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悪友

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 時を同じくして変わらず同所にて、ペタンと地面へと尻もちをつき、まるで年幼い少女の様に、女の子座りを晒す彼女からは最早人目に構った様子は見受けられない。

 観衆の視線を憚ることなく、茫然と瞳を見開き、壇上の二人を仰ぎ見る姿からは、その儚い美貌も相まって庇護欲すら唆られる光景だ。

 内股となりその場に崩れ落ちた氷華の姿を目の当たりとして、不意に声をかける者の姿が見受けられた。

「お嬢さん、こんな所でどうしたのかね?」

 唐突に与えられた言葉に対し、自ずと氷華の視線が向けられた先に佇んでいたのは、だれかも知れない年配の男。

 夜闇に紛れて見受けられる上半身からは、表情こそ窺えないまでも、その醜悪な下心が透けて見える声色からは、邪悪な本性が垣間見て取れる。

「モンド先生‥」

 しかしながら瞳を細めて殊更に目を凝らした氷華は、自らの眼前に佇む相手の正体を、正確に看破するに至る。

 彼のあまりにもよろしくない造りの顔面を目の当たりとした氷華は、それだけ生理的な嫌悪を覚えた次第である。

 曲がりなりにも良心から声をかけた風に善人を装っている中年男に対し、酷く残酷極まるあんまりな態度であった。

 だがそれもこれも、彼の顔面事情が訴る、不細工具合が災いしての不条理が所以。

 脂肪に覆われた醜悪なその肉体を視界へと納めた氷華の、無常にも抱いた寸感こそ、露呈されることはないものの、その心中はなんら穏やかでない。

 その類稀なる美貌が歪み、顰められている表情から察するに、この男の遺伝子だけは何が何でも絶対に残してなるものか、と言った所。

 そんな氷華の胸中にて呟かれた感慨を、無常なる罵倒での残酷極まる仕打ちなど、知る由もない彼である。

 殊更に不細工に厳しい彼女の本心などいざ知らず、勢い勇んで声をかけた男こそ、この村の学園が誇る、嫌われ者の教師筆頭。

 そう、絶望にうちひしがれ、儚き絶世の美貌晒していた氷華へと声を掛けるに至った身の程知らずな男。

 その人物こそ、何を隠そうユキ達と同様の学園へと、その身を在籍させている愚者。

 その男の本性を知り及んでいる者は、皆軽蔑の意を込めて、この様にして呼んでいる。

 豚のモンド、と。

 この蔑称を名付けられるに至ったのは、一重に彼の取る行動が、殊更に残飯を漁る畜生に酷似していることが所以。

 だが、昨今ではその畜生にも劣る行為が判明し、噂となった生徒間の話題では、まことしやかにその、疑わしい人間性を囁かれているそうな。

 落ち込んでいる女生徒へと善人面をして近付いた挙げ句、更に傷付けることと相なっての、最終的には悪評を広められるという、奇跡の複合を成し遂げたことに起因していた。

 あまりに惨めで、最低極まる由来を、己の異名に併せ持つモンドであるが人並みに尊厳は持ち合わせている。

 否、寧ろその満ち溢れんばかりの強烈な自己愛は、他者の追随を許さぬ程殊更に、強大であった。

 その様にして甚だ遺憾ながらに、本人の望まない異名が付けられるに至ったのには、流石の彼とて不本意に感じている様である。

 しかしながら、なんら改善する余地すら見受けられない彼を鑑みるに、未だ訪れぬ汚名返上の機会は永遠に失われて見て取れる。

