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事務所に戻ったのは、深夜を少し過ぎた頃だった。
窓の外では雨がやみ、舗道に残った雨水が街灯をぼんやりと反射している。
人の声も車の音もなく、ただ雨上がり特有の湿った匂いだけが部屋を包んでいた。
ストーブの前で、陽翔は濡れた髪をタオルでわしゃわしゃと拭いていた。
タオルの隙間から見える、まだ濡れた黒髪がゆっくりと揺れる。
その仕草を、蓮はデスクに腰を下ろしながら、無意識に目で追っていた。
「……ん、やっぱり雨の日って嫌いじゃないな」
「珍しいな。大抵のやつは嫌いって言う」
「なんか……音がいいじゃん。静かで。あとね、濡れた空気の匂いが好き」
陽翔の声は普段よりも少し柔らかい。
昼間の明るさが落ち着いて、夜だけの静かなトーンになっている。
雨音がない分、ひとつひとつの声や息遣いが、よく響いた。
「蓮さんは?」
「……好きだ。雨は」
「やっぱり」
軽い返事のようで、陽翔の目の奥はどこか嬉しそうだった。
その表情がやけにまぶしくて、蓮はタバコの箱を指先で無意味にいじった。
手持ち無沙汰なのではなく、視線を逸らす理由が欲しかったのだ。
(……まずい)
(なんでこんなに、こいつの仕草が目につく)
濡れた髪が肩に落ちる音、ストーブの光で照らされる頬の色。
普段なら気にも留めないはずの光景が、今夜だけ妙に鮮明だった。
「……蓮さん?」
不意に名前を呼ばれて、視線がぶつかる。
陽翔の目が、まっすぐだった。
無邪気で、だけど少しだけ“男の目”をしていた。
「な、なんか……見てた?」
「……別に」
「ウソ。絶対ちょっと見てた」
陽翔は笑って、濡れた髪を掻き上げた。
その仕草で、首筋の水滴がゆっくりと肌を伝って落ちる。
目の前の空気が、ほんの少しだけ熱を帯びる。
(……やめろ。そういう顔、ずるい)
陽翔は何も意識していないのか、それとも――
ストーブの前で、少し頬を赤く染めてこちらを見ている。
蓮の心臓が、わずかに強く打った。
「……寒くないか」
「うん、大丈夫。てか、蓮さんのほうが濡れてたでしょ」
陽翔はタオルを放り出すと、蓮の方へ歩み寄った。
湿った床に靴下の足音が小さく響く。
思っていたよりも距離が近くなる。
肩がかすかに触れた瞬間――空気が変わった。
「……!」
近い。
髪からほのかに香るシャンプーの匂い、雨と肌の温度。
こんな距離で人と接するのは、いつ以来だろう。
息が少しだけ乱れる。
陽翔がタオルを蓮の肩にかけ、軽くこするように拭いた。
「こっちのほうがびしょ濡れだったじゃん。風邪ひくよ」
「……勝手に触るな」
「じゃあ風邪ひいていいの?」
「……うるさい」
そう言いながらも、蓮は手を払わなかった。
むしろ、肩にかかる温度が、なぜか心地よかった。
陽翔の指先が首筋をかすめるたび、妙な熱が体の奥に残っていく。
「ねぇ蓮さん」
「……なんだ」
「近いの、イヤじゃないんだ」
一瞬、時が止まったような気がした。
陽翔は笑っていなかった。
いたずらっぽい声でもない――素直で、まっすぐな声音。
蓮の喉の奥で、言葉にならない何かが引っかかった。
「……イヤだったら、とっくに突き飛ばしてる」
「……そっか」
陽翔がふわりと笑った。
その笑顔が、ストーブの灯りよりずっとあたたかく感じた。
*
夜は深まっていく。
雨上がりの湿った空気と、ストーブの熱、そして微妙に残る濡れた髪の匂い。
ふたりの間にあるのは、恋とも呼べない――けれど、確かに「普通じゃない」空気だった。
(……こいつといると、雨の音が消える)
蓮は何も言わず、ただ陽翔の横顔をもう一度見た。
それだけで胸の奥がわずかに鳴った。
🕊️ 第4話 予告:「深夜二時のコーヒー」
眠れない夜、ひとつのカップとふたつの影。
静かな夜に、恋の種が音もなく芽吹いていく。
