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2.レイシウスと家族
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私は倉原 玲衣という名前だった。
日本という国のなんの変哲もないその辺の家に産まれ、特に特出した才能もなく、平均的な高校を出て、Fランクと巷でいわれる大学を出て、中小企業の事務として働いていた経歴を持っている。
玲衣の終わりのときは残念ながら解らない。ただ26歳程までは記憶にあるので何かがあったならそれ以降だろう。
そんな玲衣とレイシウスの記憶と価値観を持って、意識を失っている間にお互いの常識や考え方をすり合わせた。
まあ、実際はすり合わせたというよりも融合した、といった方が正しいのかもしれない。別に話し合いなどがあった訳でもなく、意識が戻ったときにはそうなっていた。
微妙に玲衣寄りの考え方になった気がするが、それは生きた年数の違いによるものだろうか。玲衣はレイシウスの前世と言うものなのかもしれないな、と思うものの不思議と驚きはなかった。
国の特別な治癒室でレイシウスは寝かされていたようで、高位貴族の権力ってすごい、と一人ごちる。
今までなら当然のように受け入れていただろう待遇に居心地の悪さを感じ、自分の性格を省みた。
記憶が融合する前のレイシウスならばこの状況を当然のように受け入れただろうし、玲衣ならばこの状況に卒倒しそうなほど萎縮するだろう。
なるほど、大分今までのレイシウスとは性格が変わっている。玲衣とも。今後の身の振り方も考えていかなければならないだろう。
今までのレイシウスは傲慢で良くいえば奔放、玲衣は内気で良くいえば謙虚で、正反対といっても過言ではない。まだ自分自身の性格が解らないという不思議な心地と不安を頭の奥に沈める。
落ち着いてから判断をしていこうと自分に言い聞かせながら、レイシウスはゆっくりと体を起こそうとした。
だが長い間寝ていたせいか眩暈が起こり、頭はベッドに容易く戻ることとなった。どれほど寝ていたのだろう、体は重くだるさが強い。
レイシウスのそんな行動に気付き、部屋にいた若い女性の治癒師が寄ってくる。茶髪を一つにまとめ綺麗にお団子を作っている、まだ20歳にもなっていないように見える女性。
この室にいるということは相当に優秀なのか、それとも見た目ほど若くないのか。レイシウスはそんな失礼なことを考えながら彼女の言葉を待った。
「カルシア様、どうぞそのままで。声が出せますか?」
「ぁ、」
そう言われて初めて声が出難いことに気がついた。喉の奥から息と一緒に掠かな声だけが小さく音として出てくる。口の中の水分がなくカサカサしたような感覚に、喉が渇いているのだとレイシウスは自覚した。
それだけで治癒師の彼女は理解してくれたらしい。
ベッドの近くに置かれた机にあった水を銀製のコップに入れて、レイシウスの頭を持ち上げて本当に少しの水をゆっくりと飲ませてくれる。
水気のなかった口内がそれだけで潤いはじめ、喉に到達した数滴程の水を時間をかけながら飲み下す。
水を噎せずに飲めたことを確認してから、治癒師の女性は少し量を増やしてまた水を飲ませてくれる。それを数度行って、彼女はレイシウスの頭をベッドに戻した。
……ナイチンゲールに看病されるというのは、こんな心地だったのだろうか。なんてレイシウスが胸を少しときめかせながら優しく扱ってくれる彼女に視線を送る。
「お加減はいかがですか? 3日も寝てらしたから、体もお辛いでしょう」
3日。あれから3日が経っていたのか、なんて現状を考える。
長いとも短いとも言えない期間よりも、あんな絶対絶命の状態から本当に助けられたのだと今更ながらに感じる。死んでいた可能性の方が断然高かったのは明らかだった。
