ツギハギドール

広茂実理

文字の大きさ
上 下
7 / 24
引き裂きドール

1

しおりを挟む
 道路脇に添えられた花が、風になびく。そこは、大通りで交通量の多い場所。公園もそばにあって、賑やかだ。
 だが、少女の目には、とても寂しい場所だという印象を、与えていた。
 中学生、斉藤初さいとうういは、歩き慣れた通学路を辿って、この目的地に到着した。
 彼女が顔を上げると、見通しの良い大通りを走り去る、何台もの車両。脇の公園からは、子どもたちの遊ぶ賑やかな声が相変わらず響いている。
 一見すると、何も変わらない平凡な日常。穏やかな、平和な街の光景。
 だが、それは儚い仮初の姿だと、初は知っている。
「もしも――」
 もしもあの時間に、この場所を歩いていなかったら。大型トラックを運転していたのが、運転経験が浅く、あの日が初出勤の彼女ではなかったら。ボールを追いかけた子どもが、飛び出さなかったら。
 そうすれば、初の友人、沖田奏おきたかなでは、今も尚、初のそばで生きていたかもしれない――
 初は、くっと歯噛みする。あの日のことが、脳裏へ鮮明に蘇っていた。
 異様なブレーキ音に集中する、多くの視線。しかし、驚きに声を上げる子どもの親や通行人は、誰もが地面に足を縫い止められてしまったかのように、ただ息を呑み、目を見開いて、一部始終を見守っているだけだった。
 まるで、スクリーンを眺めるように、誰一人として動く者はいなかった。
 そう――たった二人を除いては。
「奏ちゃんだけ……あの場で動いたのは、奏ちゃんだけだった……」
 そうして、その奏の行動を見て咄嗟に走り出した、初だけ。
 彼女たち、二人だけだったのだ。
 他の人間は、全員しばらく時が止まったみたいに、その場で立ち尽くしていた。まるで、そういうシナリオの映画でも見せられているかのように、誰かに指示でも受けていたかのように、彼らは誰一人として、駆け寄って行くことすらしなかった。
 即死だったかもしれないけれど、それでも、呆然と見つめていただけで、助けようとすらしなかった。
 はなから、諦められていた命――
 そのくせ、何もできなかった自分たちのことを棚に上げて、無茶をしたなんて言う者もいたし、動けなかったことを隠すように美談として語る者もいた。
 初には、それが許せなかった。
 拳を握り締める手に、力がこもる。ギリギリと、爪が手のひらに食い込んだが、本人は痛覚を失ったかのように、まるで気付かない。
 鋭く睨みつけるのは、あの日の光景。忘れもしない人たちの顔を思い浮かべて、少女はギリリと歯を食いしばる。
 その時だった。初が聞き覚えのある声を聞いたのは。
「待って! こら、待ちなさい!」
 後方からの怒声に振り返ると、公園から出てきた一組の親子の姿があった。逃げる子を追う形で、こちらへ向かって駆けている。先程浮かんでいた光景の一部に、ぴたりと重なった。
「あの子……」
 少女の目が見開かれ、釘付けになる。
「間違いない――奏ちゃんが助けた、あの時の子だ……!」
 親子は、初のことになど気付かず、一目散に彼女のすぐ脇を通り過ぎていった。初は開いた口が塞がらないまま、追うように視線を彼女たちへと向ける。
 と、すぐその先で、曲がり角を折れてきた自転車と衝突しそうになっていた。耳障りなブレーキ音が、甲高く鳴り響く。
「――っ!」
 あわや事故というところで、なんとか自転車側が避けてくれたおかげで、誰にも怪我はなかった。
 驚きから開いたままだった初の口が、塞がる。目が据わった。
「また……また、性懲りもなく……」
 もしも、自転車側が避けきれなかったら……。避けても転んでしまって、打ち所が悪かったら……。他の通行人を巻き込んでしまったら……。今回は無事に済んだけれど、誰かが怪我をしかねない状況だった。
 だというのに、あんな事故を経験しておきながら、親子には危機感がなかった。どころか、反省の色がまったく見られない。
 なんと母親は、悪びれもせずに、まるで自転車側が飛び出して危険運転を行っていたかのように、横柄な態度を取っていた。不満顔の女性が、取り合うだけ無駄と判断したのか、呆れながらペダルを漕いで、初の横を走り去っていく。
 その一連の態度に、初の胸中は荒れていた。どうして、ああいう人間が助かるのか。こうして、痛い目を見ずにのうのうと生きているなんて――と。
「おかしい……危険のトリガーばかり引いて、周りを次々と巻き込んでいるのに。そのくせ、自分たちだけは被弾しないなんて……」
 おかしい。おかしいおかしい――初の中で、何かがじわじわと広がっていく。心を染め上げるように支配していく。
 彼女の思考は、おかしい。そうだ。間違っている。