 暫し生徒等の親の交わす雑談の中でも槍玉として、悪名高いその異名が話題にて挙げられる程に有名人な、頭髪と共に老い先短い彼である。

 生来の気の弱さと、あまりに沸点の低い癇癪持ちが相成って、その寿命を自ら減らしているモンドであった。

 だからこそ今日も今日とて、意気揚々と迷える少女の物色を行いにこの場へと居合わせている次第であった。

 樽の様にでっぷりと脂肪を携えた身を揺らし、豊かな下っ腹を景気良く叩いての声掛けである。

 豊かな腹肉を打ち付ける、太鼓腹ならではの、腹の奥底へと響き渡る様な、重低音が奏でられた。

 醜い脂肪の塊から繰り出される、低音の調べは見事に氷華の耳へと聞き届けられ、殊更に彼女の美貌を歪ませる。

 無論彼女とて、目の前の相手の悪評など、幾度となく聞き及んでいた次第である。

 だからこそ、生理的嫌悪により硬直した肉体に鞭打って、反射的に生じた敵意から身構える。

 自らを邪悪な満面の笑みを浮かべて見下ろすモンドの姿を、警戒心も露わに注視する氷華。

 余分に超えた肉体の脂肪を弾ませて、一見して人の良さそうな笑みを称えての、不快極まる男。

 幼馴染を自らよりも遥かに優れた屈強な雄に奪い去られた絶望に打ちひしがれていた氷華。

 挙げ句の果てに、そこに追い打ちをかけるかの如く、例によって件の豚のモンドである彼の再来であった。

 醜悪極まる中年の、その樽の如き見苦しく肥えたに脂肪に覆われた肉体の内へと秘めたる邪悪な欲望を解放せんとする彼である。

 勢い込み満を辞して、その醜悪なる獣欲がありありと透けて見受けられる、モンドの御登場であった。

 誰よりも俗物であり物見高い彼は、日々の学園での生活を送るにあたり与えられる鬱憤を発散すべく、この婚礼の儀式へと訪れた次第である。

 積み重ねられた疲労を癒すべくして赴いたこの場で際しては、不意に視界の端へと捉えた氷華の姿を確認し狂喜乱舞。

 本人曰く、更なる労働を強制されてしまうが、名門の学園へと籍を置く以上、教師としての責務を果たさねばならないのも致し方無し、といった具合だろうか。

 自身のこれから成す行いに対し、腐り切った胸中にて言い訳を並べ立てた彼は、その様な寸感を抱いた次第である。

 そして、さもありなん、とでも言わんばかりに、未だ涙すら流していない塩梅の氷華であるにも関わらず、次期早々と彼女の元へと歩を進めるモンド。

 意気揚々とした立ち振る舞いでもって、氷華の傍へと佇んでいる彼は、どこの馬とも知れぬ輩に邪魔されぬうちに早々に甘言を囁いて見せたのであった。

 平素から学園にて無様な姿が見受けられる彼であるにも関わらず、事ここに至り、存分に気障な言葉を吐き出して見せる彼である。

 絶好の機会を与えられた彼は、この状況を受けて、日々の繰り返される失態から受ける惨めな印象の払拭を試みるモンド。

 教師という立場に甘んじて、公権を振りかざす学園での行いからは、似ても似つかぬ立ち振る舞いであった。

 しかし当然ながら、慣れない行いの代償として無様にも彼の上擦った声色からは、多分に含まれる邪な目論みが垣間見て取れる。

 愚かしくも己の邪悪極まる欲望を発散させる腹積りでいるモンドであった。

 醜悪な欲望の赴くままに己の下半身へと血を巡らせた彼は、湧き上がる強烈な衝動に身を委ね、氷華へと手を伸ばす。

