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第二章:初レース
第10話:夜の語らいは大人たちで
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しんとした夜、雷志はこっそりと飼育場を覗いた。
牧草の上で心地良い寝息を立てるツキノヨルノオウカ。
その穏やかな寝顔は、つい数刻前まで泣き言をもらしていたとは思えない。
「もっと駄々をこねると思ってはいたが……」
幼子は慣れないことに対して、激しく後ろ向きである。
この娘とて例外ではない……少なくとも雷志はそう思っていた。
実際のところ――思いの他、ツキノヨルノオウカは見た目に反して根性がある。
かつて、同じ内容を強いられ逃げ出したものの、あっさりと捕まった愚か者とはまるで違う。
当時の己と比較して、雷志はふっと鼻で一笑した。
「ツキノヨルノオウカ、か……もしかすると、お前は俺の想像をはるかに超えるかもしれないな」
つい、夢想する。
数多のレースを制し、万雷の喝采を浴びるツキノヨルノオウカ。
ありえない、と誰しもがきっとこう揶揄するだろう。
夢想するのならば自由だ。そのために努力を怠らないのもまた然り。
(必ず、俺が現実のものとしてみせる……!)
飼育場をそっと立ち去ろうとした時――
「トレーナーさん……」
と、か細い声がやけに耳に響いた。
起こしてしまったか……思わず振り返る。
穏やかな寝顔のまま、ごろりと寝返りを打った。どうやら寝言だったらしい。
「どんな夢を見ているのやら……」
夢の中の自分は、トレーナーと呼称することを許しているようだ。
なんて、都合のいい夢。
「俺にその夢は、眩しすぎる……」
この身はとうに血で染まり切ってしまっている。
そんな男がどうして、今更人として正道を踏みしめられよう。
いくらきれいな言葉で飾ろうとも、所詮は人斬り……この事実だけは覆せない。
永遠に、この道から外れられない。それは他でもない、雷志自身が一番わかっていた。
「そんな日は永遠にこないよ……多分、な」
ツキノヨルノオウカの髪をそっと撫でて、客室へと戻る。
「ここは夜になると一段と冷えるな……」
容赦ない隙間風が熱を奪っていく。
それから少しでも早く逃れるように、客室の扉に手を掛けた。
のしり――床を軋むその音が、雷志の意識をそこに留める。
「まだ起きていたのかぁ」
「テンダン殿」
のそりとやってきた毛むくじゃらの妖怪が、大きく欠伸をする。
重たくなっただろう瞼は今にも閉じそうで、うつらと絶えず船を漕ぐ。
「これから私も休ませてもらうところです」
「そうかぁ……いよいよ、あいつがレースに参加するんだなぁ」
忌み嫌い、致し方なく世話をした馬鬼がついにレースに出る。
これは、飼い主ですら想像していなかっただろう。
現に、この時でさえもテンダンはいぶかし気な顔をしている。
「本当にぃあいつなんかで勝てるのかぁ……?」
いつもと変わらぬ口調に、何気ない内容。
だが、そこには彼の不安が色濃く渦巻いているのを、雷志が気付かないはずもなく。
「大丈夫ですよ」
下手な詳細は返って、不安を煽るのみ。
ここは簡潔に、しかし揺らぎない自信だけを見せる。
「でもぉ、他の馬鬼じゃあだめなのかぁ?」
馬鬼ならば他にもいる。
鍛えれば、もしかするとそれなりの知名度は得られたかもしれない。
ツキノヨルノオウカ……彼女との出会いがあったから。
「まず、私は馬鬼の飼育をどのようにすればいいかわかりません」
調教師ならば、その術も知識もあるだろうが雷志にそれは皆無である。
適当な方法で、貴重な命を散らすのはあまりにも忍びない。
付け加えて、テンダンの馬鬼にも致命的な欠陥がある。
「申し訳ありませんが、テンダン殿の馬鬼は“れえす”……勝負事には不向きですよ」
レース場で目の当たりにしたのは、凄烈な熱気と闘志だった。
家畜という立場にありながら、レースに対する熱意はヒトにも劣らぬ。
彼らは、あの場で疾走することに命を燃やす。
奇しくもその姿は美しく、ヒトよりもずっと生き生きとしている。
少なくとも、あの場において雷志の目にはそうありありと映っていた。
ここにいる馬鬼には、それが絶望的にない。
誰一人として、勝つことへの渇望がないのだ。
牧場にいれば少なくとも、餌はもらえる。
なにもせずに楽をして生きられるのならば、あえて苦難を選ぶ必要もあるまい。