レイシウスは潤った口内で唾液を飲み込み、軽く咳払いをする。少しだけ声をだすと掠れながらも音が響いた。
治癒師の女性は喋ろうとするレイシウスを止めず、時間をかけて声が出るのを確認するのを待ってくれる。
「私、何故、助かったの」
掠れつつも音がきちんと言葉になる。聞き取った女性は質問に、にこやかな笑顔で返答してくれた。
「カルシア様のお友達が、運良く近くにいらした騎士生に助けを求めてくださったそうですよ」
友達、なんて言葉にレイシウスは笑いもでない。自業自得である部分は多くあっても、クラスメイトが私を殺そうとしたことには変わりない。
だが恨むのも感謝するのも今のレイシウスには難しいようで、出た言葉は「そう」という相槌だけだった。端から見て、お礼も涙も感動も出ないレイシウスは一体どのように見えているだろうか。可愛くないには違いない、なんて客観的な考察をする。
だが彼女は眉を潜めることもせずにレイシウスの髪を整えるように撫でた。
「大きな魔物に襲われ、さぞ怖かったでしょう。ショックも大きいでしょうから、どうぞ心穏やかに」
優しい笑みでそう言って離れていった彼女に、レイシウスはこれが白衣の天使か、と場違いながら思った。ただ今までのレイシウスならば、侮られたと考えて手を払い除けていただろうと簡単に想像がつき、人の優しさを理解できてよかったと心底思う。
深く魔物に傷つけられていた肩は、もう少し深ければ命が失っていただろうと、老体の治癒師に告げられた。
「当分の間は痛んだり、動かし難くなったりするでしょう。何かあればすぐにご相談ください」
治癒師は私にそう言って優しい言葉をくれた。
命を奪うような傷を3日で癒すなんてこと玲衣の常識ではありえないのに、傷が塞がっているなんてこの世界の魔法はすごい。
ただ急いで塞がなければならなかった関係で、大きく傷も残ってしまうだろうと言われたので、一体家族からはなんと言われてしまうのか、それだけが気がかりだ。レイシウスは溜息をついた。
憂鬱な気持ちを抱えながら、部屋にいる間は起き上がることや歩くなどのリハビリをした。治癒室に長くいるのはあまり居心地が良くない。
3日寝ていただけなので、回復は早く、レイシウスは意識を取り戻して3日目に家に帰れると判断された。
迎えの馬車にはレイシウスの母親が乗っていた。
レイシウスの銀髪とは似つかない赤髪の母親は鼻が高く目もはっきりとした線で、美しい顔をしているがどうしても温かみが無い表情が多い。レイシウスと同じ色の赤い目は、一瞬とても冷たくレイシウスを見据えてくるので、いつもどこか緊張してしまう。
ずっとレイシウスは優しいお母様だと思っていたが、今のレイシウスは違う思いを抱く。今なら解るが、母親はレイシウスを可愛がってなどいない。
「レイシウス。会いに行けなくてごめんなさいね。貴女に会えるのを心待ちにしていたわ」
馬車に乗り込んで、母親が作り物の甘い声と笑顔で言う。わざとらしい態度に胸がざわつくが、レイシウスも笑みを作っておいた。
「お母様、ご心配をおかけしました。私もずっとお会いしたく思っておりましたの」
欲しいものを買い与えてくれる両親。欲しくない物だってたくさんねだった。
今思うとレイシウスも本当は愛されていないと心の深層では気付いていたんじゃないだろうか。冷静に母親を見つめて、レイシウスはそう考える。
「治癒室で嫌なことはなかった? 駄目な人がいたのだったらすぐに言えば良いのよ」
「ありがとう、お母さま」
「……傷が痛むの? 貴女が大人しいと心配だわ」
「違うわ、治癒師に傷が残ると言われて、それがショックですの」
「まあ、痛ましい。もっと腕の良い治癒師に出来る限り薄くしてもらえるようにしましょう」