 儚い美貌に茫然とした表情を称えた少女へと、醜悪な巨漢の魔の手が迫り来る。

 抵抗を示さない氷華の姿を目の当たりたモンドは、でっぷりと贅肉で弛んだ浅黒い頬肉を吊り上げる。

 あまりに己に都合が良い事態に対し、喉奥から溢れる高笑いを抑えきれない彼である。

 だるんだるんに見苦しくも、首回りにこさえた支えきれなくなった皮下脂肪が、二重顎を引き起こしている。

 同様に醜く膨らんだ、大いに柔らかな弾みを見せている下腹部に蓄えた腹肉を、殊更に揺らして見受けられる。

 そうして観衆の目を、なんら憚る事なく事に及ぼうと試みたモンドの愚かしい動作に対し、待ったを掛ける者の声が轟いた。

「待てッ」

 力強い静止の言葉をかけられたモンドの血走った眼差しを受けて尚、なんら意に解する事なく更なる追い討ちをかける大柄な、岩男の如き体格を誇る男。

「貴様‥教師の身であるにも関わらず、学園の生徒に手を出すなど万死に値する」

 本来であれば場を異にしていてもなんら不自然ではない、自らの悪友の姿を目の当たりとして、驚愕に瞳を見開く氷華である。

 ユキと龍鬼の婚礼の儀式を行うに当たり、この場へと赴いた氷華。

 そんな彼女は、自らの級友等を避けるべくして、当然ながらにマサの姿も、同所へと訪れていた事実を確認していた。

 しかしながら、早々に踵を返しこの場を後とする彼の様子を見計らい、安堵のため息を溢していた次第であった氷華である。

 当初は、自らがおめおめと、自身が懸想していた相手を奪われてしまう姿を、悪友のマサに目撃されるのは、なんとしてでも避けるべく動いた氷華であったのだ。

 そんな彼女だからこそ、自身の窮地に駆けつけたマサの存在を目の当たりとしては、驚愕も一入だろうか。

 級友等を同所にて残し、一人姿を夜闇へと消したマサを視界に納め、確かに確認した氷華であるから、何故に彼がこの場へと居合わせてしまったのかを理解できない。

 彼女の巡らせている思考の通り、本来この様な俗物的な政に対し、なんら関心を示さないマサである。

 寧ろ嫌悪を覚えている節さえ見受けられる彼であるが、今回ばかりは、思う所を異にして見て取れる。

 前回大々的に開催された武闘会にて、チアガール姿の氷華を確認したマサは、彼女との再開を果たすべく同所へと赴いた次第であった。

 勇ましくも勢い込んで、婚礼の儀の会場となるこの場へと足を運んだ彼である。

 しかしながら、己が通う学園の級友等も場を共にしていたために、あまりの人々の喧騒から氷華の姿を視界に捉えるには至らなかった。

 だが、ようやっとその眼中へと納めた氷華は、地面へと内股にて座り込み、無様を晒していた次第である。

 そんな氷華の可愛らしい姿を目の当たりとしたマサは、多分に庇護欲を誘う彼女の美貌から発せられている色香に息を呑む。

 一瞬の逡巡の後に、自然と己の衝動から突き動かされるがままに彼女の元へと赴いた訳である。

 そうして、観衆の只中とあって、殊更に喧騒が騒がしい雑踏の中を縫う様にして、額に汗描きこの場へと馳せ参じたマサであった。

「なッ、私がその様な邪な事に及ぶなどあり得んわッ。わ、私はただ大人として、彼女を保護しようとしていただけだッ」

 思いがけないマサからの追及に不意を打たれ、些かの動揺を露わとしたモンドであったが、即座に声も高らかに取り繕ってみせる。

 伊達に常日頃から学園の生徒に対し、教師という立場に甘んじて、幅を利かせていない。

