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シーサイドボーイッシュ

今日という日はもう来ない

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「おはよ」
「おはよう。調子良さそうだけど、何かいいことでもあったの?」
「無いけど、そう見える?」

 木曜の朝、どこかスッキリとした遊星の表情に高田からの疑問が飛んだ。今までに見てきたどこか情けない印象が、この日だけは少し凛々しいように見えたからだ。
 しかし、何か特別なことがあったわけでは無い。
 むしろ今までの朝が特別すぎたと言える。
 朝起きて早々に先生へ確認の電話を飛ばし、その記憶を確かめてから、自分の記憶に変化が無いかの確認。日々迫る終わりにジリジリと追い詰められる、そんな毎日。
 だが、そんな朝も昨日で終わり。これからは怯える必要も無いのだというプラスな思考が遊星を普通に戻し、普通と悪い時の振り幅に高田は思わず問うたのだ。

「なにか隠し事? そういうのってあんまり好きじゃ無いよ、私」
「そんなんじゃないよ。少し肩の荷が降りただけで...... あぁでも、昨日からドラマを見始めたんだ、スマホで」
「ふーん、どういうの?」
「小学生の時にやってた恋愛ドラマ。昔はテレビでやってるのを見てたかな」

 神奈川県横浜市を舞台に、社長と中途社員が想いを交差させる、何もおかしいところはないよくある恋愛ドラマ。実際小学生時代も自分から見ていたわけではなく、父親の再婚相手が見ているのを惰性で横から覗いた程度でしかない。
 しかしこれが中々、高校生になった遊星には刺さる物があった。
 想いを正直に伝えられない、恥ずかしさから発した照れ隠しが悪い方向へ進む、咄嗟に放った一言が悪い方へと転じてしまう...... 感情移入という要素に於いて、遊星ほど入れ込んでいる人間はいないだろう。
 恋を見ている、というよりは、人間的に未熟な主人公を自分に重ねている、と言った方が正しいか。
 対して高田は『面白いんだ?』と疑るような視線を向け、吊り革に体重をかけるような前傾姿勢のまま、遊星の顔を覗き込む。いつもならお互いの瞳にはお互いしか映らない状況だが、今回に限っては遊星の目に高田は映っていない。

「それは勿論」

 その辺に投げ捨てるような軽さでやり取りを終わらせ、そんな遊星に高田は疑問を隠せない。肩の荷が降りたとは言うが、だからと言ってここまで昨日今日の対応が変わるものか?
 もはやスクールバッグを持ってすらいないその小さな手が、ぶにっと遊星の頬を掴む。

「どひたの?」
「一応聞くよ? 何か、隠し事をしてないかな?」

 根拠らしい根拠は無く、高田にとってはカマをかけただけの行為。本来なら自分に関係がないとスルーすべき事なのだろうが、遊星は彼女のことを知りたいと言い、高田もまた遊星を知りたいと言った。
 嘘でもなんでも、互いを共有する。それは言葉に交わさなくても2人の間に生まれた、ある誓いだった。
 少し息を吸って、平常心のまま遊星は一言。

「──してないよ?」

 ああ、そう。
 高田は納得とも疑念とも取れない声でそう言い、遊星の頬から手指を離して窓の外を見た。
 今日の電車は遅く感じる。

「うぃーす」
「おはよー」

 JRの改札から勢いよく飛び出してきた音成を見やり、邪険に扱うことなく軽く挨拶を交わす。その背後からは少し息を切らした桜井も現れ、先日の朝を再現するかのように3人と1人は歩き始める。
 対して話す内容があるわけでもない。だが、ある程度受け入れてくれるという互いへの認識が、それぞれの余裕を生み出す。
 テストの対策もスラスラと書いていく姿は、以前までとはまるで別人のようだ。

「いただきます」

 授業もまともに受け、襲来してくる音成や桜井にも丁寧に対応し、いつものように昼ごはんを食べる。普通なのに普通じゃない状況は、自然と高田の箸を止めた。
 その一方、遊星は手早く箱の中身を空にする。
 満腹、日光、適度な人々の声。それらが待つ身となった遊星に眠気として降りかかるのは、なんら不思議なことではない。