命に関わりかけた怪我でも、会いには来てくれない母親。傷の心配をしてくれない母親。上等部の狩り場に行ったことを何故かとも聞かない母親。欲しいものだけを与えて、叱る言葉のひとつもくれない、母親。
本当に、今まで見てきた幻想の甘い世界じゃないんだと、改めてレイシウスは思った。
屋敷に帰れば侍女や侍従に出迎えられる。母親とはそこで離れた。
自分を好きでないと解っている人間と一緒に居るのは苦痛だと、体に力を抜きながら思う。息の詰まるようなひと時をすごして、それだけで体のだるさが倍になったように感じる。
「できれば少し休みたいわ。部屋着を用意してくれる?」
「かしこまりました」
朝から治癒室に派遣されて、レイシウスに付いてくれていた侍女にそう頼む。名前は……たぶん前に自己紹介をもらっていたとは思うけれど、なんの記憶もない。かすかにひっかかりもしない。
ただまだ10代前半か中ごろか、位の年齢に、私を押し付けられたんじゃなんてレイシウスは心配してしまう。侍女や執事は両親の所有物だと思っていたので、辞めさせたことが無いのが救いだ。……怒鳴りつけるのは日常茶飯事だったが。
我儘放題なレイシウスのお付きは嫌がられているのは知っているので、あまり関わらないでおこうと決める。
仲良くできれば一番良いのかもしれないが、下手に出て今までのことを謝るなんて出来ない。性格は大きく変化はあるものの、今までのレイシウスの中のプライドだけはそのまま強く残っているのだ。
頭の中でそんなこと気にせず謝りたいと思うのに、想像するだけで不可能だわなんて結論付いてしまう。性格は気の弱い玲衣寄りになったのに、行動が前の奔放なレイシウス寄りになっているなんてどうしようもない。
自分の部屋に入るとホッとするような、初めて入るような気持ちがした。そんなに久しぶりの部屋でもないのに、なんだかすごく懐かしいような気分にもなる。
疲れた気分で部屋着に着替えさせてもらっている時に、部屋の扉がノックされ外側から声をかけられる。
「失礼します。お嬢様、旦那様がお呼びでございます」
「私、もう部屋着に着替えてしまったのだけれど」
「旦那様は構わないとのことです。どうぞ、お早く」
私は構うのだけど。とは口にせず大人しく解ったわ、と返して最低限の身なりを整えてもらった。我儘を言わず、大人しく従うようなレイシウスに一瞬侍女が怪訝な顔をするが、嫌なことは早く終わらせたいんだ、なんて心で吐いた。
「旦那様、レイシウス様がいらっしゃいました」
侍女の後をついて父親の部屋に来た。扉の外側から侍女が声をかけると、父親の部屋に居た執事が扉を開ける。
レイシウスと似た銀髪の父親は、表情が少なく感情が解り難い。まだ30代前半程の父親は、やはり綺麗な顔でパーツはところどころレイシウスと似ている。だが青い目はいつも鈍く光り、何かを計算しているような印象を与える。
「お父様、ただ今帰りました」
「レイシウス。肩の傷は?」
何かを買い与えてくれるけれど、父親だってレイシウスを叱りもしなければ心配もしない。命の危機が終わって帰ってきた娘に送る最初の一言ではないだろうなんてレイシウスは思う。
「もう癒えました。ただ、大きく傷が残るそうで……」
傷が残る、という言葉に父親が眉をしかめた。ため息は大きく、どうしてレイシウスが「優しい両親」と信じ続けられていたのかが解らなくなる。レイシウスは心で中指を父親に立てた。意味はこの世界で玲衣しか知らない。
「……なら、もうお前には魔術しか残されていないな。今まで以上に励みなさい」
有無を言わさないような言葉に、レイシウスは笑いそうになった。少しだけ父親が見せた表情に、やっと本音が見えたような気がした。
今までのレイシウスも父親の言葉には逆らえなかったので、その言葉には悔しそうな顔を見せただけだろう。