 昨今では、長年居座ってきた地位に物を言わせての、横暴な態度が目立って見受けられる彼である。

 学園でこそごく一部の者に対してこそ勢いづくことができる彼であるが、この場に置いてはその限りではない。

 中年を迎えて久しい彼は、そろそろ初老へと差し掛かる頃合い。

 だからこそ、己の満たされることのない欲望を癒すべくして、大いに出会いを求めていた次第であった。

 己の勤め先である学園の生徒との交際を目論み、結婚まで至ることだけが、彼の切実なる唯一無二の想いである。

 現在に至るまでに、碌な目に遭ってこなかったが故に老年に差し掛かった末に願う、これまでの世知辛い人生における最後の希望。

 本人曰く、もしかすれば己よりも二回り、或いはそれ以上の若い生徒と、肉体を重ねることができるやもしれぬ。

 そんな彼の先程まで胸中へと抱いていた寸感は、マサと対峙することと相なったことここに至っては、失われて見て取れる。

 無駄に重ねたその年の功に比例する様にして、後戻りができない程に肥大化した自尊心だけが彼の取り柄である。

 それも平素から、自らよりも目上の立場の者に対し、並べ立てている言い訳が功を奏しての返答であった。

 普段よりその様な立ち振る舞いを心掛けている彼だけが成せる、幾分か神がかって見て取れる芸当だろうか。

 だが─

「そうか、それは失礼した。であれば後は任せてくれ。彼女も友人であり、気心が知れている俺の方が安心するだろう」

 その様な神業と称してなんら差し支えない彼の言葉を受けたマサは、その精悍な顔立ちを微動だにさせることなく応じてみせる。

 まるで機先を制するかの如く、彼の繰り出した提案は、意図せずしてモンドの並べ立てた言い分を逆手に取る様な内容である。

 今回ばかりは平素とは状況が異なり、モンドのよく回る二枚舌も、マサと対峙しては部が悪く見受けられる。

 そう、何を隠そうモンドと相対するマサという人物は、欲深い俗物の権力者という性質の悪い者を、誰よりも殊更に嫌っていた。

 特に、平気な顔をして自らよりも弱い立場の者に対し、公権を振りかざす様な、中途半端な立ち振る舞いを見せる小物。

 そんな俗物を絵に描いた様な典型的な悪人に対し、並々ならぬ強烈な軽蔑の念を抱いていた。

 それは正に、現在進行形にて眼前へと寄るべもなく、処なさげに佇み、内心では心中穏やかでないモンドを形容しての事柄だろう。

 否、心底から憎悪していると称しても、なんら差し支えない程に、平素より彼へと侮蔑の眼差しを向けていたマサである。

 だからこそ、不運にもモンドの言い分は聞き届けられない事態へと陥っている次第であった。

 まさか学園の大半からの反感を、己が一身に受けているとは思わない彼である。

 常日頃から見受けられる横暴な立ち振る舞いから鑑みて、忌み嫌われている事態、なんら不自然ではない顛末である。

 しかしながら、なんら自らを顧みることのないモンドには、その様な生徒の機微に対し、皆目検討もつかなかった。

 凡そ自らよりも目上の立場の者に対してだけ、殊更に効果を発揮されて見て取れる彼の詐術は、眼前のマサを相手としてはその限りではない。

 その様な事情を知る由もないモンドは、思いがけない彼の申し出に対し虚を突かれ、些か狼狽した様子で続く言葉を失った。

 先程、微塵も思っていない様な、心にもない言葉の内容を、声高らかに語り、吠えてみせた手前、その宣言を撤回するわけにはいかなかった。

