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庶民街の灯り1
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議場の空気は夕刻の鐘を告げてもなお濁っていた。「各家協議会」貴族院とは違い、議事録すら残らない。この国の影の政治が行われる場所だ。
「レオニス殿。庶民保護法案についてだが、我々商家の立場をどれほど考えておられる?」
商家はもう守られているじゃないか。それにそこまで守られることが必要な商家は少ないと思うが。
「”弱者救済”という大義を掲げながら、結局は人気取りではないのかね?」
人気取りでこんなに苦しい思いはしたくない。苦しい思いをしても通したいのは人気取りなんかじゃないからだ。
「若者の理想は結構だが、貴族の責務は”民を守ること”ではなく、”国を存続させること”だ」
国を存続させることは大事だ。当たり前のことだ。でも、庶民だって国の一部だ。庶民を捨てて国を存続させることができるのか?
彼らの刃物のように滑らかで冷たい言葉に、心の中で返答をする。もちろん、必要な返答は口に出すけれど。情けない話だが、私は場を支配はできても、空気までは変えられない。そこまでできるようになるのはいつのことだろう。いや、もしかしたら一生できないのかもしれない。各家協議会の日は貴族院の日よりも気が滅入りがちで、ついマイナス思考になってしまう。
卓上に無言で置かれた一枚の文書。修正案という名の譲歩。大商会の投資利益と保護法案を連動させる項目。それを飲まなければ法案は廃案。飲めば庶民への利益は薄まる。どちらを選んでも血が流れる。ただ、その血が「見えるか、見えないか」だけの違いだ。それでも、廃案になるよりは少しでも庶民の利益になるのであれば良いのか、とも思う。そんな気弱な戦いでいいのか。商家なんてそんなに保護が必要だろうか。つい、そう思ってしまう。侯爵の低い声が耳奥に沈む。
「君は”全部守りたい”と言った。若さゆえの熱情だ。しかし、熱情は人を焼く。いずれ君も思い知るだろう。”守りたいものの順番を決める痛み”を」
私は沈黙で応じるしかなかった。いつの日か私にもそんな日が来るのだろうか。侯爵も若い頃はそんな思いをしたというのだろうか。理想を語れば嘲笑され、怒りを露わにすれば幼稚と断じられる。黙れば呑んだとみなされる。それならどうしたらいいというのか。けれど、それが政治だ。
最後に手渡された契約書を見た瞬間、わかってしまった。今日は勝てない。それでもここで負けるわけにはいかない。まだ、今期は終わらない。それまでは絶対に妥協案にサインしたりはしない。
◇
協議が解散した頃には、太陽はとうに沈んでいた。外に出ると馬車の灯りがぼんやりと複数揺れている。貴族たちは帰路につきながら、それぞれの利益と策を抱えて笑っていた。それを見ながら、私は笑うことなどできなかった。
戦ったのに。
守ったのに。
それなのに胸に残ったのは敗北の輪郭ばかりだ。いくらまだ負けではないとはいえ、不安にはなる。
屋敷へ戻った頃には、疲労が骨の内側にまで沈み込んでいた。このまま書斎に直行して籠もってしまいたい。けれど、朝食はもちろん夕食もタクヤと一緒にダイニングルームでとると約束しているし、屋敷の者にあまり心配ばかりもかけたくない。こんな表情で帰ってくれば、それを見ただけで心配はかけるだろう。それでもこのまま書斎に籠もるよりはマシだろう。それに、タクヤと話すことで慰められることもあるし、気付かされることもある。1人でいるよりも利点が多い。タクヤはまだ若いのに気づきをたくさんくれる存在だし、なにより癒される。だから、今日も着替えたらダイニングルームで食事をとろう。今日は和食だろうか。疲れた日は和食が食べたいと思うようになっている。優しい味だからだ。もちろん、普通の食事だって優しい味はある。けれど、和食の方が心慰められる気がするのは、単に好みの差なのだろうか。
「お帰りなさいませ。旦那様」
帰宅するとニコラスが声をかけてくる。
「ああ、ただいま。今日は和食の日か?」
「はい。夕方からタクヤ様がアベルとともに作っております」
どこからか味噌汁の匂いがする。このスープは私のお気に入りだ。和食だけど、何回も作っているうちに、今はアベルが作るようになったという。アベルは研究熱心だから、きっとどんどん美味しくなっていくだろう。しかし、不思議なことに私が各家協議会で疲れた日は和食の日が多い気がする。気のせいだろうか。いや、タクヤのことだから各家協議会の日を覚えているかもしれない。とても気の利く子だから。
「そうか。楽しみだな。着替える」
「かしこまりました」
ニコラスの表情は多少の心配の色は浮かんでいるけれど、そんなにひどくはない。書斎に籠もった日の翌朝のニコラスの表情は見ていられないほどだ。いや、そんな顔をさせているのは私なのだが。もちろん、タクヤやニコラスさえもどうしても顔を合わせることが辛いときもある。そういうときは書斎に直行して籠もるが、今日はまだ2人と顔をあわせる余裕はあるようだ。それに和食は1人で食べるよりもタクヤと食べる方が美味しい。ちょっとした料理にまつわる話を聞けるから。今日はどんなメニューでどんな話を聞けるだろうか。疲れているけれど、それはほんの少し楽しみだ。
「レオニス殿。庶民保護法案についてだが、我々商家の立場をどれほど考えておられる?」
商家はもう守られているじゃないか。それにそこまで守られることが必要な商家は少ないと思うが。
「”弱者救済”という大義を掲げながら、結局は人気取りではないのかね?」
人気取りでこんなに苦しい思いはしたくない。苦しい思いをしても通したいのは人気取りなんかじゃないからだ。
「若者の理想は結構だが、貴族の責務は”民を守ること”ではなく、”国を存続させること”だ」
国を存続させることは大事だ。当たり前のことだ。でも、庶民だって国の一部だ。庶民を捨てて国を存続させることができるのか?