レイシウスは高位貴族の令嬢で、長女で、下には妹が一人いるだけ。レイシウスが傷物になった今のままでは、良い縁談は見つかり難くなる。
もうレイシウスは家を継ぐか魔術で功績をあげる他、貴族として何不自由なく生きていくには難しくなったのだ。
父親の言葉は何も間違っていない。自業自得でこんな傷物の令嬢になってしまったのだ、政略結婚での付加価値は大きく減ってしまったことになる。それを自覚させるにも、お灸をすえる意味でも間違っていない言葉だ。
けれど、きっとレイシウスに必要な言葉はそんなものではなかった。今のレイシウスは、父親を冷ややかに見つめた。
何を買い与えられても、レイシウスの心が満たされずに他人に当たっていた意味が、今も少し理解できてしまった。
「お前はカルシア家の者だ、あまりに家に泥を塗る真似はひかえなさい」
その言葉の後、部屋を退出させられた。
親子としての温かみなんてほど遠くて、今までのレイシウスが可哀想にとすら思える。
自分のことを愛していない母親と、家の駒としか思っていない父親。
レイシウスの部屋に戻って部屋を見つめる。石造りの壁に壁掛けがされ、その派手な刺繍に今までのレイシウスの趣味が詰まっている。
絨毯も敷かれ、物であふれた部屋はどこを見ても大金がかかっている。以前のレイシウスが愛されていると、両親の特別な子どもだから与えられた部屋だと思って愛していた部屋だ。
ただ、今はそのすべてが滑稽に思えて仕方ない。
レイシウスは恵まれている。
裕福で才能があって、生きていくのに何の苦労もせずに生きていられる。
それはこの世界でほんの一握りの人間にしか与えられていない贅沢だ。
こんな贅沢で、こんな悩みなんてきっと妬まれるだけに違いない。
でもこの贅沢な世界にレイシウスの本当に欲しいものは何もなかったのだ。
我儘で傲慢なレイシウスはきっと、甘い世界だと思うことでしか生きていけないほど弱くもあったのだと初めて知って。
それは今のレイシウスが、自分だけでも今までのレイシウスを大切にしていこうと決意させるには十分だった。
日本という国のなんの変哲もないその辺の家に産まれ、特に特出した才能もなく、平均的な高校を出て、Fランクと巷でいわれる大学を出て、中小企業の事務として働いていた経歴を持っている。
玲衣の終わりのときは残念ながら解らない。ただ26歳程までは記憶にあるので何かがあったならそれ以降だろう。
そんな玲衣とレイシウスの記憶と価値観を持って、意識を失っている間にお互いの常識や考え方をすり合わせた。
まあ、実際はすり合わせたというよりも融合した、といった方が正しいのかもしれない。別に話し合いなどがあった訳でもなく、意識が戻ったときにはそうなっていた。
微妙に玲衣寄りの考え方になった気がするが、それは生きた年数の違いによるものだろうか。玲衣はレイシウスの前世と言うものなのかもしれないな、と思うものの不思議と驚きはなかった。
国の特別な治癒室でレイシウスは寝かされていたようで、高位貴族の権力ってすごい、と一人ごちる。
今までなら当然のように受け入れていただろう待遇に居心地の悪さを感じ、自分の性格を省みた。
記憶が融合する前のレイシウスならばこの状況を当然のように受け入れただろうし、玲衣ならばこの状況に卒倒しそうなほど萎縮するだろう。
なるほど、大分今までのレイシウスとは性格が変わっている。玲衣とも。今後の身の振り方も考えていかなければならないだろう。
今までのレイシウスは傲慢で良くいえば奔放、玲衣は内気で良くいえば謙虚で、正反対といっても過言ではない。まだ自分自身の性格が解らないという不思議な心地と不安を頭の奥に沈める。
落ち着いてから判断をしていこうと自分に言い聞かせながら、レイシウスはゆっくりと体を起こそうとした。
