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一. アッシュの章
3. 災厄を乗り越えし辺境の村ヤーゴ
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アッシュは今、村の裏手に流れる小川に素足を浸けて、思うが儘に惰眠を貪っている。
ひんやりとした水流が足をくすぐる感触も、仰ぎ見る雲が様々な形状をして流れていく様も、心地よい眠りを妨げるものは一切なくて、むしろ増長して益々深い眠りに入りそうでこのまま寝入ったら親父に怒られるんだろうな、と呑気に思ってしまうから、熟睡までは出来ていない、そんな長閑な昼下がりであった。
しかしそれは別段特別な事ではなく、いつもの…毎日彼が送っている午後なので、これが通常ならばそろそろ彼は役目をサボって此処にいる事がバレて、親父に首根っこを掴まれながら帰る頃合だろう。
アッシュはこの時間が好きだった。
彼はこの村に一軒しかない食堂の一人息子である。
多少手が早くて口が悪いガサツな父親と二人、こんな片田舎の寂れた食堂、決して客が多いわけではなく暮らしはカツカツだがそれでも切磋琢磨して生きてきた。
母は十年前の災厄で死んだ。
アッシュは料理の得意な母親の背中を見て育ってきたから、そのままそっくり母の才能を受け継いで、食堂を切り盛りする料理の大半を担っている。
不満は無い。むしろ自分には料理に於いては天性のセンスがあるとも自負するぐらい料理が大好きだから、もっと仕事が欲しいとさえ思っている。
いつ披露できるか分からないが、うつらうつらとしながら新しいメニューを考案するこの時間がとても好きだったのだ。
行列のできる料理店。厨房を仕切るのはアッシュで、客が満足そうに腹いっぱい食べてくれる顔。想像だけの未来の夢も、このゆったりとした時間に見る。
最後にその腕を見せたのは3か月ほど前だったか。
村を訪れた旅の聖職者達にその自慢の味を堪能させた。
彼らは料理人が一番欲しい「おいしい」を連呼しながら、全部平らげてくれた。
聖職者というものは大抵お高くとまって慎ましく生きてるもんだと思っていたが、旨い料理の前ではお堅い衣も脱ぎ去って、全部曝け出してくれるンだなと嬉しかったのを覚えている。
■■■
ここ、ヤーゴ村は、《中央》と呼ばれる第二の都市・湖の都よりもかなり南に下って、足場の悪く整備も心元ない渓谷を西に超えた更に先、珍しい野鳥の卵が採れる事だけが唯一の取り柄である険しい山脈に入る手前にぽっかりと空いた平原に造られた小さな村である。
渓谷を越えてきた疲れと、これから山に登ろうとする冒険者の癒しと準備の駐屯地点として誰かがこの場所にテントを張ったのが始まりだったという。
その冒険者達によって主食であるトウモロコシ畑が作られ、それを拡大し、テントからコテージ、コテージからロッジと徐々に定住する人たちが増え、村として機能するようになった。
これといった特産物はないけれど、冒険者たちを助けているという事で王都に従僕する村として登録を許され、第一号の村長の名前から《ヤーゴ村》と名がついた。
そもそも元からこの地域は冒険者達からあまり人気が無かったのだが、その取り柄である卵を産む珍しい野鳥はこの山脈だけに生息しているのではなく、高いところならば意外とそこら中にいるといったオチがあるので敢えてこの地に行かなくてもいいのだが、如何せんこの村に来るには昇降の激しい谷をいくつも越えてこなければならず、それが冒険者達の足を遠のかせる理由の一つでもある。
しかし中には辺境の村を巡るのが好きな冒険者も少なからずいて、半ば険しい渓谷を越える、さらに前人未到の山脈を登ってお宝を発見したいといった腕試し感覚で訪れる輩も多数はあったのだ。
