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第2話 突然の引き寄せ。冷酷宰相、甘すぎる接近戦
ディエンツ公爵邸に移って三日。
私は、まるで夢の中にいるような気持ちで、広すぎる客間に身を置いていた。
天蓋付きの寝台、身の丈ほどある鏡、美術館のように飾られた絵画と彫刻。
それらはどれも、私が生まれ育ったレイベルト伯爵家では見たことのない豪奢なものばかりだった。
けれどこの屋敷で、私に声をかけてくれる人間は少ない。
執事のロッシュ氏は親切だが、礼儀に徹している。
侍女たちは私を“閣下のご命令で迎えられた婚約者”として扱ってくれるものの、心を許している様子はない。
当然だろう。この家の主――ルシアス・ディエンツが、私を愛しているわけではないと、皆が知っているのだから。
(居心地が、悪い……)
だから私はなるべく目立たぬよう、静かに過ごしていた。
昼間は書庫にこもり、本を読みながら時間を潰し、夜は早めに眠る。
そんな生活が続いていた、ある日のこと。
「エルネア様、お部屋に戻られますか? それとも、もう少し書庫に……」
「ええ、そろそろ戻りますわ。ご案内、ありがとう」
丁寧に頭を下げたところで、書庫の扉が不意に開いた。
「……」
立っていたのは、ルシアス閣下だった。
一瞬、空気が凍ったような気がした。
銀の髪と灰色の瞳、夜のように静かな気配。
彼は私を見ると、侍女に一礼させ、その場を退かせた。
「……散歩に、付き合え」
「……はい?」
「屋敷内を案内する。君のような繊細な者が、迷って泣かれても困るからな」
(繊細な者……?)
どこか呆れたような声音だったが、私はその言葉の裏に、微かな気遣いを感じてしまった。
今まで閣下は私にほとんど接触してこなかった。
政務に多忙なのだと理解していたが、こうして“自ら案内する”と言われるのは予想外だった。
「……承知いたしました」
私は彼の後ろを静かに歩き出した。
* * *
案内は驚くほど丁寧だった。
東の庭園から始まり、談話室、来客用の大広間、家族用の食堂、音楽室、そして彼の私室の前まで――
「……この部屋には入るな。君がどう思おうと、ここだけは私の聖域だ」
「……わかりました」
その言い回しに、思わず微笑みそうになる。
(まるで子供の“秘密基地”みたい……)
そして、屋敷内の最奥――一番陽当たりの良い部屋の前で、彼は立ち止まった。
「この部屋を、君専用にしている。君が“客間”に閉じこもっているのを知って、不快だった。……あの部屋は仮のものだ」
「え……」
扉を開けた先は、まるで貴族令嬢の夢を詰め込んだような部屋だった。
淡いピンクを基調とした内装に、ふかふかの絨毯、白い薔薇が咲くテラス付きの小さなバルコニー。
清楚で可愛らしく、それでいて高貴な空気を纏った空間。
「……これは、私の……?」
「ああ。もともと、用意していた。……君にはこちらの方が似合う」
似合う――その言葉が、胸に残る。
あの冷酷宰相が、“似合う”などと私に言うとは。
私は震える声で答えた。
「……ありがとうございます。とても……とても嬉しいです」
すると彼は、ふいにこちらを見た。
その瞳に、冷たさはなかった。
ただ静かに、真っ直ぐに、私を見ていた。
「……笑った顔の方が、いいな。君には」
「え……?」
「そう思っただけだ。忘れろ」
それだけを言い残して、ルシアス閣下は背を向けた。
* * *
その夜。
私は案内された新しい部屋の寝台の上で、ひとりそっと息を吐いた。
――忘れろ、なんて無理です。
私のことを「似合う」と言ってくれて、
笑った顔の方がいい、と言ってくれて、
そして自ら案内してくれて……
(……あの人は、本当に私をただの政略の駒としか思っていないの?)
