思い出させた。

 自分の足で坂を登っていたはずなのに、気づけば春がいた。
 まるで最初から待っていたかのように、何も問わず、そっと寄り添ってくれた存在。

 あのときの出会いは偶然だったのか?
 ――いや、違う。

「春……君は、いったい何者なんだ?」



 その日の午後、黎は春を連れて坂の上に向かった。
 初めて出会った、あの場所へ。

 風が少し強く吹いていた。
 桜の花びらが舞い、空と大地の境目が曖昧になるほどに、世界はやさしかった。

「……ここで、最初に会ったね」

「うん。あのとき、黎くんの心は、もう限界だった」

 春は、いつものように微笑んでいた。
 でも、その瞳の奥に、深い深い光をたたえていた。

「僕は、“ここに来た人”の心に、ほんの少し寄り添うために存在してるんだよ」

「寄り添う……?」

「この村にはね、“戻ってくるための人”が来るんだ。
 自分自身に戻るために、感情を思い出すために、何かを手放すために」

「まるで……」

「そう。まるで、“春”のように。
 寒さの中にいた人の心を、もう一度あたためて、やわらかくして、次の季節に送り出す」

 黎は息をのんだ。

「じゃあ、君は……人じゃないのか?」

 春は、少しだけ寂しそうに笑った。

「黎くんがどう思ってくれてもいいよ。
 でも僕は、“誰かが人生を取り戻すときだけ、この村に現れる存在”なんだ」

 静かに風が吹いた。
 春の髪が揺れ、空の青さがその背に広がる。

「……この村は、心の境界にある場所なんだよ。
 生と死、過去と未来、逃避と再生――
 そのはざまで、もう一度“自分”を見つけるための場所」

 黎は、その言葉を全身で受け止めた。

 この村に来たのは、偶然ではなかった。
 自分を見失い、心が壊れかけていた自分が、“無意識のうちにここを選んだ”のだ。

 そして春は、そのために存在している。

「……帰れるのか、俺」

「うん。黎くんはもう、“帰る準備”ができてる」

「でも……」

 言葉が詰まった。

 まいのこと。
 村の人たちのやさしさ。
 春の存在。

 すべてが、“ここにいたい”と思わせる理由になっていた。

 けれど春は、静かに告げる。

「ここに残ることはできる。けれど、それは“進むこと”じゃない。
 “無垢に還る”ってことはね、“また一歩を踏み出す勇気”のことなんだよ」

 黎は、ゆっくりと目を閉じた。

 春の言葉は、まるで――
 自分自身が、心の奥でずっと言えなかったことを、代わりに語ってくれているようだった。



 夜。
 黎は、まいのもとを訪ねた。

 春のことを話した。
 この村のこと、自分のこと、全部。

 まいは、静かにうなずき、ノートにこう書いた。

『だから、この村は優しいんだね』

『わたしも、ここに来る前、ずっとひとりだった。
何も感じなくなって、誰かに頼るのが怖くて、言葉を閉じ込めてた。
でも、ここで“涙を流すこと”を思い出した。

だから……ありがとう。黎くんがいてくれて、嬉しかった。』

 その言葉に、黎は微笑んだ。

 そして静かに言った。

「ありがとう、まい。俺は――もう一度、歩いてみるよ」

 まいは、小さくうなずいた。

 そして最後に、ノートのページを破って、黎に渡した。

『また、春が来たら会おうね』
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