だが長い間寝ていたせいか眩暈が起こり、頭はベッドに容易く戻ることとなった。どれほど寝ていたのだろう、体は重くだるさが強い。
レイシウスのそんな行動に気付き、部屋にいた若い女性の治癒師が寄ってくる。茶髪を一つにまとめ綺麗にお団子を作っている、まだ20歳にもなっていないように見える女性。
この室にいるということは相当に優秀なのか、それとも見た目ほど若くないのか。レイシウスはそんな失礼なことを考えながら彼女の言葉を待った。
「カルシア様、どうぞそのままで。声が出せますか?」
「ぁ、」
そう言われて初めて声が出難いことに気がついた。喉の奥から息と一緒に掠かな声だけが小さく音として出てくる。口の中の水分がなくカサカサしたような感覚に、喉が渇いているのだとレイシウスは自覚した。
それだけで治癒師の彼女は理解してくれたらしい。
ベッドの近くに置かれた机にあった水を銀製のコップに入れて、レイシウスの頭を持ち上げて本当に少しの水をゆっくりと飲ませてくれる。
水気のなかった口内がそれだけで潤いはじめ、喉に到達した数滴程の水を時間をかけながら飲み下す。
水を噎せずに飲めたことを確認してから、治癒師の女性は少し量を増やしてまた水を飲ませてくれる。それを数度行って、彼女はレイシウスの頭をベッドに戻した。
……ナイチンゲールに看病されるというのは、こんな心地だったのだろうか。なんてレイシウスが胸を少しときめかせながら優しく扱ってくれる彼女に視線を送る。
「お加減はいかがですか? 3日も寝てらしたから、体もお辛いでしょう」
3日。あれから3日が経っていたのか、なんて現状を考える。
長いとも短いとも言えない期間よりも、あんな絶対絶命の状態から本当に助けられたのだと今更ながらに感じる。死んでいた可能性の方が断然高かったのは明らかだった。
レイシウスは潤った口内で唾液を飲み込み、軽く咳払いをする。少しだけ声をだすと掠れながらも音が響いた。
治癒師の女性は喋ろうとするレイシウスを止めず、時間をかけて声が出るのを確認するのを待ってくれる。
「私、何故、助かったの」
掠れつつも音がきちんと言葉になる。聞き取った女性は質問に、にこやかな笑顔で返答してくれた。
「カルシア様のお友達が、運良く近くにいらした騎士生に助けを求めてくださったそうですよ」
友達、なんて言葉にレイシウスは笑いもでない。自業自得である部分は多くあっても、クラスメイトが私を殺そうとしたことには変わりない。
だが恨むのも感謝するのも今のレイシウスには難しいようで、出た言葉は「そう」という相槌だけだった。端から見て、お礼も涙も感動も出ないレイシウスは一体どのように見えているだろうか。可愛くないには違いない、なんて客観的な考察をする。
だが彼女は眉を潜めることもせずにレイシウスの髪を整えるように撫でた。
「大きな魔物に襲われ、さぞ怖かったでしょう。ショックも大きいでしょうから、どうぞ心穏やかに」
優しい笑みでそう言って離れていった彼女に、レイシウスはこれが白衣の天使か、と場違いながら思った。ただ今までのレイシウスならば、侮られたと考えて手を払い除けていただろうと簡単に想像がつき、人の優しさを理解できてよかったと心底思う。
深く魔物に傷つけられていた肩は、もう少し深ければ命が失っていただろうと、老体の治癒師に告げられた。
「当分の間は痛んだり、動かし難くなったりするでしょう。何かあればすぐにご相談ください」
治癒師は私にそう言って優しい言葉をくれた。
命を奪うような傷を3日で癒すなんてこと玲衣の常識ではありえないのに、傷が塞がっているなんてこの世界の魔法はすごい。
ただ急いで塞がなければならなかった関係で、大きく傷も残ってしまうだろうと言われたので、一体家族からはなんと言われてしまうのか、それだけが気がかりだ。レイシウスは溜息をついた。