村はすでに自給自足の生活ができるまでに発展していたから、たまにやってくるそんな冒険者相手に細々と商売して小銭を稼ぎ、衣服や生活雑貨を賄っていた。
これが10年前までのヤーゴ村の姿である。
10年前、何の前触れもなく、【カミ】が堕ちてきた。
滅多に外客が来ないのが幸いだったのか、外界の情報がほとんど入ってこない上、唯一の情報源である冒険者がこの日を境に一切姿を消してしまったが故に、村は世界の情勢が天地をひっくり返すほどまでに変わってしまった事を知らずに過ごした。
今まで経験した事がない衝撃と、かつてないほどの地震に、山脈はたくさんの土砂崩れを起こし、飲み水を供給していた小川を詰まらせた。
碌に手入れもしていなかった渓谷の足場は地響きと共に崖下へ吸い込まれ、渓谷そのものの形も変化した。
簡素な造りの家は壊れ、あちこちで火の手があがり、村の農作物や施設を焼いた。
壊滅的ほどではなかったが、それでも数十人の死者が出た。
その時運悪く家の中にいた者達が崩れた柱や屋根の下敷きになって、呆気なく死んだ。
アッシュの母親もその時被災し、犠牲者の一人となった。
村は孤立していた。都へとつながる道が無くなってしまったからである。
それでも、いずれ助けが来ると思っていた。
王都に登録されるという事は、即ち王都の保護を受けると同位なのだから。
残った村人達は自力で立ち上がり、世界がどうなっているか知らないまま、王都の助けを待ちつつも懸命に復興に尽力する事となる。
村の男達総出で土砂を掻き出し飲み水と農業用水を確保する。
女達は畑作り、子育てに勤しむ。
夜は肩身を寄せ合い、雨風を凌いだ。
あの災厄から空は灰色に曇り、濁った雨を降らすのだ。畑も思うように実を育まない。
それでも昼夜を問わず懸命に村人達は働いた。
1年が経ち、何とか全員が「家」を確保できた。
王都から助けは来ない。
2年目に入る頃、ついに備蓄食が潰えた。
空はようやく青さを取り戻してきたが、畑は実らない。
王都の助けを諦め、今度は渓谷の足場を固める作業に入る。
疲労と空腹に倒れるものが現れる。もはや村は壊滅状態に近かった。
かろうじて村人達の結束の強さだけで、彼らの命をほんの少し長らえさせていただけの状態であった。
そしてついに体力も希望も潰えようとした3年目。
一人の行商人が瀕死の村を訪れた事をきっかけに、村は昔の勢いを取り戻す事に成功する。
村人の努力と結束が、瞬く間に村を回復させ潤した。もはや過去をも凌ぐ潤沢さで。
餓死に怯えていたのがまるで悪い夢だったかのように、今、村はあらゆる実りで充実している。
行商人は復興のきっかけを作っただけではなく、情報もくれた。
あの日、あの地震があった時、【カミが堕ちてきた】のだと。
王都は壊滅し、魔物が全滅し、冒険者が消えた事をこの時初めて村人達は知った。
ああ、道理で誰も助けに来なかったのだな、と。
何故、村が急激に回復したのかアッシュは知らなかった。
行商人のお蔭と大人たちは口々に言うが、その理由までは教えてくれなかった。
■■■
災厄時、アッシュは12歳の少年であった。
【カミ】が堕ちた時、たまたま裏庭で薬草を摘んでいたのが幸いだった。
母が食材を保管している倉庫で在庫のチェックをしていた時に地震が襲った。
上下に激しく揺れる地面に足を取られ、這いながら近くの木にしがみ付いたアッシュの目の前で倉庫が潰れた。
彼は叫んだが、地響きの音の方が大きくて、自分の声はおそらく母に届いていなかったと思う。
母はそのまま亡くなった。
それから男手の一人として働いた。
母の死を悼む暇など一寸も与えられず、残った村人と自分を救う為に力仕事に勤しんだ。
常にお腹が空いていたが、それでも復興に勤しむ村人達に少しでも笑顔になってほしくて、限られた食材で炊き出しを行った。
アッシュの料理の腕は、村人全員が認めているし、あの極限の状況でよく働いてくれたと信頼も得ている。