「う、少し......」
「どこいくの?」
「トイレ」

 短いやり取りを終わらせ、暑い中で着てきた制服の胸あたりを庇いながら、遊星はトイレに駆け込む。もちろん腹が痛くなったわけではない。人肌に温められて緩くなったビンの蓋をパキパキ、と耳に残る音と共に開け、手のひらに収まるそのボトルを一息に飲み干した。

「──ぐぅえっ、ゲホ、ゲホ」

 大量のカフェインと共に流れ込んでくる人工的な甘みと苦味、その螺旋に思わず咽せ上がるが、どうにかこうにか胃袋へ押し込む。カフェインで目が覚めたのか不味さで目が覚めたのか分からないまま、遊星は空き教室へと歩き始めた。

 大根先生はぐっすり眠った日に高田のことを忘れた。もし眠ることで明日を迎えて記憶を忘れていくのなら、そもそも最初から明日を迎えなければいい。ひどく単純でありながら合理的な、遊星の中にある答えであり行動。言ってしまえば脳筋戦法だ。

 何か、隠し事をしていないか。その言葉を伝えられた時、遊星の背筋にぞわりと不安な感触が走った。本当に高田は察しがいい。
 でも、バレたところで何があるだろう。遊星の行動は全て自分の為のものであり、そこに他意は存在しない。
  
「ごちそうさま、っておかえり。
 ......なんで泣いてるの? 寂しくなっちゃった?」
「ああ、えっと...... 臭くて......」
「そんなに?!」

 ドリンクの不味さに滲んでいた涙を拭き取り、少し考えておちゃらけてみる。それが高田の疑いを晴らせたのかどうかはわからない。
 ひとつ言ってしまえば、遊星は学力はともかく日々の中では決して利口とは言えない。隠し事をすればいつもとの違いに察され、実際に接した相手には気を回されてそれに気づかない。
 果たして高田も例に漏れず気づいているのか、それとも例外となりうるのか。それは本人以外知る由もなかった。

「へぇ、そんなドラマ見るのって意外」

 帰り道、目を大きくして驚いた様子の桜井は音成と共に遊星の両横で挟み、2人して珍しくスマホを持ってきた渦中の男を覗き込む。
 寝ずに起き続けることの免罪符に見始めたドラマではあるが、遊星の心はもうその映像の虜である。桜井の言ったことはつい心から出た衝動のモノであるのに、まるで好きなものを馬鹿にされた様な気分に陥った遊星は少しむすっとした表情を桜井へ向けた。

「悪いか?」
「悪いなんて誰も言ってないわよ、意外だって言っただけ。結構面白かったわよねソレ、主演の人もイケメンだし」
「お、イケメン? じゃあ俺とどっちがイケメンよ?」
「「主演の人」」
「......俺だって彼女いるんだぜ? 少しぐらい譲歩してさ、一言『音成イケメン』って行ってくれるだけでいいんだけど」
「「絶対に主演の方がイケメン」」

 譲る気のない2人に音成のツンツン頭が萎え、その様子を見て遊星と桜井の笑い声が響く。微かに混じったクスクスという抑えた笑いは、遊星の耳にだけ届く。
 遊星は新たな友人と前を向き、高田は遊星が前を向いて自分だけでは無く、他の人とも関わりを持つことに喜ぶ。何も悪いことがないような、でも一瞬で綻ぶ様な時間が過ぎていく。

「おはよう」
「おはよー」

 1日。

「おは...... 大丈夫?」
「あー、大丈夫だよ、わりと」

 2日。

「......」
「......ふむ」

 そして3日目。運命の日の前日、26日。
 珍しくバスに乗り、2人で遊びにいくいつもの日曜日だが遊星の顔は浮かばない。浮かばないというよりは、もはや死んでいると言った方がいい顔色をしている。すでにエナジードリンクを流し込んできてこの状態なのだから、思考能力は機能を停止していると言ってもいい。
 そんな遊星の頭の中で唯一輝くのは、眠らない事が記憶を無くさない事とリンクしている、という事実。その事実だけがこの行為にお小遣いの多くを消費させ、意地でもその瞼を閉じようとしない。目の下のクマは覚悟の表れと言えるだろう。

