蒼淵の独奏譚 ~どこか壊れた孤高で最強の魔法使いがその一生を終えるまでの独奏物語~

蔵之介

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四. ルーベンスの章

8. 来訪 ②

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 記念すべき最初の一歩のはずである。
 人間が、友善の意を以ってこの地に足を踏み入れる最初の歴史的一歩は、我先にと飛び出した一人の少女から始まった。

「な―――!」

 私は絶句してしまう。
 こんな大事な場面に子供が現れた事が理由ではない。

 白いふわふわの髪を持つ少女だった。飛び出した勢いが付きすぎて絨毯に足を引っ掛け、盛大に転んでしまっている。
 黒いドレスと長い髪が風に靡いている。ドレスの裾が捲り上げられ、クマの絵柄の入ったかぼちゃパンツが丸見えである。
 盛大にズリ扱けた少女が恥ずかしさのあまりに暫く絨毯と仲良く頬擦りをしているその滑稽な様を、誰も笑う者はいなかった。

 愛嬌のある、可愛らしい少女だと思う。
 人間の顔の良し悪しを魔族は認識できないが、整った顔立ちなのは分かる。
 天真爛漫に振舞う少女の、その物怖じしない井出達に絶句しているのではない。

「なんだ、あれは…」

 護衛の任に就く同志の一人がつぶやく。全く同じ事を私も思っている。恐らく少女を見た―――いや、この場にいる誰もがそう思ったであろう。
 それを証拠に、制御不能ま陥っていたこの場の喧騒が、嘘のように静まり返っていた。

「テルマどの、大丈夫ですか?」

 新兵達が少女に駆け寄り、ひょいと抱き上げる。
 500人以上の魔族が集まるこの場で、普通に動いているのは人間の護衛に就いた新兵のみであった。

「イタタタ…えへへ、失敗しちゃった。最初に出ろとか急にお兄ちゃん言うから、ついつい張り切りすぎちゃったよ」

 新兵に起こされてようやく二本足でしっかり地を踏んだ少女は、静まり返る我々魔族を値踏みするかのように見回しながら、歯を見せてご満悦に笑っている。

 私は呆気に取られていた。
 二の句が告げなかったのは、現れるのは人間だと思い込んでいたからである。
 他の皆も間違いなくそうだっただろう。

 まさかが飛び出してくるとは、一体誰が予測できたというのだ。

 その次に馬車から降りてきたのは、少女とは真逆に優雅にテロップを踏む気障きざな若い男であった。
 緩慢とした動きで絨毯を踏み、少女と良く似た白い美しい髪をわざと掻き揚げて、風を仰ぐ。

 私は―――魔族は再び声が出せなかった。
 この男もまた、からである。

 魔族と人間のマナは、根本的に質が違う。
 水と油のようなもので、見た目には判別し辛いが臭うとすぐに分かる。魔族はマナの種類を無意識下に感じる事が出来る有能な種族だ。
 この気障な男から漂う匂いは、そのどれでもなかったのだ。人間の匂いを僅かに携えながら、どうしても嗅ぐことのできない未知なる物質を体中に纏わりつかせていた。

「おやおや、驚かせてしまったかな。それとも僕の美貌に見惚れてしまっているのかな」

 浅黒い肌から覗く白い歯がキラリと煌めく。
 すると、あちこちから黄色い溜息が漏れ聞こえてくるのだ。
 これもあり得ない事であった。人間如き劣勢種に、我が誉れ高き魔族の女が一目で絆される事実など。

「長…これは……」

 私は混乱した。
 最初に現れたのが精霊。自然界に漂っているはずの精霊が、肉眼で可視化できる精霊など聞いた試しがない。
 だが少女から放たれるマナは人間のものでも勿論魔族のものでもなく、人外や獣の類いでもなく、むしろ自然界そのものの清い力であった。
 私達が無意識に接している自然物が、人間の形を成して今ここに在る。