村の結束力はこの上無いほどに高く、まるで一つの家族かのように密な付き合いをするようになった。
アッシュは今年22歳となる。
この世界は、15歳になると成人として認められ、魔族を退治する冒険者となるか家業を継ぐかの二択を選択せねばならない決まりがあった。
アッシュ自身は幼き頃より冒険者などに興味はなく、母のように美味しい料理を提供する食堂をこのまま継承するつもりでいたのだが、とっくに世界は崩壊し冒険者自体がいない世の中になってしまっては二択もクソもないなと嘲笑する。
復興のきっかけになった行商人との付き合いは絶たれた訳ではなく、実は今も定期的に村に訪れている。
アッシュは一度も会話をしたことが無いが、村で会うと会釈ぐらいはする仲である。
全身黒色のピッタリとした服を着用し、これまた真っ黒なマントを羽織ったいつもの恰好の男性で、齢は恐らく50歳手前か、雑貨屋によく現れるのだ。
雑貨屋の女主人はこの行商人を懇意にしており、外界の品々を村で作ったたくさんの野菜や果実と交換で仕入れていた。
行商人は荷馬車を引いて村を後にする。行商人がやってくるということは、渓谷の道も繋がったということで、彼の訪問は外界の人間の行き来も可能にしたのである。
以前ほどではないが、それでも数か月に一度くらいの頻度だったけれども、行商人以外の元・冒険者や旅人達も村を訪れるようになり、村人は総出で彼らの来訪を祝福し、盛大にもてなすのだ。
それが男女のカップルなら尚更、村人達は家族の一員として出迎える。
この災厄を乗り切り、見事立て直し、潤沢に満ちた実りを彼らに共有してほしくて惜しげもなく与える。
旅人が一人だった場合や、3人以上の複数人だった場合は適当にあしらっているのだが、それは何故なのかまではアッシュは知らされていない。
彼は村を訪れる旅人に自分の手料理を振る舞う事で賛美の声を聴きたいだけなので、その他の事はどうでもいいと思っていた。
想定した料理を再現するのに必要な食材は、例えそれが稀少なものであろうが、雑貨屋に行けば何とかなる場合が多い。
壮齢の女主人が切り盛りする雑貨屋は行商人のお蔭で様々な品物が揃っているし、田舎者であるアッシュが使い方すら分からないものまで何でもある。
無いものは、例えば数か月前に肉料理で使った希少な牛肉も、彼女に言えばその数時間後にはいつもの行商人がやってきて仕入れてくれているのだ。
とても有難い存在なので、アッシュは特に雑貨屋の女主人とは仲良くしていた。
他にもこのヤーゴ村には特筆する人物が3名存在する。
復興の折に畑を懸命に耕していた中年の女性―コンチーターは、今や村の畑の責任者であり、彼女の手にかかればどんな作物も育つ畑になるのだ。
ちょっとしたコツがあるのよと大らかに笑うコンチータの手には、いつもスコップが握られている。
雑貨屋から新しい種を仕入れては様々な農作物を作っていて、村人の大半は彼女の畑に駆り出されている。
かくいうアッシュも手が空くと、コンチータ管理の果実畑を手伝わされていたりするのだ。
村人達に最も必要とされると云われているのが、妙齢の未亡人、薬師のオルガである。
この村には医者は存在しない。
専門の知識を持った人間もいないが、薬の効用に長けた人物ならばいた。
彼女が煎じた薬草を飲めば、軽い風邪ならば即日、高熱が出て寝込むような病気になったとしても薬を飲んでしばらく大人しく寝てさえいれば悪化せずにケロリと治ってしまう。
頭痛も歯痛も腹痛も、切り傷も火傷も疣痔であってもなんでもござれと彼女の家にはいつも誰かが何らかの症状で訪ねてやってくる。
彼女は医学の専門知識はないのよと必ず前置きしながらも、決して困っている村人を無下にはしない。
アッシュが火傷で彼女の助けを必要としたときは、見た事のない茶色い葉っぱをトロリとした液体に浸し、三日三晩湿布していれば治ると云われその通りにしたら、痕も残さず綺麗な肌になった事から、彼女の腕は身を以て知っている。
