蒼淵の独奏譚 ~どこか壊れた孤高で最強の魔法使いがその一生を終えるまでの独奏物語~

蔵之介

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二. ニーナの章

44. 神の卵

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 再びアッシュが込み上げる吐き気にリュシアに抱き着く事で何とかやり過ごそうとし、言いたい事を言い終えてスッキリした私は船の縁に腰を掛けて足を海に浸して心地よさを感じている。

 船はどんどん進む。スムーズ過ぎて逆に怖いくらいに。


 リュシアを纏う空気は穏やかだった。彼はずっとアッシュの額に手を置いていて、ほどんど動かない。

 寝ているのかな。

 昨夜は眠れなかった上に一晩中走り回った。
 私は途中で意識を失ったが、その後も彼はマナの同化とやらを私に施したり、今朝方到着した騎士団の対応に追われたりと、眠る間は無かっただろう。


 アッシュはリュシアの膝の上が心地良すぎて眠りこけている。
 そういえば、彼もほとんど出ずっぱりだった。

 リュシアに至ってはその前の晩から碌に休んでもいない。ロルフ団長の証言から墓堀で疲れた身体を二時間程度しか休ませていない。それから町へ繰り出して、私達と夕食を共にして、そのまま幹部会議。
 そこでひと悶着あってリュシアは団長を連れて町の外に出て、また戻って来て夜中に私と港で皆合した。

 彼の体力は普通の人と左程変わらない。
 足はアッシュの方が速かったし、坂道を走った時も私が途中で追い越した。

 全く表には出さないが、相当疲れているはずなのは事実で。こんな僅かな時間しか休めない彼の背負った覚悟を私は改めて感じる。


 彼はいつから人に弱みを見せなくなったのだろう。
 彼はいつから、その足で踏ん張り続けているのだろう。

 このまま船が着かなければいいのに。そうすれば彼を存分に休ませてあげられる。


 空は青く、海も蒼い。
 気持ちいい風が鼻をくすぐる。


 ああ、海の女神様よ。このひと時だけでも安らぎを。


 普段は滅多に祈らない女神に手を合わせ、私は目を閉じるのであった。



 ■■■



「起きて、ニーナ。廃墟が見えてきた」

 ギャバンが私の肩を揺らす。
 何時の間にか私も寝入っていたようである。

 はっと頭を覚醒させ、前方に目を凝らす。

 先程までの快晴が嘘のように、一面を霧で覆われたかつての貿易都市が現れた。
 ボロボロの瓦礫に濃い霧が纏わりつき、禍々しい雰囲気である。

 リュシアとアッシュは既に目覚めていた。

 船は沈んだ街を掻い潜るように進んでいる。聳え立つ朽ちた建物をリュシアが見上げている。
 アッシュはまだ少し顔色が悪かったが、足もふら付かずに彼と並んで廃墟の様子を見渡している。
 思いのほか大丈夫そうで良かった。


「グレフ、いるじゃん…」

 アッシュの指差す方向に、白いモヤがいる。
 ぐねぐねと気色悪い動きをしながら、取りすぎる私達の船を見ているようだ。

「おっかねえ雰囲気だな。廃墟全体が幽霊屋敷みてえ」

 霧は自然に発生したものとは思えない。不自然に廃墟を覆い隠しているのだ。
 それを証拠に私達の後方の海は視界が開けて太陽が燦々と輝いている。

 ここだけ霧が、在るのだ。

 この様子ではグレフだけではなく、死人もいるかもしれない。
 西側の脅威は排除したが、東エリアに出没したという死人の対策は全くしていないのだ。




 船は波止場跡地を通り過ぎ、西側の――私達が解放したエリアに進む。

 リュシアはギャバンの操る舵の隣に立って行き先を指示している。

「…墓場の真下あたり、ですか」

 上は人工谷、下から見上げれば、断崖絶壁である。

 ギャバンは浅瀬を上手く避けて慎重に船を進める。あちこちに大きな岩が隆起している。
 これも災厄で谷の一部が崩れ落ちた影響だろう。

 ギャバンの船の腕は確かなようだ。僅かに操作を誤れば岩に衝突して船に穴が開くか、砂に底を捕られて身動きが出来なくなるかなのに、危なげなく船は進んでいる。



 そしてついに船が止まる。
 岩盤と岩盤の間、一見何もなさそうな崖の裏手に乗り上げてギャバンは船を止めた。


「ここは…」

 ロープを岩に括り付け、船を降りる。

 波の上下の感覚がなくなって足に浮遊感を感じる。
 陸酔いしなければいいが。慣れない感覚に足元の覚束ないアッシュにギャバンが手を貸していた。

 私達は苔の生い茂る岩を越え、歩く。
 するとすぐに小さな洞窟が見えた。

 四方を高い崖に囲まれ、入り口は腰を屈まないとならないほどに狭い。

 海水は足首程度まで浸かっている。
 狭いのは洞窟の入り口だけで潜れば身を起こせる。入り口から僅かに零れる光を頼りに目を慣らす。

 太陽は霧で隠れているし、何より洞窟の天井は岩だ。
 しかし自然に出来た洞窟ではない。綺麗に真四角に、削れているのだ。

 気の遠くなるような時間を掛けて海の水が少しずつ浸食して出来たものならば、もっと凸凹して螺旋状の突起物もあるはずだ。だがこれには全く見られない。
 何者かが硬い岩に穴を空けた。そう考える方が無難だろう。


 グモモモモオオオ!!!