彼らの刃物のように滑らかで冷たい言葉に、心の中で返答をする。もちろん、必要な返答は口に出すけれど。情けない話だが、私は場を支配はできても、空気までは変えられない。そこまでできるようになるのはいつのことだろう。いや、もしかしたら一生できないのかもしれない。各家協議会の日は貴族院の日よりも気が滅入りがちで、ついマイナス思考になってしまう。
卓上に無言で置かれた一枚の文書。修正案という名の譲歩。大商会の投資利益と保護法案を連動させる項目。それを飲まなければ法案は廃案。飲めば庶民への利益は薄まる。どちらを選んでも血が流れる。ただ、その血が「見えるか、見えないか」だけの違いだ。それでも、廃案になるよりは少しでも庶民の利益になるのであれば良いのか、とも思う。そんな気弱な戦いでいいのか。商家なんてそんなに保護が必要だろうか。つい、そう思ってしまう。侯爵の低い声が耳奥に沈む。
「君は”全部守りたい”と言った。若さゆえの熱情だ。しかし、熱情は人を焼く。いずれ君も思い知るだろう。”守りたいものの順番を決める痛み”を」
私は沈黙で応じるしかなかった。いつの日か私にもそんな日が来るのだろうか。侯爵も若い頃はそんな思いをしたというのだろうか。理想を語れば嘲笑され、怒りを露わにすれば幼稚と断じられる。黙れば呑んだとみなされる。それならどうしたらいいというのか。けれど、それが政治だ。
最後に手渡された契約書を見た瞬間、わかってしまった。今日は勝てない。それでもここで負けるわけにはいかない。まだ、今期は終わらない。それまでは絶対に妥協案にサインしたりはしない。
◇
協議が解散した頃には、太陽はとうに沈んでいた。外に出ると馬車の灯りがぼんやりと複数揺れている。貴族たちは帰路につきながら、それぞれの利益と策を抱えて笑っていた。それを見ながら、私は笑うことなどできなかった。
戦ったのに。
守ったのに。
それなのに胸に残ったのは敗北の輪郭ばかりだ。いくらまだ負けではないとはいえ、不安にはなる。
屋敷へ戻った頃には、疲労が骨の内側にまで沈み込んでいた。このまま書斎に直行して籠もってしまいたい。けれど、朝食はもちろん夕食もタクヤと一緒にダイニングルームでとると約束しているし、屋敷の者にあまり心配ばかりもかけたくない。こんな表情で帰ってくれば、それを見ただけで心配はかけるだろう。それでもこのまま書斎に籠もるよりはマシだろう。それに、タクヤと話すことで慰められることもあるし、気付かされることもある。1人でいるよりも利点が多い。タクヤはまだ若いのに気づきをたくさんくれる存在だし、なにより癒される。だから、今日も着替えたらダイニングルームで食事をとろう。今日は和食だろうか。疲れた日は和食が食べたいと思うようになっている。優しい味だからだ。もちろん、普通の食事だって優しい味はある。けれど、和食の方が心慰められる気がするのは、単に好みの差なのだろうか。
「お帰りなさいませ。旦那様」
帰宅するとニコラスが声をかけてくる。
「ああ、ただいま。今日は和食の日か?」
「はい。夕方からタクヤ様がアベルとともに作っております」
どこからか味噌汁の匂いがする。このスープは私のお気に入りだ。和食だけど、何回も作っているうちに、今はアベルが作るようになったという。アベルは研究熱心だから、きっとどんどん美味しくなっていくだろう。しかし、不思議なことに私が各家協議会で疲れた日は和食の日が多い気がする。気のせいだろうか。いや、タクヤのことだから各家協議会の日を覚えているかもしれない。とても気の利く子だから。
「そうか。楽しみだな。着替える」
「かしこまりました」
ニコラスの表情は多少の心配の色は浮かんでいるけれど、そんなにひどくはない。書斎に籠もった日の翌朝のニコラスの表情は見ていられないほどだ。いや、そんな顔をさせているのは私なのだが。もちろん、タクヤやニコラスさえもどうしても顔を合わせることが辛いときもある。そういうときは書斎に直行して籠もるが、今日はまだ2人と顔をあわせる余裕はあるようだ。それに和食は1人で食べるよりもタクヤと食べる方が美味しい。ちょっとした料理にまつわる話を聞けるから。今日はどんなメニューでどんな話を聞けるだろうか。疲れているけれど、それはほんの少し楽しみだ。
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