個人的に彼女に依頼して、アッシュ好みのハーブを幾つも組み合わせ、食堂で使用する調味料を作ってもらっているのだが、これもまた絶妙に料理にマッチして味の旨味の一押しをしてくれる出来栄えに、彼女の才能に脱帽するばかりである。
コンチータ、雑貨屋の女主人―マリソン―、オルガ。そして魔女と噂される女性がもう一人。村長の妻―アマラーは、夫の村長ですら頭の上がらない気の強い老女である。
村の采配は彼女の手によるもので、村長はそれに従っているだけと揶揄されているのを彼は知っているのだろうか。
困ったことはアマラに相談、これがこのヤーゴ村の暗黙のルールとなっている。
アマラの許可なくば村人は外に出ることは許されないし、勝手な行動もできない。
其の事に誰も反発しないのは、復興を互いに尽力した村人達の結束と信頼による関係性によるものであり、アマラの指図に従って間違いも生じていないので村人達は真の村長として彼女を敬っているのだ。
村長自身も彼女の傀儡であることを好んでやっているから、という理由もあるのだが。
要するに、今、このヤーゴ村は平和そのものなのだ。
たくさんの犠牲の元に成り立った平和であるが、その平和は村人達だけの力で成し得たものでもある。
物は溢れ、木々はたくましく成長し、農作物は大いなる実りをもたらし、村人達は皆仲が良く、災厄が世界を変えたなどもはやこの村には関係ないぐらい浮世離れしたこの平和を、少しぐらいは享受してもいいじゃないか、自分だってこの村の一員なのだからと、小川に足を浸けてのんびりのんびり午後を過ごす事は決して悪くないと言い聞かせ、アッシュは遠くから聞こえてきた父の怒声に溜息を一つ、付くのであった。
ひんやりとした水流が足をくすぐる感触も、仰ぎ見る雲が様々な形状をして流れていく様も、心地よい眠りを妨げるものは一切なくて、むしろ増長して益々深い眠りに入りそうでこのまま寝入ったら親父に怒られるんだろうな、と呑気に思ってしまうから、熟睡までは出来ていない、そんな長閑な昼下がりであった。
しかしそれは別段特別な事ではなく、いつもの…毎日彼が送っている午後なので、これが通常ならばそろそろ彼は役目をサボって此処にいる事がバレて、親父に首根っこを掴まれながら帰る頃合だろう。
アッシュはこの時間が好きだった。
彼はこの村に一軒しかない食堂の一人息子である。
多少手が早くて口が悪いガサツな父親と二人、こんな片田舎の寂れた食堂、決して客が多いわけではなく暮らしはカツカツだがそれでも切磋琢磨して生きてきた。
母は十年前の災厄で死んだ。
アッシュは料理の得意な母親の背中を見て育ってきたから、そのままそっくり母の才能を受け継いで、食堂を切り盛りする料理の大半を担っている。
不満は無い。むしろ自分には料理に於いては天性のセンスがあるとも自負するぐらい料理が大好きだから、もっと仕事が欲しいとさえ思っている。
いつ披露できるか分からないが、うつらうつらとしながら新しいメニューを考案するこの時間がとても好きだったのだ。
行列のできる料理店。厨房を仕切るのはアッシュで、客が満足そうに腹いっぱい食べてくれる顔。想像だけの未来の夢も、このゆったりとした時間に見る。
最後にその腕を見せたのは3か月ほど前だったか。
村を訪れた旅の聖職者達にその自慢の味を堪能させた。
彼らは料理人が一番欲しい「おいしい」を連呼しながら、全部平らげてくれた。
聖職者というものは大抵お高くとまって慎ましく生きてるもんだと思っていたが、旨い料理の前ではお堅い衣も脱ぎ去って、全部曝け出してくれるンだなと嬉しかったのを覚えている。
■■■
ここ、ヤーゴ村は、《中央》と呼ばれる第二の都市・湖の都よりもかなり南に下って、足場の悪く整備も心元ない渓谷を西に超えた更に先、珍しい野鳥の卵が採れる事だけが唯一の取り柄である険しい山脈に入る手前にぽっかりと空いた平原に造られた小さな村である。
