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覚醒

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 闘いの始まりから既に常人の域など、とうに過ぎ去り、満月が中天に座する程に、膨大なまでの時間が経っていた。

 にも関わらず、屈強なる鬼人達の闘いは尚も続行され、闘技場の中央には夥しいまでの流血が地面を染めている。

 最初のうちは嬉々とした表情で、己の内から溢れ出る高揚感に身を任せ、心底からの歓声をあげていた観客。

 しかしながら、視界に入れることさえ憚られる程に、残酷なまでに打ち据えられるフウガの惨状を前にして、その姿勢は既に失われていた。

 観客席にあるのは、自分達の目の前でただ淡々と繰り広げられる死闘を前にして、必死にその無情なる光景から目を逸らす人々のみであった。

 無論それはユキとて例外ではなく、先程まで披露していた踊りも現在に至っては静止して、眼前で闘い続ける二人の姿を気遣わしげな瞳で見つめていた。

 彼女と同様に応援していた少女達も、恐怖から身体を硬直させて、既に眼前で行われている決闘を前にして高揚を覚えている者はいなかった。

 怯えている少女達の中には当然氷華の姿もあり、満身創痍で己の血に塗れたフウガの姿を目の当たりにした彼女は、無意識から肩を震わせていた。

 己が思いを寄せていたユキを手中へと納めるために、鬼人族において最強の名を冠する龍鬼へと、堂々とした立ち振る舞いで、宣戦布告を果たして見せたフウガ。

 そんな生まれついての強者たる彼が放つ打撃の悉くをいなされて、地面へと叩き伏せられて、打ちのめされる姿に歓喜を覚えていた。

 しかしそれも最初のうちだけであり、時が経つにつれて傷を増やし、致命傷をおった現在に至っては、心の内から溢れ出る情動のままに、フウガの無事を祈っていた。

 肉体での情交を交わした男であるフウガに対しての情が生まれるのは女として、当然の本能が生じさせた感情である。

 それ即ち、自らの男としての矜持を貶めていることに気付き得ない必死な氷華の足が、一歩前へと踏み出された。

「‥ぁ」

 しかしながら、地に伏せていたフウガが再度屈することなく立ち上がり、勇猛果敢にも龍鬼へと挑みかかる姿を目の当たりにして、身を硬直させる。

 その様は正に、鬼神もかくやの壮絶なまでの形相で、氷華のか弱い精神を萎縮させるには充分な威圧感であった。

 鬼神の如き気炎を立ち昇らせて、龍鬼へと毅然とした立ち振る舞いで対峙する姿は、思わず魅入られてしまう程に美しい。

 その光景に見惚れてしまう氷華であったが、次の瞬間には龍鬼によって振り抜かれた剛腕の拳により吹き飛ばされたフウガを前にして我に帰る彼女。

 幾度となく暴虐無慈悲な拳の、竜巻の如き鋭い打撃に抉り抜かれて吹き飛ばされるフウガであったが、その度に不屈の精神を見せつけて立ち上がる。

 そんな彼の様子を前にして、この闘技場の誰もが身動きひとつ取れずに、この死闘に魅入られてしまっていた。

 だが、その中で唯一の例外として存在しているユキは、既にフウガの肉体が限界を迎えており、最早不屈の意識だけで身を動かしていることを正確に理解していた。

 だからこそ、再びフウガが龍鬼の拳によって撃ち抜かれ、吹き飛ばされて夥しい程の量の吐血を見せた時には、自然と彼女の身体は動き出していた。

「お父様ッ、それ以上をしてしまえば、彼は死んでしまいますッ!」

 壇上から闘技場の中央へと躍り出て、フウガを背に守る様にして、龍鬼の前へと立ち塞がるユキである。

「‥ユキ、この決闘を止めることの意味を理解しているのか?この男は己の命を賭して俺に決闘を挑んだのだ。それをここで中断して、あまつさえ情けをかけるなど、フウガへの侮辱に他ならぬ」