 そして次も不可解な存在であった。
 一見人間の匂いを纏わりつかせたこの優男は、姿形も人間だ。しかし、男を構成する内側は未知なる力で溢れている。抗えない力の断片を、この男に感じるのだ。
 この男に一度ひとたび命令されると、絶対的に逆らえない不可解な強制力を感じる。その未知なる力は禍々しく、男に敵意は見当たらないのに危険信号が鳴り響く。

「ルーベンスよ、世界に目を向けよ。魔族だけに固執してはならぬ」
「長…?」
「そして刮目せよ。それらを束ねる人間の王を。我々はもはや、このお方には敵わぬ」
「ど、どういう意味で…」
「今に分かる。さあ、殿!!そのお力、どうか我々に御見せ下さい!!」

 長は杖を手放し、しゃんと立って両手を掲げる。

 その瞬間であった。


 ぶわり


 大地が、鳴った。

 私は呼吸を忘れた。
 ビリビリと空気が震撼する。
 今まで何の力も感じなかった馬車の中から、悍ましいマナの力が放出されている。

 私の五感が叫ぶ。
 目は瞬きを忘れ、耳はキンと鳴り響き、肌はビリリと摩擦を感じ、鼻と舌は清涼を味わう。

 私の第六感が吼える。
 かつてない感覚が私を襲う。

 全身全霊で受け止める。
 溢れんばかりのマナの力は、泣きなくなるほど純粋で美しく、長い間溶けなかったこの頑なな黒い心情が見事に清浄される錯覚を得た。私は無意識に跪いて平伏していた。
 周りもそうであった。500人を越す魔族の全てが、純真で純潔なマナに感服していた。

「あれは神だ…」

 誰かがそう言った。
 その言葉は、妙にしっくりと心に落ち着いた。
 納得せざるを得なかった。あんなに混じり気のないマナを目の当たりにするなんて、初めての経験だった。

 ゆっくりと馬車から降りてくるひとりの人物。
 人間でも魔族でもない判別不能な力を持つ気障な男が恭しくその手を取り、淑女をエスコートする流れるようなスマートさで介添えするのを、我々は黙って見つめているしかない。

 それは、深い蒼色の重厚なローブを身に纏っていた。
 頭から足先まで、全身を蒼の衣が包んでいる。口元すらも隠すそれは、その者の肌色を一切露出させていない。

 馬車という隔てる物が無くなって、私達はまともにそれが放つマナを浴びた。
 もう誰一人として野次を飛ばす者はいない。
 お祭り騒ぎに浮かれていた者は神妙に姿勢を正し、因縁の間柄に憤っていた者は感動に打ちひしがれている。世の中の全てに悲観していた者は希望を見出し、現状を楽観視していた傍観者は本音の丈を心の中で叫んだ。
 全ての喜怒哀楽が渦巻いていた混沌は浄化され、たかだかひとりの人間に誰もが我を忘れている。

「おお……ようこそ御出で下さいました。首を長くして待ち望んでおりました。本当に長い時間、待ちました…」

 長が手順を無視し、手を震えさせながら絨毯の上を進み歩く。
 ナポリの手筈では下種の人間が長の元へ歩いて渡り、膝を付いて平伏した後、長の許しを得て初めて言葉を交わすはずだったのであるが、そんな事などもうどうでもよかった。
 長自身が、居ても立っても居られなかった。

 ローブの人間の後に続いて若い女と全身黒ずくめの男が降りてくるが、その者らに注意を向けている魔族はいない。私とて、一目見るだけで精一杯だったのだ。それほどまでに、ローブの人間から目が離せない。

「丁寧なご歓迎、痛み入ります」

 ローブの人間が口を開いた。
 平坦な低い声、心地良い響きであった。

 私よりも圧倒的に小柄な身体付きの人間。声からして男であるのが分かる。
 一息掛ければ軽く吹き飛ばされそうな華奢なか細い姿は人間そのもので、男にしてはやや貧弱な印象すら受ける。
 しかしその存在感は圧倒的である。