渓谷を越えてきた疲れと、これから山に登ろうとする冒険者の癒しと準備の駐屯地点として誰かがこの場所にテントを張ったのが始まりだったという。
その冒険者達によって主食であるトウモロコシ畑が作られ、それを拡大し、テントからコテージ、コテージからロッジと徐々に定住する人たちが増え、村として機能するようになった。
これといった特産物はないけれど、冒険者たちを助けているという事で王都に従僕する村として登録を許され、第一号の村長の名前から《ヤーゴ村》と名がついた。
そもそも元からこの地域は冒険者達からあまり人気が無かったのだが、その取り柄である卵を産む珍しい野鳥はこの山脈だけに生息しているのではなく、高いところならば意外とそこら中にいるといったオチがあるので敢えてこの地に行かなくてもいいのだが、如何せんこの村に来るには昇降の激しい谷をいくつも越えてこなければならず、それが冒険者達の足を遠のかせる理由の一つでもある。
しかし中には辺境の村を巡るのが好きな冒険者も少なからずいて、半ば険しい渓谷を越える、さらに前人未到の山脈を登ってお宝を発見したいといった腕試し感覚で訪れる輩も多数はあったのだ。
村はすでに自給自足の生活ができるまでに発展していたから、たまにやってくるそんな冒険者相手に細々と商売して小銭を稼ぎ、衣服や生活雑貨を賄っていた。
これが10年前までのヤーゴ村の姿である。
10年前、何の前触れもなく、【カミ】が堕ちてきた。
滅多に外客が来ないのが幸いだったのか、外界の情報がほとんど入ってこない上、唯一の情報源である冒険者がこの日を境に一切姿を消してしまったが故に、村は世界の情勢が天地をひっくり返すほどまでに変わってしまった事を知らずに過ごした。
今まで経験した事がない衝撃と、かつてないほどの地震に、山脈はたくさんの土砂崩れを起こし、飲み水を供給していた小川を詰まらせた。
碌に手入れもしていなかった渓谷の足場は地響きと共に崖下へ吸い込まれ、渓谷そのものの形も変化した。
簡素な造りの家は壊れ、あちこちで火の手があがり、村の農作物や施設を焼いた。
壊滅的ほどではなかったが、それでも数十人の死者が出た。
その時運悪く家の中にいた者達が崩れた柱や屋根の下敷きになって、呆気なく死んだ。
アッシュの母親もその時被災し、犠牲者の一人となった。
村は孤立していた。都へとつながる道が無くなってしまったからである。
それでも、いずれ助けが来ると思っていた。
王都に登録されるという事は、即ち王都の保護を受けると同位なのだから。
残った村人達は自力で立ち上がり、世界がどうなっているか知らないまま、王都の助けを待ちつつも懸命に復興に尽力する事となる。
村の男達総出で土砂を掻き出し飲み水と農業用水を確保する。
女達は畑作り、子育てに勤しむ。
夜は肩身を寄せ合い、雨風を凌いだ。
あの災厄から空は灰色に曇り、濁った雨を降らすのだ。畑も思うように実を育まない。
それでも昼夜を問わず懸命に村人達は働いた。
1年が経ち、何とか全員が「家」を確保できた。
王都から助けは来ない。
2年目に入る頃、ついに備蓄食が潰えた。
空はようやく青さを取り戻してきたが、畑は実らない。
王都の助けを諦め、今度は渓谷の足場を固める作業に入る。
疲労と空腹に倒れるものが現れる。もはや村は壊滅状態に近かった。
かろうじて村人達の結束の強さだけで、彼らの命をほんの少し長らえさせていただけの状態であった。
そしてついに体力も希望も潰えようとした3年目。
一人の行商人が瀕死の村を訪れた事をきっかけに、村は昔の勢いを取り戻す事に成功する。
村人の努力と結束が、瞬く間に村を回復させ潤した。もはや過去をも凌ぐ潤沢さで。
餓死に怯えていたのがまるで悪い夢だったかのように、今、村はあらゆる実りで充実している。
