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一. アッシュの章

8. poisson

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 俺は今、夕焼けで赤く染められた畑の畦道の中、馬を走らせている。

 真上は目の痛くなるようなオレンジ色。
 前方は血の色を連想させる鮮やかな赤。
 渓谷を望むは遠くの地平線辺りに紫。
 三色のコントラストが美しいと思う。

 しばしこの空が黒に染められるまで居たい気もするが、夜、街灯無きこの道は常闇に包まれ、視界の一切を奪う。

 通い慣れた畑ではあるが、あまりにも広大ゆえ迷子になるのは必然なので、馬の腹を軽く蹴ってスピードを上げた。

 綺麗な夕日は一瞬なのだ。
 すぐに暗くなるだろう。

 急がねば。


 怪しいフードの男が村を出て、俺たち村民は客人を迎えるべく準備をしていた。

 おっさん達と何処かに行っていた親父は、開口一番あの男の様子はどうだったか聞いたが、俺は応えるのも面倒で適当に返事しておいた。

 なんせ、本当にマシな会話はしていないからだ。

 それに、彼と過ごしたあの短い時間に、俺の心がざわつき、妙に居心地の良い緊張感を味わったのは事実で、その余韻に浸るには親父の豪快さは無粋にも思えたからである。


 俺は客人に馳走するメニューの走り書きを親父に見せ、親父はそれを片手に雑貨屋まで材料の仕入れに向かう。

 前回は牛肉だったので、今回は鳥尽くしにしようと考えた。

 せわしなく親父が出て行って、俺はそのまま裏庭に回る。

 いつも毎朝頼んでもないのに起こしてくれやがる大事な鶏を二羽、客人の為に絞める。

 一晩血抜きしていれば大丈夫かな、と小川近くの畑へ。幾つかの野菜や果物を収穫し、店に戻る途中で親父に会う。

 どんな客人かな、と談笑しながら店に着く。

 手に入れた材料をテーブルの上に全部並べて、足りないものはないか確認していくと、ああ、メインに使う重要な食材を忘れていた。トマトとジャガイモ。

「行って来い!」

 肩にポンと叩かれ、すげえ笑顔で言われた。


 その二つは、村の入り口に広がるトウモロコシ畑の端に沿うように作られている。

 特にジャガイモは渓谷の入り口に近い所で展開していて、つまり最も村から離れた場所にある。

 クッソ、今から行くと間違いなく夜になるじゃん!

 と悪態をつくも仕様が無いので――親父はこういう時絶対に行かない――収穫用のスコップと軍手、篭を手早く探す。

 親父が何処からか馬を借りてきてくれた。

 ああ、こいつに乗れば夜までには帰ってこれるな。


 馬を走らせ数十分、ジャガイモ畑でえんやこらと土を掘り返してデカいのをゴロゴロと篭へ。

 さてトマトはトウモロコシ畑の中腹辺りだったな、あそこは例の木があるところだから分かりやすい、うまく夜までには帰れそうだと馬の腹を蹴るのであった。



■■■



 馬に乗ってまた十数分、そろそろ畑の中腹辺りだと辺りを見回した途端、とんでもないものを見てしまった。

 赤に染まる畑、サワサワと葉が風に揺れる中、その中央に一本の古い木。

 背丈は大人ぐらいで高くなく、葉や実を生い茂らした事など一度もない枯れ木だが、根はしっかりと地面に張っている、村の御神木とされている村の宝であり象徴でもあるこの神聖な場所に、村人の俺でさえも気軽に近づく事は何となく憚れるこの地に、触れると皮が剥けそうでまるで綿毛に触れるかのように大事にしているその木に、あの見慣れた、数時間前に俺の眼前でピッコピッコ揺れていた変な飾りのローブが、

 なんとへばり付いていたのである。


「ちょ!!、旦那、あんた、なにしてんすか!!!!」

 案の定、そのローブには中身がいて、まさに食堂で会話をしたあの旅の男。

 村を出て行ったはずなのに、確か客人の様子を見にいった物見がついでに男の渓谷を降りる姿も確認していたはずで、こんなところに、よりによってこんな場所にいるなんて、誰が思うだろうか。

 馬から飛び降り、その際結えていた篭を蹴飛ばしてジャガイモが転げ落ちてしまったのも構わず、男に牽制しながら近づく。

 男は、そんな俺を見止めて、ああ、と間抜けな声を出しただけである。

「あんた、渓谷を降りたんじゃなかったのかよ!それに、ここが何処かわかってそんな事やってんのか!!」

 なんなんだ、こいつは!