憂鬱な気持ちを抱えながら、部屋にいる間は起き上がることや歩くなどのリハビリをした。治癒室に長くいるのはあまり居心地が良くない。
3日寝ていただけなので、回復は早く、レイシウスは意識を取り戻して3日目に家に帰れると判断された。
迎えの馬車にはレイシウスの母親が乗っていた。
レイシウスの銀髪とは似つかない赤髪の母親は鼻が高く目もはっきりとした線で、美しい顔をしているがどうしても温かみが無い表情が多い。レイシウスと同じ色の赤い目は、一瞬とても冷たくレイシウスを見据えてくるので、いつもどこか緊張してしまう。
ずっとレイシウスは優しいお母様だと思っていたが、今のレイシウスは違う思いを抱く。今なら解るが、母親はレイシウスを可愛がってなどいない。
「レイシウス。会いに行けなくてごめんなさいね。貴女に会えるのを心待ちにしていたわ」
馬車に乗り込んで、母親が作り物の甘い声と笑顔で言う。わざとらしい態度に胸がざわつくが、レイシウスも笑みを作っておいた。
「お母様、ご心配をおかけしました。私もずっとお会いしたく思っておりましたの」
欲しいものを買い与えてくれる両親。欲しくない物だってたくさんねだった。
今思うとレイシウスも本当は愛されていないと心の深層では気付いていたんじゃないだろうか。冷静に母親を見つめて、レイシウスはそう考える。
「治癒室で嫌なことはなかった? 駄目な人がいたのだったらすぐに言えば良いのよ」
「ありがとう、お母さま」
「……傷が痛むの? 貴女が大人しいと心配だわ」
「違うわ、治癒師に傷が残ると言われて、それがショックですの」
「まあ、痛ましい。もっと腕の良い治癒師に出来る限り薄くしてもらえるようにしましょう」
命に関わりかけた怪我でも、会いには来てくれない母親。傷の心配をしてくれない母親。上等部の狩り場に行ったことを何故かとも聞かない母親。欲しいものだけを与えて、叱る言葉のひとつもくれない、母親。
本当に、今まで見てきた幻想の甘い世界じゃないんだと、改めてレイシウスは思った。
屋敷に帰れば侍女や侍従に出迎えられる。母親とはそこで離れた。
自分を好きでないと解っている人間と一緒に居るのは苦痛だと、体に力を抜きながら思う。息の詰まるようなひと時をすごして、それだけで体のだるさが倍になったように感じる。
「できれば少し休みたいわ。部屋着を用意してくれる?」
「かしこまりました」
朝から治癒室に派遣されて、レイシウスに付いてくれていた侍女にそう頼む。名前は……たぶん前に自己紹介をもらっていたとは思うけれど、なんの記憶もない。かすかにひっかかりもしない。
ただまだ10代前半か中ごろか、位の年齢に、私を押し付けられたんじゃなんてレイシウスは心配してしまう。侍女や執事は両親の所有物だと思っていたので、辞めさせたことが無いのが救いだ。……怒鳴りつけるのは日常茶飯事だったが。
我儘放題なレイシウスのお付きは嫌がられているのは知っているので、あまり関わらないでおこうと決める。
仲良くできれば一番良いのかもしれないが、下手に出て今までのことを謝るなんて出来ない。性格は大きく変化はあるものの、今までのレイシウスの中のプライドだけはそのまま強く残っているのだ。
頭の中でそんなこと気にせず謝りたいと思うのに、想像するだけで不可能だわなんて結論付いてしまう。性格は気の弱い玲衣寄りになったのに、行動が前の奔放なレイシウス寄りになっているなんてどうしようもない。
自分の部屋に入るとホッとするような、初めて入るような気持ちがした。そんなに久しぶりの部屋でもないのに、なんだかすごく懐かしいような気分にもなる。
疲れた気分で部屋着に着替えさせてもらっている時に、部屋の扉がノックされ外側から声をかけられる。
「失礼します。お嬢様、旦那様がお呼びでございます」