行商人は復興のきっかけを作っただけではなく、情報もくれた。
あの日、あの地震があった時、【カミが堕ちてきた】のだと。
王都は壊滅し、魔物が全滅し、冒険者が消えた事をこの時初めて村人達は知った。
ああ、道理で誰も助けに来なかったのだな、と。
何故、村が急激に回復したのかアッシュは知らなかった。
行商人のお蔭と大人たちは口々に言うが、その理由までは教えてくれなかった。
■■■
災厄時、アッシュは12歳の少年であった。
【カミ】が堕ちた時、たまたま裏庭で薬草を摘んでいたのが幸いだった。
母が食材を保管している倉庫で在庫のチェックをしていた時に地震が襲った。
上下に激しく揺れる地面に足を取られ、這いながら近くの木にしがみ付いたアッシュの目の前で倉庫が潰れた。
彼は叫んだが、地響きの音の方が大きくて、自分の声はおそらく母に届いていなかったと思う。
母はそのまま亡くなった。
それから男手の一人として働いた。
母の死を悼む暇など一寸も与えられず、残った村人と自分を救う為に力仕事に勤しんだ。
常にお腹が空いていたが、それでも復興に勤しむ村人達に少しでも笑顔になってほしくて、限られた食材で炊き出しを行った。
アッシュの料理の腕は、村人全員が認めているし、あの極限の状況でよく働いてくれたと信頼も得ている。
村の結束力はこの上無いほどに高く、まるで一つの家族かのように密な付き合いをするようになった。
アッシュは今年22歳となる。
この世界は、15歳になると成人として認められ、魔族を退治する冒険者となるか家業を継ぐかの二択を選択せねばならない決まりがあった。
アッシュ自身は幼き頃より冒険者などに興味はなく、母のように美味しい料理を提供する食堂をこのまま継承するつもりでいたのだが、とっくに世界は崩壊し冒険者自体がいない世の中になってしまっては二択もクソもないなと嘲笑する。
復興のきっかけになった行商人との付き合いは絶たれた訳ではなく、実は今も定期的に村に訪れている。
アッシュは一度も会話をしたことが無いが、村で会うと会釈ぐらいはする仲である。
全身黒色のピッタリとした服を着用し、これまた真っ黒なマントを羽織ったいつもの恰好の男性で、齢は恐らく50歳手前か、雑貨屋によく現れるのだ。
雑貨屋の女主人はこの行商人を懇意にしており、外界の品々を村で作ったたくさんの野菜や果実と交換で仕入れていた。
行商人は荷馬車を引いて村を後にする。行商人がやってくるということは、渓谷の道も繋がったということで、彼の訪問は外界の人間の行き来も可能にしたのである。
以前ほどではないが、それでも数か月に一度くらいの頻度だったけれども、行商人以外の元・冒険者や旅人達も村を訪れるようになり、村人は総出で彼らの来訪を祝福し、盛大にもてなすのだ。
それが男女のカップルなら尚更、村人達は家族の一員として出迎える。
この災厄を乗り切り、見事立て直し、潤沢に満ちた実りを彼らに共有してほしくて惜しげもなく与える。
旅人が一人だった場合や、3人以上の複数人だった場合は適当にあしらっているのだが、それは何故なのかまではアッシュは知らされていない。
彼は村を訪れる旅人に自分の手料理を振る舞う事で賛美の声を聴きたいだけなので、その他の事はどうでもいいと思っていた。
想定した料理を再現するのに必要な食材は、例えそれが稀少なものであろうが、雑貨屋に行けば何とかなる場合が多い。
壮齢の女主人が切り盛りする雑貨屋は行商人のお蔭で様々な品物が揃っているし、田舎者であるアッシュが使い方すら分からないものまで何でもある。
無いものは、例えば数か月前に肉料理で使った希少な牛肉も、彼女に言えばその数時間後にはいつもの行商人がやってきて仕入れてくれているのだ。
とても有難い存在なので、アッシュは特に雑貨屋の女主人とは仲良くしていた。
他にもこのヤーゴ村には特筆する人物が3名存在する。