 この男に対して、何度思っただろう。

 いまだ木にへばり付いている男の肩を鷲掴みにし、勢いをつけて乱暴に引いた。

 男の身体が抵抗もなくクルリと回る。

 やけに軽い。

 またあの呆けた妙に可愛らしい仕草をもって俺を白けさせるのだろうなと構えていたが、刹那、スウと重い刺すような視線が俺を貫いた。

「!!」

 声が、出ない。

 食堂で介したあのぬるま湯に浸かっているかのような雰囲気を今は全く感じない。

 逆に、氷。

 氷の風呂に片足付けて身体を震わせているような冷たい感触が、肩に置いた手を通じて浸食してくる。

 なんなんだ、これ。

 激高していた気持ちが、無理矢理押さえつけられた。

 彼はああと喋ったきり一言も口を開いていないのに、この圧倒たる威圧感に腰が抜けそうになる。

「だ、旦那…あんた一体なにものなんスか…」

 意識して震える声を我慢し、聞いた。

 昼間とは別人が入っているのではないかと疑ってしまう。
 ローブだけしか見ていないのだから、実際に別人であってほしいとさえ思う。

 しかしその願いは打ち砕かれ、あの食堂で聞いたあの男とも女とも云えない同じ声色が、俺に返す。

「言っただろ」

 男はゆらりと俺に対峙する。

 彼は後ずさり、俺に掴まれた肩を払う。
 虫がついたのをパパっと払うような何ともない仕草で。

 そして徐に懐に手を入れ、手のひらサイズの塊を取り出す。

 彼は夕闇を背にして影になっていて、それが何なのか良く見えない。

 彼は俺にそれを見せつけるかの如く目前に掲げ、パっと手を放した。

 夕日に照らされ、ブラブラと汚れた革紐に揺れる、木製の首飾り。

 丸が二つ重なる輪違いの、紋章。

 教会に属する、聖職者たる証、三か月前、誇らしげに見せられたあの――。

「ここで消息を絶った、友人の大切な人達を探しにきた、ただの旅人だと」

 それは、あの聖職者達が持っていた、輪違いの紋章。

 土に汚れしそれを男は掲げたまま、俺に問うた。

「お前から得られる答えは決まっているだろうが、敢えて聞いてやる。彼らは――

 ついに俺は腰を抜かしてしまう。

 親父に怒られたってこんな風にはならない。村で一番恐ろしいとされるアマラばあさんに睨まれたって、こんなに心臓が委縮しない。

 こいつは丸腰で、俺に直接攻撃を仕掛けてきた訳でもなく、ただ質問しただけだというのに。

「し、知らな、い。知らねえ!!」

 本当に知らない。消息を絶った?そんなの初めて聞いた。

「俺はただ、その人たちに飯を食わせただけだ!!」

 叫ぶ。

 男は俺を見下ろし、黙って聞いている。

 腰を抜かしたまま、じりじりと後ずさる。
 チラリと後ろを見る。

 俺が乗ってきた馬がなんと、いない。

 うっそだろ!!

「消息を絶ったって何だよ!!なんでそんなもんをアンタが持ってんだ!!」
「波動を追ったらここに在った。この紋章は――」

 輪違いの重なる部分を俺に見せる。
 夕日の光に反射して、小さな石の煌き。

「触媒でもあるからな」

 触媒?一体何の話だ。
 噂に聞く、『魔法使い』ってやつなのか?