触れない、けれど触れたくなる距離――。
窓の外では雨がやみ、舗道に残った雨水が街灯をぼんやりと反射している。
人の声も車の音もなく、ただ雨上がり特有の湿った匂いだけが部屋を包んでいた。
ストーブの前で、陽翔は濡れた髪をタオルでわしゃわしゃと拭いていた。
タオルの隙間から見える、まだ濡れた黒髪がゆっくりと揺れる。
その仕草を、蓮はデスクに腰を下ろしながら、無意識に目で追っていた。
「……ん、やっぱり雨の日って嫌いじゃないな」
「珍しいな。大抵のやつは嫌いって言う」
「なんか……音がいいじゃん。静かで。あとね、濡れた空気の匂いが好き」
陽翔の声は普段よりも少し柔らかい。
昼間の明るさが落ち着いて、夜だけの静かなトーンになっている。
雨音がない分、ひとつひとつの声や息遣いが、よく響いた。
「蓮さんは?」
「……好きだ。雨は」
「やっぱり」
軽い返事のようで、陽翔の目の奥はどこか嬉しそうだった。
その表情がやけにまぶしくて、蓮はタバコの箱を指先で無意味にいじった。
手持ち無沙汰なのではなく、視線を逸らす理由が欲しかったのだ。
(……まずい)
(なんでこんなに、こいつの仕草が目につく)
濡れた髪が肩に落ちる音、ストーブの光で照らされる頬の色。
普段なら気にも留めないはずの光景が、今夜だけ妙に鮮明だった。
「……蓮さん?」
不意に名前を呼ばれて、視線がぶつかる。
陽翔の目が、まっすぐだった。
無邪気で、だけど少しだけ“男の目”をしていた。
「な、なんか……見てた?」
「……別に」
「ウソ。絶対ちょっと見てた」
陽翔は笑って、濡れた髪を掻き上げた。
その仕草で、首筋の水滴がゆっくりと肌を伝って落ちる。
目の前の空気が、ほんの少しだけ熱を帯びる。
(……やめろ。そういう顔、ずるい)
陽翔は何も意識していないのか、それとも――
ストーブの前で、少し頬を赤く染めてこちらを見ている。
蓮の心臓が、わずかに強く打った。
「……寒くないか」
「うん、大丈夫。てか、蓮さんのほうが濡れてたでしょ」
陽翔はタオルを放り出すと、蓮の方へ歩み寄った。
湿った床に靴下の足音が小さく響く。
思っていたよりも距離が近くなる。
肩がかすかに触れた瞬間――空気が変わった。
「……!」
近い。
髪からほのかに香るシャンプーの匂い、雨と肌の温度。
こんな距離で人と接するのは、いつ以来だろう。
息が少しだけ乱れる。
陽翔がタオルを蓮の肩にかけ、軽くこするように拭いた。
「こっちのほうがびしょ濡れだったじゃん。風邪ひくよ」
「……勝手に触るな」
「じゃあ風邪ひいていいの?」
「……うるさい」
そう言いながらも、蓮は手を払わなかった。
むしろ、肩にかかる温度が、なぜか心地よかった。
陽翔の指先が首筋をかすめるたび、妙な熱が体の奥に残っていく。
「ねぇ蓮さん」
「……なんだ」
「近いの、イヤじゃないんだ」
一瞬、時が止まったような気がした。
陽翔は笑っていなかった。
いたずらっぽい声でもない――素直で、まっすぐな声音。
蓮の喉の奥で、言葉にならない何かが引っかかった。
「……イヤだったら、とっくに突き飛ばしてる」
「……そっか」
陽翔がふわりと笑った。
その笑顔が、ストーブの灯りよりずっとあたたかく感じた。
*
夜は深まっていく。
雨上がりの湿った空気と、ストーブの熱、そして微妙に残る濡れた髪の匂い。
ふたりの間にあるのは、恋とも呼べない――けれど、確かに「普通じゃない」空気だった。
(……こいつといると、雨の音が消える)
蓮は何も言わず、ただ陽翔の横顔をもう一度見た。
それだけで胸の奥がわずかに鳴った。
🕊️ 第4話 予告:「深夜二時のコーヒー」
眠れない夜、ひとつのカップとふたつの影。
静かな夜に、恋の種が音もなく芽吹いていく。
触れない、けれど触れたくなる距離――。
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