復興の折に畑を懸命に耕していた中年の女性―コンチーターは、今や村の畑の責任者であり、彼女の手にかかればどんな作物も育つ畑になるのだ。
ちょっとしたコツがあるのよと大らかに笑うコンチータの手には、いつもスコップが握られている。
雑貨屋から新しい種を仕入れては様々な農作物を作っていて、村人の大半は彼女の畑に駆り出されている。
かくいうアッシュも手が空くと、コンチータ管理の果実畑を手伝わされていたりするのだ。
村人達に最も必要とされると云われているのが、妙齢の未亡人、薬師のオルガである。
この村には医者は存在しない。
専門の知識を持った人間もいないが、薬の効用に長けた人物ならばいた。
彼女が煎じた薬草を飲めば、軽い風邪ならば即日、高熱が出て寝込むような病気になったとしても薬を飲んでしばらく大人しく寝てさえいれば悪化せずにケロリと治ってしまう。
頭痛も歯痛も腹痛も、切り傷も火傷も疣痔であってもなんでもござれと彼女の家にはいつも誰かが何らかの症状で訪ねてやってくる。
彼女は医学の専門知識はないのよと必ず前置きしながらも、決して困っている村人を無下にはしない。
アッシュが火傷で彼女の助けを必要としたときは、見た事のない茶色い葉っぱをトロリとした液体に浸し、三日三晩湿布していれば治ると云われその通りにしたら、痕も残さず綺麗な肌になった事から、彼女の腕は身を以て知っている。
個人的に彼女に依頼して、アッシュ好みのハーブを幾つも組み合わせ、食堂で使用する調味料を作ってもらっているのだが、これもまた絶妙に料理にマッチして味の旨味の一押しをしてくれる出来栄えに、彼女の才能に脱帽するばかりである。
コンチータ、雑貨屋の女主人―マリソン―、オルガ。そして魔女と噂される女性がもう一人。村長の妻―アマラーは、夫の村長ですら頭の上がらない気の強い老女である。
村の采配は彼女の手によるもので、村長はそれに従っているだけと揶揄されているのを彼は知っているのだろうか。
困ったことはアマラに相談、これがこのヤーゴ村の暗黙のルールとなっている。
アマラの許可なくば村人は外に出ることは許されないし、勝手な行動もできない。
其の事に誰も反発しないのは、復興を互いに尽力した村人達の結束と信頼による関係性によるものであり、アマラの指図に従って間違いも生じていないので村人達は真の村長として彼女を敬っているのだ。
村長自身も彼女の傀儡であることを好んでやっているから、という理由もあるのだが。
要するに、今、このヤーゴ村は平和そのものなのだ。
たくさんの犠牲の元に成り立った平和であるが、その平和は村人達だけの力で成し得たものでもある。
物は溢れ、木々はたくましく成長し、農作物は大いなる実りをもたらし、村人達は皆仲が良く、災厄が世界を変えたなどもはやこの村には関係ないぐらい浮世離れしたこの平和を、少しぐらいは享受してもいいじゃないか、自分だってこの村の一員なのだからと、小川に足を浸けてのんびりのんびり午後を過ごす事は決して悪くないと言い聞かせ、アッシュは遠くから聞こえてきた父の怒声に溜息を一つ、付くのであった。
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=主人公は男でも女でも顔が良い。
そして、ハンパなく強い。
そんな常識いりませんっ。
私はぽっちゃりだけど普通に生きていたい。
【エブリスタや小説家になろうにも掲載してます】
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
黒ハット
ファンタジー
前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。
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