 俺の村に、魔法を使う人間は一人も存在しない。

 日曜学校で習った学問を脳をフル回転して思い出す。
 魔法はマナに干渉し、精霊を従える事で発動する。原理さえ分かれば誰だって使う事が出来る。
 そう、魔法の仕組みさえ勉強していればの話だ。

 血液のように自らが保持し、身体を流れるマナをエネルギーにし、精霊を番える為の真霊晶石(マナの石)を埋め込んだ触媒なる物質を媒体にしてようやく発動できる面倒臭いシステム。

 それが魔法。

 その魔法を、その聖職者たちが使える事すら、今初めて知ったんですけど!!


 もはや、絶叫に近い。

 眼前にはフードの男。

 馬は逃げた。

 そして俺はだだっぴろい畑の真ん中に一人。
 もうすぐ日が落ちるから人っ子一人いやしねえ。


「おおおおおお俺を拷問しても意味ねえぞ!!なんせ俺は下っ端だし、知ってる事といえば料理のレシピぐらいだし!!それにそいつらが居なくなったってのも関係ねえ!!そもそも荷馬車がカラだったんだから!」
「荷馬車?」
「おおおおおおう。ここは広くて迷子になるし、夜は明かりもねえ、だから彼らに貸したんだ。毎回貸すんだよ、馬に乗れば一時間足らずで畑を抜けれる。渓谷の休憩所に夜までには辿り着ける。そうやって毎回俺らは送り届けてんだよ!!」
「…………」

 男が口元に右手を持っていく。親指を顎に、人差し指を口に。男の考える時の癖なのかもしれない。

「毎回、あの時も!荷馬車は空だったし、渓谷の入り口に馬もいた!帰ったと思うのは当然だろ!!」

 それに万が一、途中で馬車を降り、迷子になっていたと仮定する。
 三か月も見つかっていないのは幾らなんでも可笑しい。

 村の誰かが見るだろうし、このトウモロコシ畑には毎日当番制で人手が入るのだ。

 この三か月、何も無かった。
 無さ過ぎて飽き飽きする程に。

 当然、彼らが行方知らずであることを、村人は誰も知りえない。
 この男の勘違いではないだろうか。ふとそんな疑問がわくのも無理はない。

 だが、彼の持つ、その紋章がここに在る理由も説明できない。


 彼の右手が口元を離れる。

 その手は定位置に収まる事なく、なんと俺に向かって差し出された。

 ハテナがたくさん浮く。

 もし擬音語が具現化される世界だったら、今俺の周りはハテナに埋め尽くされ息もできていないかもしれない。
 非現実的な世界に逃避したいと心から願ったが、男からは逃げられなかった。

「お前の飯を食ったら、俺の欲しい情報をくれるんだっけ?」

 ローブの中が笑っているような気がした。

「だ、旦那…」

 手を差し伸べられている。

 微動だにしない右手。

 腰が抜けた俺、従う以外の選択肢は無い。

 恐る恐るその手を握る。

 白く、薄い、手。
 母親以外の女を知らない俺でも分かる、節々が固い男性特有の指。それでも細い、しなやかな手触り。

 その手に触れた瞬間、もの凄い勢いで引っ張り上げられた。思わず前につんのめる。

 腰は抜けたままだから、そのまま男に抱きつく羽目になる。
 情けなくも、男にしがみつく恰好で。

 男を見上げた。

 相変わらずローブの中は真っ暗で顔が分からない。ああ、でも少し見えた。
 影に隠れた薄い唇の端が、若干上がっている。

 笑っている。

 それが分かった途端、あの落とし穴に落ちるかのような重い重力に押し潰される威圧感が、見えない氷で内蔵から凍らされてるような絶対零度の冷たい感覚が、彼から消え失せた。

「お前は他の連中とは違うようだ。、だけどな。だから少し実験してみようと思う」

 重たい空気は纏わなくなったが、ナイフの刃先のような尖った圧力はまだ消えてはいない。

 彼の科白に聞き捨てならない不穏な響きを感じたが、俺は頷くしかなかった。

 何故か嬉しかった。

 食堂で味わった高揚感を感じた気がした。

 この俺が、彼の役に立てるかもしれない、彼の疑問に答えてあげられるかもしれない、こんなにも俺を怖がらせてくるヤツだというのに。

 コクコクと首を縦に振るだけの返事になってしまったが、彼は満足したようにようやく俺の手を離した。
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