それでも。
もし、ほんの少しでも――
(ほんの少しでも、私という存在を、心に留めてくれたなら)
胸が、じんわりと熱くなる。
気づけば頬は赤くなっていて、手のひらが熱を帯びていた。
このとき私はまだ知らなかった。
この日を境に、ルシアス・ディエンツ公爵の行動は、
“政略のための婚約者”から、“誰にも触れさせたくない愛しい存在”への変化を隠しきれなくなっていくことを――
そして、それがこの国の運命すら変えてゆくことになるとは、夢にも思わなかったのだ。
私は、まるで夢の中にいるような気持ちで、広すぎる客間に身を置いていた。
天蓋付きの寝台、身の丈ほどある鏡、美術館のように飾られた絵画と彫刻。
それらはどれも、私が生まれ育ったレイベルト伯爵家では見たことのない豪奢なものばかりだった。
けれどこの屋敷で、私に声をかけてくれる人間は少ない。
執事のロッシュ氏は親切だが、礼儀に徹している。
侍女たちは私を“閣下のご命令で迎えられた婚約者”として扱ってくれるものの、心を許している様子はない。
当然だろう。この家の主――ルシアス・ディエンツが、私を愛しているわけではないと、皆が知っているのだから。
(居心地が、悪い……)
だから私はなるべく目立たぬよう、静かに過ごしていた。
昼間は書庫にこもり、本を読みながら時間を潰し、夜は早めに眠る。
そんな生活が続いていた、ある日のこと。
「エルネア様、お部屋に戻られますか? それとも、もう少し書庫に……」
「ええ、そろそろ戻りますわ。ご案内、ありがとう」
丁寧に頭を下げたところで、書庫の扉が不意に開いた。
「……」
立っていたのは、ルシアス閣下だった。
一瞬、空気が凍ったような気がした。
銀の髪と灰色の瞳、夜のように静かな気配。
彼は私を見ると、侍女に一礼させ、その場を退かせた。
「……散歩に、付き合え」
「……はい?」
「屋敷内を案内する。君のような繊細な者が、迷って泣かれても困るからな」
(繊細な者……?)
どこか呆れたような声音だったが、私はその言葉の裏に、微かな気遣いを感じてしまった。
今まで閣下は私にほとんど接触してこなかった。
政務に多忙なのだと理解していたが、こうして“自ら案内する”と言われるのは予想外だった。
「……承知いたしました」
私は彼の後ろを静かに歩き出した。
* * *
案内は驚くほど丁寧だった。
東の庭園から始まり、談話室、来客用の大広間、家族用の食堂、音楽室、そして彼の私室の前まで――
「……この部屋には入るな。君がどう思おうと、ここだけは私の聖域だ」
「……わかりました」
その言い回しに、思わず微笑みそうになる。
(まるで子供の“秘密基地”みたい……)
そして、屋敷内の最奥――一番陽当たりの良い部屋の前で、彼は立ち止まった。
「この部屋を、君専用にしている。君が“客間”に閉じこもっているのを知って、不快だった。……あの部屋は仮のものだ」
「え……」
扉を開けた先は、まるで貴族令嬢の夢を詰め込んだような部屋だった。
淡いピンクを基調とした内装に、ふかふかの絨毯、白い薔薇が咲くテラス付きの小さなバルコニー。
清楚で可愛らしく、それでいて高貴な空気を纏った空間。
「……これは、私の……?」
「ああ。もともと、用意していた。……君にはこちらの方が似合う」
似合う――その言葉が、胸に残る。
あの冷酷宰相が、“似合う”などと私に言うとは。
私は震える声で答えた。
「……ありがとうございます。とても……とても嬉しいです」
すると彼は、ふいにこちらを見た。
その瞳に、冷たさはなかった。
ただ静かに、真っ直ぐに、私を見ていた。
「……笑った顔の方が、いいな。君には」
「え……?」
「そう思っただけだ。忘れろ」
それだけを言い残して、ルシアス閣下は背を向けた。
* * *
その夜。
私は案内された新しい部屋の寝台の上で、ひとりそっと息を吐いた。
――忘れろ、なんて無理です。
私のことを「似合う」と言ってくれて、
笑った顔の方がいい、と言ってくれて、
そして自ら案内してくれて……
(……あの人は、本当に私をただの政略の駒としか思っていないの?)
それでも。
もし、ほんの少しでも――
(ほんの少しでも、私という存在を、心に留めてくれたなら)
胸が、じんわりと熱くなる。
気づけば頬は赤くなっていて、手のひらが熱を帯びていた。
このとき私はまだ知らなかった。
この日を境に、ルシアス・ディエンツ公爵の行動は、
“政略のための婚約者”から、“誰にも触れさせたくない愛しい存在”への変化を隠しきれなくなっていくことを――
そして、それがこの国の運命すら変えてゆくことになるとは、夢にも思わなかったのだ。
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