名探偵はミルク中 〜ワンオペ探偵と最強メイドの横浜事件簿〜

本葉かのこ

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天才の苦悩

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しょせん僕は引き継ぎだ、本物の名探偵が気が変わるまでの。

本物はその明晰なる頭脳と、それが真理と知らしめる語り口で周囲の者の人生を、罪人つみびとの人生さえも例外なく、色鮮やかに変貌させる。

暗がりからの救済。

それが、人を導くことが名探偵たりえる資質であるのだとしたら、僕には向かない。

人間のごちゃごちゃした感情を見るのは疲れるじゃないか。

多少の適性があったとしても、その力は日々食べるだけの金銭を稼ぐだけにとどめたい。それなのに。

『名探偵を引き継ぐのは、あんたって決まってるの』

相変わらずの身勝手ですべて押しつけて出ていったあの人が再び現れたのは、2ヶ月前。

の動向は知ろうとせずとも知ってはいたけれど、その腕に抱える存在は予想外だった。

ひゃんひゃんひゃん。

その優しい泣き声。

胎のなかから出てきたばかりのひととは、みなあのようなものなのだろうか。

この世のすべて、真理を知っているかのような落ち着いた眼差しに気圧されたのを覚えている。

ひゃんひゃんひゃん。

『私みたいなのに育てられたら、悠馬がダメになる。あんた育てなさい』

彼女の身勝手を受け入れたのは、僕の身勝手。
その優しい泣き声と出会った瞬間から、僕の人生が色鮮やかに息を吹き返したからだった。





窓から差し込む夕陽で目が覚めた。

ここ最近の室内の混沌は跡形もない。床も机も、まるで何事もなかったかのように磨き上げられている。
事務所のデスク脇に置かれたベビーベッドのなかでは、赤子がすこやかな寝息を立てていた。

「おはよう、悠馬くん」

時計の針は午後4時を指している。
6時間ぐっすり眠ってしまったことに強い罪悪感を覚えた。

3時間で起こすよう言ったのに。

己の職務に忠実で、疑うことすらしていなさそうな瞳を思い出す。
自分よりも年下だが、しっかりとした芯を感じさせる彼女に、盛大に文句を言いたくなったが、それが甘えということにも気づいていた。

悠馬の授乳ペースは時計のように正確だ。
きっちり3時間ごとに、腹が空いたと泣いて知らせる。
朝の10時に授乳をした3時間後の午後1時に、悠馬はきっと泣いたはず。その対応をしたのはきっと彼女だろうから、文句など言えるはずがない。

「桜庭様、お目覚めでございましたか。もう少し眠っていらっしゃってもよろしかったですが」

事務所奥の居住スペースから出てくる姿を見て、やはり文句が出てしまった。

「住人の許可なく、勝手に動かれるのはプライバシーの侵害では?」
「たいへん申し訳ございません」
「これは八つ当たりなので、素直に謝らないでください」

奥の給湯室から、いい匂いがしている。その匂いのもとは、普段使わない二口コンロにあった。

見覚えのない金色の鍋のなかに、蕩けそうなきつね色のじゃがいもと、ふっくらした人参、豚肉に糸こんにゃく。

いかにも美味そうな肉じゃがの隣のコンロには、蓋をした片手鍋。開けてみれば、味噌汁である。

「この鍋と、この中身はどうしましたか?」
「調理器具は下の喫茶店のマスターが心よくお貸しくださいました。料理に関しましては、私のほうで作っております。お嫌いな食品やアレルギーのある食物はございませんか?」

ここでニンジンが嫌いだと言えば、どうするのだろう?

そんな子供っぽいことはしないが、文句は言った。

「押し付けがましいと言われたことは?」
「ございませんが、今回のことは多少、桜庭様のご不快を買う覚悟をもって、致しております」
「睡眠と食事を与えれば、情に絆されて、僕が依頼を引き受けるとでも?」
「依頼は必ず引き受けていただけるよう努力しますが、こちらの件はそれとは別に、私の自己満足によるものでございます。優れたメイドたるもの、乱れた食生活、乱れた部屋、乱れた睡眠は見過ごすことはできません故」

はっきりキッパリと言われて、肩の力がふっと抜けた。途端、盛大に腹が鳴った。

「とりあえずいただきます」

食材を無駄にすることはできないから、と心のなかで呟いた。
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