ディアピンク・フォールイントゥ

みずうみ

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写生大会(4)

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「……綾香、正直に答えてね」
「うん」
「綾香は、自分自身を何者だと思ってる?」
 何から何まで分からなかった。いきなりそう切り出す沙織の心境も、質問の意図も、それに対する答えも。しかし、私はただならぬ気配を感じ取った。私自身の世界が根底から覆されそうな、悪い予感だった。
「分からない」
 申し訳なさそうに、私は言った。
「……なるほどね」
 得心のいったようにそう返答されて、これは妙だと思った。沙織の顔はますます険しくなっている。
「うん、やっぱりそうだよね。もう一回見せて、手首」
 私はその件については諦めがついていた。躊躇わずにブレザーを脱ぎ、ワイシャツの裾をまくって包帯を見せる。沙織はいきなり、私の包帯を解き始めた。すっかりふさがった傷だが、その生々しい跡はくっきりと残っている。私の大事な部分、見られちゃった。この世に生き苦しみもがいた結晶を。しかし、そのことを、彼女は分からないだろう。顔をしかめて私に対する不快感をあらわにするだろう。
「そうだよね、だから、リストカットもしちゃうよね。気持ちは分かるよ」
 私はいたって冷静な声でそう言った沙織に対し、虫唾が走るほどの嫌悪感を覚えた。分かる、だって? 私のこれまで心に抱いた数あまたの苦しみ、悲しみが、分かる、だって?
「……私の、なにが分かるっていうの」
「大体、分かる。私のことが、すごく好きになる時もあれば、嫌いに思う時もあるでしょ? そう言うのは、私にも感じられる。そして、どちらが本当の自分なのか、わからないんじゃない?」
「違う、違う。そんなんじゃない! 沙織は私の敵なの!? 私に、友達だって言ったのは嘘なの?」
「友達だから」
 沙織は立ち止まった。私はその、張りつめていて、かつ冷たい声に驚き、沙織の顔を見る。悲しみに溢れた表情がそこにあった。けれど強い意志を持った声で、
「友達だから、綾香を救ってあげたいの。その心、その精神状態は、普通じゃない。私のお父さんは精神科医なの」
 精神科医? なぜ、今そんな話になっているのか、全く分からなかった。自分の精神状態が、普通ではない、つまり人とは違うということは認めるが、病気では、決してない。
「お父さんの影響で、精神病関連の本は小さいころから沢山読んでる。綾香はもしかすると、病気かもしれない」
「なによ、私が病気だって?」
「綾香のことを、お父さんに話しもした。一回、うちで診察を受けた方がいい、とお父さんも言っていた」
 私のことを勝手に話をされたのは心外だ。けれどそんなことよりも、自分自身の頭が掻き乱されているかのような感覚が私の心を蝕んでいた。私が病気。私は病気。いや、違う。
「私の心は、誰にも分からない。今まで分かってもらえたことなんてない。ないから、私は孤立しているのよ。それは病気のせいだってこと? 病気が治れば、みんなと仲良くできると? そんなこと、あり得ないわ!」
 喉の奥が熱くなり、最後の方はほとんど掠れ声になっていた。こんなに大きな声を出したのは、いつ以来だろう。そして、胃の腑の底から沸々と沸き上がる、地獄の業火のごとき怒り。同時に、悲しみ。友達に病気扱いされて、嬉しいはずがない。
「リストカットは、いつから? 皮膚の具合からして、手首を切りはじめてからそんなに日は経ってないよね」
 沙織は鬼のように冷徹な声で続ける。皮膚の具合? それは何か他人と比較をしていると言うことか。私よりもひどい例があると言うことか。冗談じゃない。私ほどの苦しみを持ち、感じて生きている人間など、他にいるものか。
「ねえ、いつから?」
「……今年の一月から」
「そう……」
 私という人間の外殻が、一枚一枚はがされていく、そんな感覚が私を襲う。このままだと、私は壊れてしまう。私が、本当に私でいられなくなる。これが友達と言うものなのなら、私に友達は作れない。一生作れないし、それでいい。
「この世に存在していると、自覚していたいんだね。体内で血が通っていること、また切るときの痛み、そういうものを感じることで、自分が生きていることを確信したいんだ」
「違う、違う!」
 分からない。もうなにが正しいのか分からない。私はこの世に生きているのか。ここは一体どこだ。いや、どこなのか、それを考えるのは今すべきことではない。私の認識の、どれもが私のものではないのだから。だとすると、私はどうすればいい? 足元がふらつく。実際に私の立っている地面は、もうぐらぐらで、気体の上に立っている可能性だってある。どうしようもなく、それに自覚もなく、私は地獄へと落下しているのかもしれない。
「落ち着いて、落ち着いて!」
 沙織がまだ、いる。平衡感覚を失い、今にも倒れそうになる私の腰元を、両腕でしっかりと抱え込む。沙織の体のぬくもりが伝わってくる。優しい香りがする。まるで、私と沙織は一体化したかのようだった。
 永遠かと思うほどの時間が過ぎた。
「大丈夫……?」
 沙織が私に声をかけてくれた。少しずつ、世界が元通りになる。この世界は、確かにあると感じられるようになってくる。太陽はもうその姿のほとんどを地平線の下に隠していた。
「うん、もう大丈夫だよ」
 私は努めて優しく声をかけた。嫌悪感や憤怒の感情を殺しながら。しかし、果てしない混乱の底から救ってくれた存在も、間違いなく沙織だった。
「ごめんね……」
「ううん、大丈夫」
 沙織という存在。ときに嫌なことを言われ、しかし本当の危機に直面した時は、きちんと支えてくれる、そんな存在。
「沙織、あったかい」
 私がそう口にすると、沙織は顔を赤らめて私から体を離し、すたすたと歩き始めた。耳が真っ赤に染まっているのが、薄暗い中でも分かった。私はそんな彼女を、かわいい、と思った。
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