 一度吐いた言葉を覆す様な惨めな姿を、己より遥かに若造であるマサに対し、無様にも晒すことは悪手以外の何物でもない。

 訂正するにしても、現在の彼では巡らせている思考にも、些かの鈍りが垣間見て取れる。

 それ故二の句を告げることが叶わない彼は、言葉を紡ぐことさえままならずに俯き、押し黙る他にない。

 図らずとも眼前に対峙する醜悪なる俗物へと、有効だとなる最善の手を打つことができたマサである。

 完膚なきまでにモンドの言い分を封殺して見せたマサは、至極真剣な面持ちで氷華を見下ろした。

 これ幸いといった具合の態度で、未だ地面へと座り込み、己を仰ぎ見る氷華へと、その無骨な手を差し伸べる彼である。

「マサ‥」

 そんな毅然とした立ち振る舞いを見せている彼から与えられた、ゴツゴツとした無骨な掌を眼前にした氷華は、自ずと媚びた様な甘い囁きを零す。

 甘える様にして差し伸べられた掌へと自らの五指を重ねた彼女は、身体の奥底から湧き上がる様にして、湯水の如く満ち溢れる情動に身を任せる。

 強烈な衝動に突き動かされる氷華は、自らの下腹部から与えられた甘い疼きに身を委ね、本能の赴くがままにマサへとしなだれかかる。

 従順にも身を預けてくる氷華の豊満な肢体の柔らかな感触に対し、幾分か動揺を示すマサである。

 しかしながらそれも刹那の合間であり、次の瞬間には平静を取り戻し、氷華の小柄な身体を抱き寄せる。

 間髪入れずに、威風堂々とした立ち振る舞いで佇むマサに対し、縋りついてくる氷華。

 マサの身の丈より遥かに華奢な矮躯でありながら、むっちりとした肉付きの良い彼女の肉体が見て取れる。

 多分に女性的な魅力に満ち溢れた豊満な氷華の肢体を受け止めたマサは、眼光も鋭くモンドを射貫く。

「まだ何か用が?」

 逞しい腕の中に氷華を抱く姿を見せつけての、幾分か威力的な物言いの伴う、モンドへの牽制である。

 対してそんな威圧感に晒され、これを受けた者からすればたまったものではなかった。

 彼は殊更に気圧された、無様な姿を晒すと共に、自らの足を一歩、恐れる様にして後退させた。

 明らかに肩を縮こまらせ、萎縮して見受けられるモンドの姿を目の当たとしては、続くマサの声量も大きくなる。

「まさか先程の言葉を撤回するつもりではなかろうな」

 自然と厳しい声色で凄んでみせるマサの問いかけに対し、ビクリと大きく肩を震わせるモンド。

 まるで機先を制するが如く先手を打つ様にして、繰り出されたマサの圧迫感の伴う物言い。

 絶賛怯んで見て取れ、恐縮して窺えるモンドは、幾度となく口を開閉して言葉を捻り出すことを試みる。

 しかしながら、平静ではなく、幾分か混乱して見受けられる彼の思考は、平素よりも鈍って見受けられる彼であった。

 難事に際しては、言い訳を思いつくことにかけて他者の追随を許さぬ程に圧倒的なまでの能力を発揮する彼であるが、想定外の事態に対しては滅法弱かった。

 幾ら思考を巡らせても、普段通りに続く上手い言葉を並べ立てることができないモンドは、遂にこの場での舌戦を放棄する。

「そんな筈はなかろうッ。そうかそうか確かに君達は友人の間柄であったなっ。いやー、良かったよかった。これからはあまり人様に心配をかける様な真似は控える様に。以上だ。それともうすぐ深夜だからな。くれぐれも夜道に気をつけるんだな」