 そんな健気にもフウガを庇う様に必死に叫ぶユキを見下ろして、圧迫感の伴う威厳漂う低い声音で一蹴する。

「‥それはわたしとて理解しています‥。ですが、命は何より大切な、尊ばれるものであるはずです。もしも彼を殺すのであれば、ユキはお父様を、お恨みいたします」

 遥か頭上から見下ろされて、遅いくる威圧感に気圧されながらも、自らの父を毅然とした立ち振る舞いで仰ぎ見るユキ。

「‥そうか」

 しかしながら、身を硬直させて、自信を襲いくる緊張から、球になった涙を眦へと浮かべている彼女の姿を目の当たりにした龍鬼は、緩慢な動作で闘いの構えを解いた。

 鷹揚に頷いて見せた彼は静かに拳を降ろし、眼前へと佇むユキの頭を、大きくて無骨な血まみれの掌で撫でた。

 その動作から、我が娘を想う慈愛に満ち溢れた優しげな感情が垣間見え、されるがままに身を硬直させていたユキは、ようやく我へと帰る。

「‥急ぎフウガ様の治療を‥」

 焦燥にも似た感情を胸の内に抱き、平素の楚々とした立ち振る舞いとは対称的な、酷く慌てた様子で、フウガへと駆け寄った。

「‥うそ‥」

 痛々しいまでの致命傷を負って尚両の足で佇んでいる彼の意識は既に消失して、最早どの様にして、立っているのかがわからなかった。

 慈愛さえ滲み出る程の、丁寧でいて優しげな動作でフウガを地面へと寝かせたユキは、闘技場の端にてことの成り行きを見守っていた審判に声をかける。

「彼にもう戦うことはできません」

 満身創痍な程に深く傷付いたフウガの肉体の具合を、視線を落として確かめるユキは、悲痛な面持ちを浮かべて、一言だけ述べて見せた。

「しょ、勝者、鬼人族最強の名を冠する男、龍鬼ッ!!!!」

 簡潔に伝えられた言葉を受け止めた審判の男は、ユキの翳りを帯びた美しいかんばせに見惚れてしまったものの、即座に大声で宣言する。

 静寂が包み込む闘技場内全体に響き渡り木霊する、審判の男の言葉を聞き届けた観客席に座る人々は、一泊の間を置いた後に、唐突に立ち上がり─

 ぅぉおおおおおおおおおおおッッッ!!!!