「御手洗くん? みーたーらーいー?」
「......はい、起きてるよ」

 そんな覚悟とは対照的に、遊星の反応はツーテンポ遅く、声もひどくか細い。意識が途切れないだけで奇跡だ。しかし高田はその奇跡を望まない側の人間である。
 力無く垂れる腕を掴み、バスの停車ボタンを押して手近なバス停へ降り立った。目的地ではない場所で降りようと、その後ろをついていくだけの遊星は疑問にも思わない。

「こっから歩き? 少し遠いけど......」
「予定変更!」

 先ほどから掴んだままの腕をそのまま引っ張り、高田はここまでバスが進んできた道を逆に戻っていく。半分くらい歩いただろうか、遂に遊星の中にも疑問符が現れてきた。
 青々とした木が音を鳴らし、風の到来を伝えてくれる。

「......なあ、どこに行くのさ? てっきり横浜に行くものだと思ってたんだけど」
「いいからいいから、気が変わったんだよ。
 今日って悠真くんは出かけてるんだっけ?」
「友達の家で泊まって、遊んでくるって」
「じゃあ好都合だね」

 そう言って高田は更に歩く足を早める。一方で遊星は眠らないようにわざと長いままにしている爪を刺し、刺激による瞬間的な覚醒でその場を凌いでいた。
 結局到着したのは遊星の家。
 無言でポケットから引き抜いた鍵でドアを開け、ズカズカと我が物顔で入り込んだ人の家、そのソファに家主を放り投げると冷蔵庫を開ける。
 放り投げる、と言ったが、別に遊星も軽いわけではない。170センチの身長を持つだけの体重は持っている、が。
 それを凌駕する高田の強さと遊星の弱さがあっただけのことである。
 
「というわけで、今日は御手洗くんの家でテスト勉強をしよう! でもお昼だから、先にご飯作るね」
「ほー、ちょっと嬉しい。任せていいの?」
「人手が足りないから手伝ってね!」

 心なしか大きい声が頭に響く感覚になんとも言えない顔をしながらも、遊星はその言葉にのっそりと立ち上がり、エプロンを結ぶ。
 やる気だけは充分と言った印象。

「何すればいいかな?」
「食器がどこにあるのかわかんないから、それをお願いしてもいい?」
「いいよ、もちろん」

 その日の昼ごはんは、少しだけ胃に優しいものだった。

「数学ってなんだよ......」
「数を学ぶんだよ、最初から言ってるじゃない?」
「そういうことじゃなくて......」

 昼を片付けて少し経った頃だろうか。
 すでに時間は夜5時を回っているものの未だ太陽は落ち切らず、最初こそはやる気満点で始まったテスト勉強もそろそろダレてくる頃合い。
 気分転換に数学ではなく生物のプリントを広げれば、少し解いたところである問題が2人の前に立ち塞がる。教師の話を聞いてさえいればわかる、言ってしまえば2年生の範囲とはかけ離れた問題。
 軽い遊びのような物だが、その実、時折テストにも登場してくるから気の抜けない先生である。
 問題文はこうだ。

「『授業中に話した、虫の性別を勝手に変えてしまう寄生虫は?』って、こんなこと言ってたっけ?」
「覚えてないの? 私は聞いてたけど......」
「まったく、全然」

 恐らくはこの3日のどこかで言っていたのだろう。わからないものは仕方がないと高田に聞けば、何故か嫌そうな顔を遊星に見せた。

「ちゃんと聞きなよ、そういうのは。
 もう明後日とかにはテストなんだよ?」
「本当にその通りです......」
「敬語」
「うん......」

 詰められてぐうの音も出ない状況の家主を助けるように鳴り響いたのは、風呂の沸く音。ここから始まる説教を早々に切り上げ、早く風呂に入るようその背中を押していく。
 流されるままに風呂場へ叩き込まれた遊星はその暖かさに深く息を吐き、扉のすぐ前に座った高田は小さく笑った。

「なんだか変な気分だ」
「なにが?」
「だって女の人を家に入れて、ご飯食べて、こうやって風呂場の境目で話して...... 4月とかには考えられなかった」
「それは私もそうだよ。もう1人じゃないんだ、それが嬉しい」
「高田がそういうなら、俺も変な気分じゃなくて、嬉しいってことにしとくよ」
「なにそれ、変なの」