 洞窟に足を踏み入れた瞬間に、グレフに襲われた。

 あのくぐもった嘶きが洞窟全体に響き渡る。耳を塞ぎたくなる奇声は、しかし瞬時に消える。

 私達がグレフだと認識した時にはもう終わっている。
 警戒する間も、戦闘態勢を取る間も無く瞬殺されているのだ。

 先頭を行くリュシアの手によって。

 次々に現れる大蛇の形をしたグレフも状況が理解できていない。
 侵入者に警告に現れた矢先に吹っ飛ばされ、洞窟の壁に叩き付けられ、敢え無くその命を落としている。

 仲間に危険を知らせる手立てすらリュシアは与えない。
 実に無防備にやってくるグレフを簡単に往なしている。


 5匹は殺しただろうか。
 ふと、リュシアの足が止まった。

 洞窟の先、どうやら90度に曲がっているようだ。若干白みがかっている。

 あれは外の光か。

 洞窟を抜けるのか、はたまた天井がぽっかり空いているか。または何者かが光を発しているか。
 それでも暗く見通しの悪い洞窟内を進むよりマシだと思った。人は光を欲する生き物なのだ。



 ぴちゃぴちゃ

 ズル…ズルっ…ズル…



 光のある場所から粘液の音が聴こえる。

 ただの水音とは違う。
 あのサドスティックな騎士団長が舌なめずりした時のような、生理的に気色悪い音だ。
 それがひっきりなしに断続的に聞こえる。


 足を止めたまま、リュシアは私達を振り返る。


「ここだ」


 と呟いた彼のローブから僅かに見える口元が―――笑っていた。



「此度の遠征は上々だった」

 彼の足が再び動く。

「旦那?」

 心なしか上擦った声にアッシュが訝しがる。

「俺が出向いて正解だったな」

 光の終着点、急に視界が開けた。

「リュシアさん?」

 彼の後ろに着いて行く私達からはまだ内部が見えない。
 彼は壁側に寄り、光の元を開示した。


「こんなを、俺にくれてやったのだからな」


 ぬめぬめと粘り気のある水。ムッと篭った空気が生暖かい。



 そこは細い洞窟内の通り道と違って広い場所であった。


 カモメ団が利用していた館の、団長の執務室ぐらいの広さはあるだろうか、こちらも例によって真四角である。ぽっかりと崖に穴を開けて即席に造ったような部屋、それが目の前にある。


 そしてその中に、先客がいた。


 あれは、触手か。植物の蔓を彷彿とさせる長い筒状の物体。いや、クラゲの方が合っているか。
 岩という岩、崖の上の方まで触手が絡みつき、粘膜から白濁のねっとりとした液体が滴り落ちている。

 ぴちゃぴちゃという音は、その触手が白濁を吐き出す時、他の触手と縺れ合った時に鳴っている。


「まさか…」


 真四角の空間。その中央部だけ水が這っている。
 水の真上、白いモヤの化け物が鎮座している。

 人のような形。頭があり、胴体があり。その下は…触手が何百本も蠢いている。

怒れる神グレフ!!」

 グレフの周り、数千個はあろうか、あの透明な石ころが無造作に散乱している。

 石ころはその全てがテカテカと煌めいている。美しさは微塵も感じない。
 地面の水と粘膜が混じり合い、ただそこに転がっているだけの石は人間の消化途中の吐しゃ物のようにも見えて、とにかく嫌悪が湧く。

 中央の物体が動く。

 私達の目の前で触手がぶわっと捲れ上がったかと思うと、まるで人間の女性器と思わしき生々しい穴が縦にポッカリと開く。

 糸を引き、内部から体液が下へと垂れ流される。


 ズルズル…ズルっ…ズル…

 またあの音。
 するとその穴から次々に石が出てきた。

 怒涛となく産み落とされる石。一気に数百個もの石がグレフの周りの水に溜まる。

 グレフが呻いている。
 僅かに身じろぎするたびに女性器が収縮し、夥しい白濁と共に石が排出されているのだ。



 これは…なんだ。
 私は一体、何を見せられている。

 こんなのってありか?これじゃまるで、出産…いや、ではないか。

 この石は、あのグレフが産んだものとでもいうのか。



 上半身は裸。女性と同じく、乳房が豊満に膨らんでいる。
 しかし乳首は存在しない。あるべきところにあるべきものがないだけで、破廉恥な姿をしているのに色を感じない。いや、人とすら認識しない。