 まるで落雷が轟いたかの如き歓声が闘技場内を満たし、熱狂に支配された人々の拍手喝采が龍鬼へと贈られる。

「フウガ様っ、死んではいけませんっ」

 身体に満ち溢れる高揚感に身を任せる観客の人々とは対照的な様子で、沈痛な面持ちを浮かべたユキの眦から大粒の涙が溢れ出た。

 悲痛に歪められた怜悧な美貌が、酷く痛々しく、あまりに憐憫を誘う光景に、それまで興奮した面持ちで、拍手をしていた人々が静まり返る。

 純白の美しい頬を伝い濡らす感触すら気に留めず、ユキの手のひらはフウガの患部へと重ねられた。

 赤黒い傷口へと被せられた純白の柔肌から、突如として溢れ出た、白金の輝きがフウガの肉体を包み込む。

 眩いばかりの摩訶不思議なる神秘的なまでの輝きに当てられた観客の人々は、まるでその光に魅入られてしまったかの様に視線を集わせる。

 目の前で起きた幻想的な光景に意識を惹きつけられてしまった彼等は、否が応にも目の当たりにすることとなる。

 月夜に輝く月光の如き美しく、艶やかな輝きを放つユキの長髪の毛先から、僅かばかりに色を変えていることに。

「‥ユキか?‥ははっ、こんな無様な姿を見せてしまってすまない。‥この傷ではもう助からない。‥だからもう‥」

 己の肉体を包み込む暖かな光の、まるでぬるま湯に浸かる様な心地良い感覚に目を覚すフウガは、覚束ない口調で言葉を重ねる。

「ユキ‥君には本当に酷いことをした。弱味につけ込んで‥、そして、本気で惚れてしまった。‥それでこの様だ‥」

 己の伝えるべき後悔の念を語り終えたフウガは、最早それ以上の無様を晒すことなく口を噤む。

「それはっ‥わたしとて同じですっ!わたしも寂しくて、一人が耐えられなくて、貴方様の優しさに縋ってしまいました。‥だから、次はわたしがあなたを助ける番です」

 最早これ以上の生き恥を晒すことがない様に、緩慢に瞼を閉じてゆくフウガの言葉を、幾度も首を左右に振って否定するユキ。

 平素からは凡そ想像もできない程に取り乱す様子を見せている彼女は、絶叫にも近しい悲痛な声音で決意に満ちた言葉を叫ぶ。

 毅然と引き締められた美しいかんばせには、必死な形相ながらも、凛々しい雰囲気が発せられている。

 その光景を眺めている観客は、目の前で繰り広げられている悲劇に対して、思わず固唾を飲み下した。

「どうしてっ!どうして治らないのっ!」

 自らの修復の術を行使して暫く、懸命にもフウガの傍らへと寄り添っていたユキは、まるで身焦がす様な焦燥に悲鳴染みた言葉を叫ぶ。

「いいえ‥必ずわたしが救ってみせるッ!!」

 しかしながら、これまでのフウガとの仮初の関係を想起して、弱音を吐いた自らを叱咤するユキは、毅然とした凛々しい面持ちを浮かべて吠えてみせた。

 彼女はフウガとの慰め合うだけの偽りの関係を思い出し、自らの唇を血の赤が滲むまで、強く噛み締める

 欺瞞に満ちた背徳だけがある、ただひたすらに快楽に溺れる為の行為を繰り返し、孤独を紛らわせるための繋がりだった。

 だが、悲しみに染まり、心底から自らを嫌悪して限界を迎えた時に傍らに居てくれたのはフウガであった。

「主様ッ!どうかわたしに御加護をッ!」

 そうして、脳裏に去来した、自らが彼と共に過ごした時間を改めて認識した瞬間、ユキの肉体に、形容し難い程の、強烈な魔力の奔流が駆け巡る。

 身から溢れ出るまでに至る膨大な白金の魔力が、傍のフウガの肉体を包み込み、徐々にその輝きを強めていく。

 闘技場全体へと迸り、辺り一体までをも覆い尽くさんばかりに広がった白金(プラチナ)の輝きは、人々を包み込み、漆黒の夜闇を照らす。

 瞬時に視界一杯を染める眩いばかりの輝きが満たし、それが徐々に失われて、世界が暗闇を取り戻していく。

 そして、再びの夜闇が世界を支配した時、順応を果たした視界へと、フウガの肉体が再度納められた。

 涙に濡れて潤んだユキの瞳が向けられている、フウガの肉体は、先程の重体の容態とは異なり、いつの間にか修復を果たしていた。

「‥ユキ」

 それが自らが成した奇跡である事への理解へと至る瞬間、瞼を開いたフウガの、確かな力強い言葉がユキへと与えられた。

「‥よかった‥です。ほんとうに‥あなたが生きていてくれて‥」

 彼の自らを呼ぶ声を聞き届けた彼女は、凛とした切長の眦からポロポロと涙を零し、フウガの顔を覗き込む。

「‥その髪、‥いや、そうか‥俺はまた君に助けられたのか‥」

 再び目を覚まして生き永らえたことへ、即座に理解へと至るフウガは、己の視界に映る、白金の輝きを放つユキを静かに見つめた。

「ありがとう」

 そして、万感の意が込められた、心底からの感謝の言葉を贈るフウガの手のひらが、ユキの頭へと伸びて、優しく慈愛に満ちた動作で撫でた。

 漆黒の髪色から、白金に輝く美しい長髪へと変貌したユキの容姿について言及することなく、未だ大粒の涙をこぼすユキと視線を交わし続けた。

 フウガの無事な姿を確認して、確かな彼の生命繋いだことへの理解へと至るユキは、胸の中を満たす安堵感に美しい微笑を称え、呆気なく意識を手放した。

 フウガ肉体の熱を肌身で感じたことにより、緊張の糸が切れた彼女の身体から力が抜けて、その身は頽れる様にして倒れ伏す。

 しかしながら地面へとその身が至る前に、いつの間にか傍へと控えていた龍鬼の腕がユキを抱きとめた。

 未だ地面から身を起こすことすらままならないフウガは、その光景を眺めていることしかできない己に歯嚙みする。

 だが、それも一瞬の羨望で、即座に遅いくる強烈な疲労感に、朦朧とした意識は限界を迎えていた。

「‥ユキをお願いします」

 なんとか最後の気力を振り絞り、眼前でユキを抱き締め龍鬼の姿を、力強く見据えて、口を開く。

「ああ」

 ただひたすらにユキの身を案じてのその言葉に対して、その意味を咀嚼する前に反射的に、その身を動かしていた龍鬼。

 先程まで憎悪に似た感情さえ向けていた敵にさえ、己が想い人の身を預けることができる潔いフウガの精神は感嘆に値する。

 それ程までに高潔な精神性を露わとした、神聖なまでの望みを願うフウガに対して敬意の込められた眼差しを向ける龍鬼。

 限界まで肉体を酷使して、尋常ではない程に疲弊しているフウガが未だ意識を保てていることは驚嘆すべき事柄だ。

 だからこその彼が示した、崇高なまでの、そのユキへの想いの強さを理解して、先程まで死闘を演じていた龍鬼とて認めざるを得なかった。

 己が娘をここまで追い詰めた至らない己を責める龍鬼は、強烈なまでの後悔の念を抱くと共に、初めてフウガを好敵手として認識した瞬間であった。

「‥よかった」

 ユキと同様に意識を手放す寸前、揺らぎない静かな瞳で己を見下ろす龍鬼へと言葉を残したフウガは、穏やかに瞼を閉じる。

 心底から託した想いを真正面から受け止めて力強く頷いて見せた龍鬼の、己よりも遥かに頼もしく感じられる姿を瞼の裏に焼き付けたフウガは、口元を緩ませて爽やかな笑みを浮かべた。

 先程の死に瀕した状況とは異なり、視界を支配する暗闇に対して何ら恐怖を抱くことはなく、寧ろ肉体を寄り添う様に身を包む安堵感に身を任せて、眠りへと意識を預けたのであった。
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