 突然饒舌にその二枚舌を動かして語って見せた彼は、真正面に対峙していたマサに何を言わせることもなく、一方的に捲し立てた。

 そんな唐突にも、先程の萎縮した姿とは一転、様子を豹変させた彼から一息に語られた内容に怪訝な面持ちをみせるマサである。

 訝しげな眼差しを相対するモンドへと浴びせ掛け、睨みを効かせると共に、言葉にて釘を刺すべくして、追い討ちを掛けようとしたマサであったのだが、しかし─

「ああ、それは言われるまでもないが─」

「いや~ッ、奇遇であったな。それでは私はこれで失礼させてもらう」

 彼に続く言葉を語らせることもなく、間髪入れずに自身だけは言いたいことを言い切ると共に、早々にこの場からの遁走を図るモンドである。

 それはもう、狩人に狙われた兎もかくやといった具合に、感嘆すべき見事なる逃げっぷりである。

 柔らかにたわむ弾力的な下っ腹を一生懸命に揺らし、必死に短い足を前へと進ませる姿は、何処か迫力さえ伴って見受けられる。

 しかしながら、遠目に観察してみると、彼の後ろ姿は何処か面白おかしく映る光景だろうか。

 醜悪に見て取れる程に脂肪を蓄えて見受けられる、丸々と太った肉体から生やした短足をもつれさせ、必死に精一杯な様子で駆ける姿は、酷く滑稽だ。

 それに対し、一瞬なりとも気圧されてしまったマサは思いがけず、無様にもモンドを取り逃す。

 無論即座に後を追えば、なんら労力をかけることもなく刹那の瞬間に、その身を打捕するに至らせることも可能であっただろう。

 しかしながら早々に、人々の喧騒入り混じる雑踏の中へと姿を消してしまったモンドの背中を見送る羽目と相成ってしまった手前、最早追い掛ける事自体が不可能と相成った。

 そして、マサという強大な存在に対し、捕縛の合間の隙を与えなかったのが、殊更にモンドの悪運の強さを証明している。

 その華麗なる遁走でもってして、これまでに自らに襲いくる理不尽な脅威から身を守ってきた、彼なりの処世術であった。

 この人集りの只中とあっては、幾らマサが屈強な肉体を誇るとはいえ、小柄なモンドを標的としては、その獲物を視界に捉えることさえ叶うまい。

 呆気に取られる程に潔く、この場からの戦略的な撤退の決断を下した彼へと、一応の軽蔑の念を送るマサである。

 本人曰く、再度同様の事態へと鉢合わせた場合次はない、と言った所だろうか。

 その様な感慨を胸の内に刻み込んだマサは、己の心中へと抱いた、そんなあまりにも馬鹿らしくも、巡らせていた思考を振り払う。

 見据えていた雑踏から視線を外した彼は、己に縋り付く様にして身を侍らせる氷華を見下ろした。

「平気か?」

 先程彼女の眼前で、あの様な啖呵をきって見せた手前、意外にも面倒見が良いマサは、気遣わしげな様子で声をかける。

 平素から冷めた表情が見受けられる彼は、自身を取り巻く周囲の環境に対し、殊更に穿った価値観を抱いている。

 常日頃から多分に皮肉屋な所が目立って見受けられ、時に級友から反感を買うこともしばしばといった具合。

 しかしながらそれは、未だ成人も迎えていない、多感なお年頃とあっては、致し方なしと言えるだろう。

 同性に対してこの有様なのだから無論、彼のこれまでの生における異性との交流経験は、皆無である。

 殊更に不慣れな性別を異にしている少女との触れ合いは、彼の生来の不器用な性質から敬遠されていた。

 それ故、この村においては、今時珍しい限りの非常に特殊な、女性経験がない鬼人族の希少な個体となっている。

 岩男の如く屈強な、強靭なる肉体を誇る彼であるが、その身に見合わず異性に対しての対人能力は滅法脆弱であった。

 そんな彼がこの様にして他人に対し、気を払う殊勝な立ち振る舞いを見せるなど、殊更に稀有な光景である。

 普段の不器用な彼の性質を、長年共に過ごした経験から、嫌と言うほどに熟知している氷華であるからして、驚愕も一入だろうか。