 初は、わがままも迷惑も自分勝手も、何もかもそれ自体は、悪いことだとは思っていない。彼女自身だって、わがままを言うこともあるし、迷惑をかけてしまうこともあるし、自分勝手な発言をすることもあると自覚しているからだ。
 だけれど、自覚していない人は、たちが悪い。「無自覚」であること。更にその上で「認めない」こと。それこそが、罪だ。何故なら手に負えないし、治らない。もちろん改善なんてしない。
 それが、初の信じる正義だった。
「そんな人の子どもを助けた奏ちゃんが、可哀想……。命の重みに優劣はないって言うけど、わたしにとっては、確実に奏ちゃんの方が生きている価値は高い。断言する……!」
 そうして初は、目の前の子どもを想う。
「あの子どもだって、同じく可哀想……。あんな親の教育を受け続けていけば、確実に影響を受けて染められていく。今はまだ、何も知らない自由さで好きなことをしているけど、それもきちんと叱れない親のせいだ。叱ることと怒ることを履き違えた、周りの大人たちのせいだ。……そうだ。大人が悪い」
 無責任な大人たちのせいで、あの子はいずれ罪深い人間になっていってしまうのだろう。そうなると、手遅れだ。あの親と同じく、改善は望めなくなる。だから、今のうちに何とかしなければ――初の中で、思考が膨らんでいく。
「そうだよ……今なら、まだ可能性がある。このままだと、確実に影響を受けるけど、今なら間に合うかもしれない! 奏ちゃんが救った命を、わたしが正す。わたしも救うんだ。子どもの未来を、わたしが明るいものにするんだ……!」
 いつしか初が抱いていたはずの怒りは、想像の先の理想を前に、消え失せていた。
 今では両手を祈るように重ね合わせ、瞳を輝かせている。
「わたしと奏ちゃんが、手を取り合って成し遂げる、崇高な役目。まるで、二人の共同作業……ああ、なんて尊く魅惑的な響きなの?」
 恍惚の笑みを浮かべて、初はここが外だということも忘れて、喜びに身を震わせた。
「素敵だね、奏ちゃん……こんな素晴らしいことは、きっと他の誰とも成し遂げたことなんてないよね? わたしが初めてだよね? わたしだけだよね? わたしが一番で、わたしが最後だよね? 他の誰ともしないよね? ……嬉しい……わたしを選んでくれたんだね? そうだよね。わたししか、いないもんね? わたし以外なんて、ありえないもんね? だって、わたし以外に、奏ちゃんのことを理解できている人間なんて、いないもんね? ――わたし、ちゃんと果たしてみせるよ。奏ちゃんの期待に応えたい……! ――そうと決まれば……」
 初が顔を上げると、親子はまだそこにいた。どうやら、母親の携帯電話に着信があったらしい。手を繋がれた子どもは、何とか拘束から逃れようと、もがいている。だが、女性とはいえ、そこは大人であり母である。振り解かれまいと、目線を向けながら、片手でがっしり握り締めていた。
「可哀想そうに……あんなに引っ張られちゃ、腕がはずれちゃう……それにしても、そんなに逃げたいなんて、二人の間に何かあったのかな? 見る限りは、普通の親子のようなんだけどな……まあ、いいか。二人の間に何があろうとなかろうと、関係ないよね。だってもう、役目を果たすことは、既に決定済みなんだから」
 そう――初の中で、彼女がターゲットであることは、既に変わらない事実となっていた。これは、余程のことがない限り、覆らない。
「今日まで、よく頑張ったね。えらかったね。待っててね。もうすぐ、解放してあげるからね……」
 一歩、また一歩と初は親子に近付いて行く。しかし、あともう少しで手が届くというところで、あろうことか子どもが駆け出した。振り解かれた女性が、慌てて通話を切り、子どもの背中を追いかける。
「あっ……」
 初も急いで彼女たちの後を追うが、赤信号に捕まってしまった。横断歩道の向こうを走る親子は、どんどんと遠ざかっていく。やがて、そのまま見えなくなってしまった。
「あーあ、もう……しっかり握っといてよね、まったく……使えないな……」
 肩を落とす少女は、無意識に溜息を吐いていた。せっかくターゲットを見つけたのに、みすみす逃がしてしまうなんて、と嘆いている。
 同時に、ターゲットはやはり救いようがないと憤りを覚えていた。
「仕方ない。次は、油断しないようにしなきゃ……」
 初は、思考を巡らせる。おそらく、あの親子はこの公園をよく利用するのだろう。あの様子だと、移動手段は自転車や車ではなく、徒歩であるようだった。
 であれば、きっと近隣の住民に違いない。ならば、またこの辺りを張っていれば、そう遠くないうちに、たやすく遭遇できるというものだ。その時は、必ずチャンスをものにせねば――
 渋々だったが、初は踵を返す。しばらくして、遠くで救急車のサイレンを耳にした。
しおりを挟む

処理中です...