 括れた腰は引き締まり、これが実在する女性ならば男性にとって魅力的過ぎる肉体をしているだろう。
 だが下半身は全くの別物だ。

 蠢く触手を人間は持ち合わせていない。とても美しい肉体の下は恐ろしい程に気色が悪く、そのアンバランスさに吐き気が込み上げてくるほどである。

 更にこのグレフには顔が無かった。首から上はただの丸だったのだ。
 目も鼻も口もない。首より下の造形は悍ましく精巧な造りなのに、顔だけ杜撰で適当にくっ付けただけのように見えた。

 これはグレフだろうが、これに似通った姿を私は知っている。
 あの死人と同様に、伝説と云われるお伽噺の中に出てくる海の魔物だ。

 名前は確か、【スキュラ】といったか。その美しさから人間を魅了し海に誘い出し、最後は触手で人間の息の根を止めるやっかいな魔物である。

 それはあくまで伝説の魔物のお話。
 私の前にいるこの気色悪い奴は、お伽噺を模し、偽物に成りすましたただのグレフだ。


 グレフは私達がいると認識しているのに攻撃してこない。いや、正確には出来ないのだろう。
 時たまシュウシュウと緑色の体液を吐くのみで、躰は粘膜に覆われて動けないようだ。

 蠢く触手は我々を攻撃するものではなく、卵を護るもの。

 産み落とされたばかりの石は触手に隠され、当のグレフは私達を睨むばかりである。

 顔が無いのに「睨む」とはおかしな表現だ。
 そんな中途半端な滑稽さがこの場所には充満していた。



 リュシアが一歩足を踏み出す。

 途端にグレフが吼える。ビクつくように躰を捩らせている。
 あの神が、私達人間を散々翻弄し続けた怒れる神が、たかが人間に怯えている。


つがいがいるな」


 つがい

 そうか、これは雌型。
 何らかの方法で受精しないと卵は産まれない。だとすると「雄型」がもう一匹いるのだろう。


 グモモモモオオオ!グモモモモオオオ!


【スキュラ】が短い声を上げだした。触手の先が水を叩き、千重の水面を作る。

「旦那、この声…援軍を呼んでんじゃねえのか?」
「だろうな」

 リュシアは粘膜を踏みしめ、グレフに近づいて行く。

 産まれたばかりの石を拾い、白濁に手が穢されるのも厭わず、それを見せつけるかのようにスキュラの前に出しだした。


 フシューっ!フシュ…!!


 スキュラが啼く。しかしリュシアの前では成す術もない。

「これは、有効活用させてもらう。お前の役目はもう、終わった」

 スキュラの触手が凄いスピードで動き回り、最後の足掻きを見せた。
 目の前に至るリュシアは距離的に攻撃があたる位置にいる。

 しかし触手が襲い掛かろうとした瞬間、融けた。
 ほんの一瞬も、触手はリュシアに触る事すら敵わない。

 顔の無いグレフがさらに嘶く。
 だが、最期の聲は、阻まれた。


 スキュラの、いや…グレフの死によって。


 ボフン!


 この場に似つかわしくない、何とも間抜けな音がした。
 スキュラの中身がやけに膨らんだかと思うと、内部で爆発したのだ。

 崩れ落ちるグレフ。白いモヤが立ち込める。

 肉体は形状を保っていられない。
 モヤがシュウシュウと周りを霧散する中、さらにリュシアが追い打ちをかける。


 プスン…。


 彼がパチリと指を鳴らした。
 モヤが蒸発する。

 一瞬の出来事であった。

 次に私が瞬きをした時、そこには何もなかった。
 あの粘膜もグレフも触手もモヤも何もかも。


 石だけを残して。



 はっきり言って残酷だった。

 触手が攻撃の手段だったとしても、あのグレフはほぼ無抵抗であった。
 敵を同情する事は出来ない。
 あれは人類の敵、あれが産んだ石が原因で、私達の町は滅ぶ寸前まで陥れられたのだ。

 だから、彼のやっている行為は正しいのである。

 そう、彼は何も間違っていない。無抵抗だろうが攻撃パターンが無かろうが、あれは倒すべき敵なのだ。

 でも同情の欠片すら容赦ない彼の仕打ちは、見ていてとても怖かったのも事実であった。



 消滅したグレフの忘れ形見の石は数客とは言わず、千、いや万はゆうに超えていそうだ。
 あの行商人はここから石を調達していたのか。

 何がマナの深い所で形成されて、数が少なくて稀少価値が高い代物だ。こんなのグレフのカケラじゃないか。
 しかもこんなに大量に。
 あの売り文句にすっかり騙された自分自身の無能さを恥じていると、リュシアが徐に振り返る。



「さて、ニーナ。”マナの同化”の説明をしよう」



 やけに機嫌の良いリュシアが、にこやかに笑った。
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