「“紡ぎの塔”ギルドマスター・リュシア殿、我らが魔族一同、心より貴殿を歓迎致します。どうか我らの命運をお救い下さい」
「………」

 リュシアと呼ばれた男は答えなかった。
 堂々と毅然とした態度で、長による手の甲の接吻を受け入れている。
 誰もが目を見張った。その行為は魔族にとって最上級の親愛の証、同時に永遠の従属を誓う意味を成すものであったからである。
 魔王様に服従を誓う時、夫婦の契りを交わす時、絶対的に敵わない相手への無抵抗の降伏と和平を請う時のみの、滅多に行われない、魔族が人間にする行為では到底ないはずのもの。

 目を疑ったが、抗議は出来なかった。
 私でさえも、意識せず跪いているのだから。

「皆の者、聴けぃ!!!!」

 長は背筋を正し、腹の底から響き渡る声で轟いた。
 長のマナが心に届く。どれだけ離れようとも、この集落内にいる全ての魔族はその声を聴く。
 耳の聞こえないクロテッドも例外ではない。眷属のみが成し得る、魂のビジョンを視る。

「これより先、この者らへの敵対を一切禁ず!我ら魔族は今この時より、人間と共に在り続ける存在へと生まれ変わる。いにしえより刻まれた憎しみを捨てよ!!我らは誇り高き魔族、過去の遺物に惑わされる時代は終わりを告げたのだ!!」

 それは女神信仰の放棄。我らの根底を覆す新たな時代への布石を意味する。

 歓声は――――起こらなかった。

 まるで金縛りの魔法に掛かっているかのように、誰も微動だにしない。
 こんなにも人が密集しているというのに、息遣いすら聴こえてこない静寂の真っ只中で、長は満足そうに笑った。
 長の無邪気な笑顔は見た事がない。深く刻まれた皺がくしゃりと潰れ、何処が目なのか口なのかもう分からない。
 それを呑気に考える私の頭の中もぐちゃぐちゃだ。

「さあ、参りましょう。長旅で大変お疲れでしょう。貴方方の為に、皆張り切って準備しておりました。どうか、我らが歓迎の気持ちを受け取って下さい」

 その言葉にハッと覚醒したナポリが、長と人間の元に駆け寄る。私も釣られるように歩み寄った。
 そうであった、歓迎の儀はまだ始まったばかりである。せっかくこの時の為に時間を割いて準備してきた。皆の苦労を無下にする訳にはいかぬ。

 人間と手が触れる位置まで近づいて、私は真正面からその清冽なマナを浴びてどうにか頭がおかしくなりそうであった。
 何とか自我を保つのに、必死で己を律した。
 皆の手前でなければ、私は恥も外聞もなく泣き崩れていたに違いない。
 それほどまでに美しいマナの光を、その人間の男は惜しげもなく照らし続けていた。

「荷物は新兵が運んでおります。貴方方は、どうかこちらへ」

 私の声は震えていなかっただろうか。

 小柄なその男が、私を見上げた。
 ローブの中の瞳が、一瞬垣間見えた気がした。
 それは彼が纏うローブと同じ色をしていたように思う。

 深い海の淵、光を吸収して昏く佇む深淵の蒼。
 それなのに悠然と輝くのだ。矛盾を孕む瞳の中に、私は一体何を見たのか。

「……よろしく頼む」

 小さく呟かれた声に、今度こそ私は涙したかもしれない。





 我が地に、人間がやってきた。
 友愛の意を携えて、女神のことわりを覆して。
 敵対関係を清算し、我らと共に歴史を紡ぐパートナーとして正々堂々とやってきた。

 歴史的瞬間であった。

 様々な感情が渦巻く中、心の底から歓迎していた者など無かっただろう。
 だが、我々は見せつけられた。
 圧倒的なマナの美しさを。その、大きさを。
 母親の胎内に包まれる、懐かしい感触を。

 私達は出会った。
 全てが壊されたこの世界で。
 絶望的な未来しかなかった、この時代に取り残された哀れな魔族の世界で。
 過去の栄華に取り憑かれ、新たに生み出す事を忘れてしまった死の世界で。


 人間の皮を被った神が―――――降臨した。

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