「私、もう部屋着に着替えてしまったのだけれど」
「旦那様は構わないとのことです。どうぞ、お早く」
私は構うのだけど。とは口にせず大人しく解ったわ、と返して最低限の身なりを整えてもらった。我儘を言わず、大人しく従うようなレイシウスに一瞬侍女が怪訝な顔をするが、嫌なことは早く終わらせたいんだ、なんて心で吐いた。
「旦那様、レイシウス様がいらっしゃいました」
侍女の後をついて父親の部屋に来た。扉の外側から侍女が声をかけると、父親の部屋に居た執事が扉を開ける。
レイシウスと似た銀髪の父親は、表情が少なく感情が解り難い。まだ30代前半程の父親は、やはり綺麗な顔でパーツはところどころレイシウスと似ている。だが青い目はいつも鈍く光り、何かを計算しているような印象を与える。
「お父様、ただ今帰りました」
「レイシウス。肩の傷は?」
何かを買い与えてくれるけれど、父親だってレイシウスを叱りもしなければ心配もしない。命の危機が終わって帰ってきた娘に送る最初の一言ではないだろうなんてレイシウスは思う。
「もう癒えました。ただ、大きく傷が残るそうで……」
傷が残る、という言葉に父親が眉をしかめた。ため息は大きく、どうしてレイシウスが「優しい両親」と信じ続けられていたのかが解らなくなる。レイシウスは心で中指を父親に立てた。意味はこの世界で玲衣しか知らない。
「……なら、もうお前には魔術しか残されていないな。今まで以上に励みなさい」
有無を言わさないような言葉に、レイシウスは笑いそうになった。少しだけ父親が見せた表情に、やっと本音が見えたような気がした。
今までのレイシウスも父親の言葉には逆らえなかったので、その言葉には悔しそうな顔を見せただけだろう。
レイシウスは高位貴族の令嬢で、長女で、下には妹が一人いるだけ。レイシウスが傷物になった今のままでは、良い縁談は見つかり難くなる。
もうレイシウスは家を継ぐか魔術で功績をあげる他、貴族として何不自由なく生きていくには難しくなったのだ。
父親の言葉は何も間違っていない。自業自得でこんな傷物の令嬢になってしまったのだ、政略結婚での付加価値は大きく減ってしまったことになる。それを自覚させるにも、お灸をすえる意味でも間違っていない言葉だ。
けれど、きっとレイシウスに必要な言葉はそんなものではなかった。今のレイシウスは、父親を冷ややかに見つめた。
何を買い与えられても、レイシウスの心が満たされずに他人に当たっていた意味が、今も少し理解できてしまった。
「お前はカルシア家の者だ、あまりに家に泥を塗る真似はひかえなさい」
その言葉の後、部屋を退出させられた。
親子としての温かみなんてほど遠くて、今までのレイシウスが可哀想にとすら思える。
自分のことを愛していない母親と、家の駒としか思っていない父親。
レイシウスの部屋に戻って部屋を見つめる。石造りの壁に壁掛けがされ、その派手な刺繍に今までのレイシウスの趣味が詰まっている。
絨毯も敷かれ、物であふれた部屋はどこを見ても大金がかかっている。以前のレイシウスが愛されていると、両親の特別な子どもだから与えられた部屋だと思って愛していた部屋だ。
ただ、今はそのすべてが滑稽に思えて仕方ない。
レイシウスは恵まれている。
裕福で才能があって、生きていくのに何の苦労もせずに生きていられる。
それはこの世界でほんの一握りの人間にしか与えられていない贅沢だ。
こんな贅沢で、こんな悩みなんてきっと妬まれるだけに違いない。
でもこの贅沢な世界にレイシウスの本当に欲しいものは何もなかったのだ。
我儘で傲慢なレイシウスはきっと、甘い世界だと思うことでしか生きていけないほど弱くもあったのだと初めて知って。
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