 だからだろう、不意に胸中へと生じた衝撃から、自ずと感嘆に息を呑む氷華。

 彼女はマサの義理堅く男らしい立ち振る舞いに、あまつさえ自身へと与えれた優しげな言葉を受け、身体の奥底で湧き上がる甘い疼きを覚えた。

 思いがけない彼からの優しげな声色での言葉を受けた氷華は、瞠目に瞳を見開き、眦に溜めた涙を頬へと伝わせた。

 先程までは凍り付いていた心中へと染み入る様にしてマサの暖かな言葉は、氷華へと聞き届けられる。

 まるで凍結した肉体が氷解していくかの如く、殊更に優しいマサの立ち振る舞いに、心打たれた氷華である。

 見目麗しい少女の純白の頬を、球となった雫が伝う、殊更に美しい光景を目の当たりとして、自然とマサの手が伸ばされる。

 絶世の美貌の少女が涙を流す姿を受けて自ずと、己の肉体の奥底から湧き上がる情動のままに身を身を委ねた。

 滴り落ちる涙を、無骨な手で拭う様にして、自身の顔へと押しつけられたマサの指先を、氷華は受け入れる。

「うん‥ありがとう」

 先程のモンドの様な著しく美醜が劣って見受けられる彼と異して、殊更に精悍な顔立ちを誇るマサである。

 そんな偉丈夫な彼の、穏やかな声色での気遣いの言葉に対し、氷華もまた、その美貌を恍惚とさせて返答する。

「そうか」

 だがしかし、氷華が男からの女へと変貌を果たした事実を改めて認識したマサは、そこから会話を広げるための、続く言葉を思い浮かばなかった。

 あまりに変化を遂げた氷華の以前までの容姿との差異に対し続く言葉を失う彼は、生来の対人能力に乏しい性分も相成り殊更に口を噤む他にない。

 以前までは悪友としての関係が顕著に見受けられた二人であるが、現在に至っては場を保たせるための話題すら挙がらない。

 可憐な麗しき乙女へと容姿の変貌を果たした氷華への接し方に対し、幾分か逡巡を覚えて見て取れる。

 対して変質を遂げた彼女の側も、モンドの魔の手から助け出された手前もあり、以前の様につっけんどんな態度を躊躇して見受けられる。

 互いに言葉を交わすことに対しての躊躇いを覚えている二人は、相手の出方を窺って見て取れる。

 その様子は、雌としての変貌を遂げた氷華の態度に、殊更に顕著に見受けられた。

 著しい肉体の変化に伴って、その心もまた大いに変質を遂げている。

 侵食される様にして、以前の様な男らしい気概も失われて見受けられ、完全な雌としての女体化を果たした現在に至っては、卑屈な精神性すらも見て取れる。

 自身よりも屈強な肉体を誇る、逞しく強靭なる雄様には従属し、決して逆らうことは許されない。

 そんな鬼人族の雌としての遺伝子に刻み込まれた本能が、自身を侍らせているマサへと屈服していた。

 意図せずしてその身を救い出されてしまった氷華は、屈辱から恥辱に身を震わせているが、無意識の内の心底では、これ以上ない程に鼓動を高鳴らせている。

 無様にも助け出される形となってしまったことに対して、反射的に感謝の言葉を述べてしまった事は、以前のマサとの関係からは考えられない事実である。

 惨めにもその逞しい彼の胸に抱かれている現在の氷華の心中は、否が応にも混乱せずにはいられなかった。

 だからこそ、マサという自身よりも格上の存在の機嫌を窺い、自ずと言葉を選んでいる事実により一層の恥辱を覚えている有様だ。

 逞しい筋肉の感触に対し、早鐘の如く脈動する心臓の鳴り響く音が、彼にも聴こえてしまうのではないかと、危惧する氷華である。

 そんな始末の彼女の滑稽にも空回りを続ける思考など知る由もないマサは、無造作に手を伸ばす。

「え‥?」

 唐突に自身の頭部へと乗せられたマサの無骨な掌の感触を与えられた氷華は、呆気に取られた様に瞳を身開いた。

 瞠目した様子が見受けられる彼女は、しかしながら抵抗を示すわけでもなく、されるがままに身を預ける。

 雌として雄に従属する本能のままに、自ずと従順にも、マサの不躾な行動の全てを許容し、迎え入れた。