 ひとしきり笑い合い、風呂から出て勉強に戻る。
 『風呂に入らないのか』と高田に聞いたが、その答えとして返ってきたのは冷たいが、今の優勢を確実に捉えた言葉。

「だって放っておいたら寝るでしょ?」
「......寝ないよ?」

 正直に言って、遊星の放った言葉に重みはない。
 程よく温められた身体に満腹感、加えて勉強によって加えられた適度な疲労感が、精神力だけでは防げない高波の様に襲来している。

「この問題はね、ボルバキアっていうやつが答え。 オスの虫とかをメスにしちゃうんだって、ちょっと不思議な細菌だね」
「不思議というか怖くない?」

 限界が近づく中、キリのいいところまでプリントを進め、遊星は椅子から降りて立ち上がる。不思議そうに見上げてくる高田に対しては『プリントを取ってくる』とだけ言い、自分の部屋にある棚を開いた。
 何本目なのかわからないドリンクを開き、飲み口に唇を密着させようとした時、その手の中から冷たいガラスの感触が消えた。
 何故、どこに? 半ばパニックとなりながら振り向いた先には、開いた口の中に持っていたはずのドリンクを流し込む高田の姿があった。

「ふう。......こんなの、毎日飲んでたんだ?」
「あ、いやその、違くて......!」

 暗い自室の中、冷や汗をかきながら遊星は後退りする。
 逆光で顔の見えない高田が迫ってくるのは、それほどの迫力がある。以前までの遊星であれば、この状況に陥ったとて当然の様に小さな嘘をついて切り抜けただろうが、今は違う。
 極度の睡眠不足の中で優しさにふやかされた心は、すでに抵抗の石を削がれていた。全ては高田波瑠の掌の上だったのだと気づいたのは、少し後。

「その、テスト勉強をもっとやりたかったから──」
「その割には、結構な本数のビンが近くのコンビニに捨てられてたけど。悠真くんに心配かけたくなくて、家じゃなくてそっちに捨ててたんでしょ」
「あ、う...... でも、いいじゃないか。
 それを飲むことは俺の為になる事なんだ、俺が少し寝ないだけで音成達とも高田とも関わっていられる。それなら寝なくたっていい」
「詭弁だね。
 それできみが体を壊して喜ぶ人なんていないんだよ。実際、今日のバスでは死にかけてただろう?」
「じゃあ、じゃあ俺に、高田が消えるのを黙って見ていろって言うのか?」

 ──少しの間だけの静寂が訪れ、すぐさま激情が走った。
 
「高田が俺のおかげで前を向けてるって言った様に、俺にとっても高田は、心からの話ができる唯一の人なんだ! 
 だから消えて欲しくないって、そう思うのも高田は詭弁だって言うだろうけど── それでも、思うんだよ......
 確かに女の高田がいなくなっても、明日の俺は気にも留めないかもしれない。でも、今の俺はその死を見たくないんだ。だから助けたいんだ」

 ふらりと揺れた体を受け止め、高田はその体をベッドの上に置いて毛布を被せる。その上から包み込む様に抱きしめて、胸元に来た遊星の頭に小さく囁いた。

「ありがとう。
 ......本当のことを言うとね、私も死ぬのは怖いよ。でも、それ以上に怖いのは、きみが私のためにそこまで無理をして体を壊すこと。それをさせてるのが私なら、私は私を殺す。
 全部私が欲張りだったから起きたことだから。
 母親が好きだからやらされていたことに反論しなかった。モデルと役者が好きだから文句を言わなかった。きみが好きだから、忘れて欲しくないって思ってしまった。
 ......でも、これで終わり。」

 もがこうとするものの、力の差故に抵抗できない。
 いつしか毛布の中から聞こえる声も小さくなり、その場所からは高田の小さく息を吐く音だけが聞こえてくる。

「知れてよかった、遊べてよかった、好きでよかった。
 になっても、きっと仲良くしてね?」

 今日が終わる、朝が来る。
 ただ1人の例外もなく、無情に時は進み続ける。
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