 不躾にも自身の頭部を乱暴に撫でるマサを、上目遣いで仰ぎ見る氷華は、眦から零れ落ちた涙を拭う。

 自らの頭部へと置かれたマサの無骨な掌へと、繊細な五指を重ねた氷華は、幾分か名残惜しげな声色で言葉を繰り出した。

「あ、あの‥もう大丈夫だから‥」

 悪友から頭部を撫でられた事実に対し、可愛らしくも羞恥に頬を赤く染めた氷華は、上目遣いでマサを見上げる視線へと、抗議の念を入り混じらせた。

 恥辱より、チラチラと覚束ない眼差しを氷華から向けられたマサは、意外にも動揺を示すことなく鷹揚に頷いて応じて見せた。

「奴に関しての、あまりいい噂は聞かない。お前に声を掛けたのは恐らくだが、何かしらの企みがあってのことだろう。くれぐれも用心した方がいい」

 更には平素の彼らしくもなく、眼前の氷華へと気遣っての、忠告さえをも与えて見て取れる。

 以前までは見せることのなかった、殊更に殊勝な心掛けを垣間見受けられる彼からは、酷く義理堅い性質が窺える。

 その様な以前とは大いに様子を異にして見て取れる彼の、殊更な差異を目の当たりとした氷華は、寧ろ恐ろしくさえ感じていた。

「え、えと‥心配してくれてありがとう」

 しかしながら自身の、そんな不敬極まる胸中などおくびにも出さない氷華は、深々と頭を下げて感謝の言葉を述べてみせる。

 先程まで受けた心底からの絶望により平静ではないものの、雌としての本能のままに身を委ねた氷華である。

 例え自身とそれなりに長い付き合いである、悪友であっても、物腰低く謙って見せた彼女からは、最早尊厳など微塵も見受けられなかった。

「いや、俺はただ‥お前があんな奴に、いいようにされてるのが気に食わなかっただけだ」

 思いがけずして、氷華を心配している形となってしまったマサは、しかして己の本心を誤魔化すべく、言い訳を並べ立てる。

「ふふっ、それでも嬉しかったよ」

 照れた様子で顔を逸らし、何処か歳幼い少年の様な、マサの初々しい反応を受けた氷華は、可憐にもくすりと小さな笑みで応じて見せた。

 まるで淫魔の如き色香すら漂って見受けられる氷華の可憐な美貌からは、それに相反する可憐な印象すらも垣間見て取れる。

 絶世の美貌を誇る彼女から、花が咲き乱れんばかりの、微笑みを受けたマサは、その眩く美しい光景に息を呑む。

 以前までとは圧倒的に容姿を変貌させて見受けられる氷華の姿を目の当たりとしては、流石の悪友が相手であっても混乱を余儀なくされるマサである。

 しかしながら、即座に眼前の相手が誰であるかを想起したマサは、なんとか気を取り直した次第である。

「‥やはりあのテツなのか‥。本当に変わったな‥」

 改めて眼前の氷華を真正面に見据えて見せるマサは、その美しい容貌もさることながら、それと同様に、言葉遣いさえをも異にしている事実を、彼女へと言及する。

「うん、それは自分でも少し驚いてるかも」

 そんな彼の感嘆とも酷似した感慨の籠る言葉を受けて、なんら意に解することなく、軽い調子で受け応えてみせる氷華である。

「そう言う割には、全く驚いている様には見えないが‥」

 なんの気兼ねも見受けられない氷華の、一切の躊躇いも感じられない返答を与えられたマサは、殊更に驚愕も一入だろうか。

「そう?でもわたしは、もうこのままでもいいかなぁ‥。少し疲れちゃったかも」

 幾分か疑念の入り混じる眼差しを向けられた氷華は、自身を怪訝な面持ちで見つめるマサへと弱音を吐いて見て取れる。

「あ‥わたし、何言っちゃてるんだろう‥。もう‥今日のわたし変だよね‥。えへへ‥」

 自身の零してしまった、悪友へと伝えるには、到底似つかわしくない心底からの本音。

 自ずと自らの吐き出してしまった失言に対し、その言葉を何処か誤魔化す様にして、曖昧な微笑みを称えた氷華であった。
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