そうした環境にすっかり慣れてしまった彼らに、どうして戦場で活躍できよう。
やる気がないのだから、修練を施してもすべて徒労に終わるのは火を見るよりも明らかだった。
それ故に雷志は、最初からツキノヨルノオウカ以外眼中になかった。
「こればかりは仕方がないですね。得手不得手は誰にでもあるでしょうし」
「う~ん……だからぁ今まで勝てなかったのかぁ」
原因は、おそらくこのオトコのおっとりとした性格だろう。
飼い主によく似る、とは耳にするが今回は正しくそれが適切だったと納得もできる。
「それに比べて、あの娘には向上心がある。負けん気も意外にあるみたいですし」
「……あの馬鬼がなぁ」
未だに信じられないと言いたげなテンダン。
厄災をもたらす異端児……この不名誉な看板が、人々の価値観を歪めた。
(オウカは、悪い奴ではない)
それは紛れもない事実で、しかし簡単に払拭できそうにない現実が雷志に奥歯を噛み締めさせる。
「意外ですか? 私からすれば、粗削りではありますが才能もありますよ」
「……そこまで言うからにはぁ、絶対に勝ってもらわないとだなぁ」
「正直、迷いがあります。彼女はまだ幼いのに……」
もっと他によいやり方があったのではないか――今更迷って、なんになる。
賽はもう、とっくに投げられた。それを承知の上で強くすると宣言した。
迷うな――自らにそう、何度も強く言い聞かせる。
迷いは冷静さを奪い、たちまち他に圧倒される。
「そうだなぁ。妖怪の中でも百歳とくれば、まだまだ子どもと変わらないからなぁ」
「……ん?」
さらり、とテンダンの口からとんでもない発言が飛び出した。
聞き間違えだろうか――多分。きっとそうに違いない。
牧草の上で心地良い寝息を立てるツキノヨルノオウカ。
その穏やかな寝顔は、つい数刻前まで泣き言をもらしていたとは思えない。
「もっと駄々をこねると思ってはいたが……」
幼子は慣れないことに対して、激しく後ろ向きである。
この娘とて例外ではない……少なくとも雷志はそう思っていた。
実際のところ――思いの他、ツキノヨルノオウカは見た目に反して根性がある。
かつて、同じ内容を強いられ逃げ出したものの、あっさりと捕まった愚か者とはまるで違う。
当時の己と比較して、雷志はふっと鼻で一笑した。
「ツキノヨルノオウカ、か……もしかすると、お前は俺の想像をはるかに超えるかもしれないな」
つい、夢想する。
数多のレースを制し、万雷の喝采を浴びるツキノヨルノオウカ。
ありえない、と誰しもがきっとこう揶揄するだろう。
夢想するのならば自由だ。そのために努力を怠らないのもまた然り。
(必ず、俺が現実のものとしてみせる……!)
飼育場をそっと立ち去ろうとした時――
「トレーナーさん……」
と、か細い声がやけに耳に響いた。
起こしてしまったか……思わず振り返る。
穏やかな寝顔のまま、ごろりと寝返りを打った。どうやら寝言だったらしい。
「どんな夢を見ているのやら……」
夢の中の自分は、トレーナーと呼称することを許しているようだ。
なんて、都合のいい夢。
「俺にその夢は、眩しすぎる……」
この身はとうに血で染まり切ってしまっている。
そんな男がどうして、今更人として正道を踏みしめられよう。
いくらきれいな言葉で飾ろうとも、所詮は人斬り……この事実だけは覆せない。
永遠に、この道から外れられない。それは他でもない、雷志自身が一番わかっていた。
「そんな日は永遠にこないよ……多分、な」
ツキノヨルノオウカの髪をそっと撫でて、客室へと戻る。
「ここは夜になると一段と冷えるな……」
容赦ない隙間風が熱を奪っていく。
それから少しでも早く逃れるように、客室の扉に手を掛けた。
のしり――床を軋むその音が、雷志の意識をそこに留める。
「まだ起きていたのかぁ」
「テンダン殿」
のそりとやってきた毛むくじゃらの妖怪が、大きく欠伸をする。
重たくなっただろう瞼は今にも閉じそうで、うつらと絶えず船を漕ぐ。
「これから私も休ませてもらうところです」
「そうかぁ……いよいよ、あいつがレースに参加するんだなぁ」
忌み嫌い、致し方なく世話をした馬鬼がついにレースに出る。
これは、飼い主ですら想像していなかっただろう。
現に、この時でさえもテンダンはいぶかし気な顔をしている。
「本当にぃあいつなんかで勝てるのかぁ……?」
いつもと変わらぬ口調に、何気ない内容。
だが、そこには彼の不安が色濃く渦巻いているのを、雷志が気付かないはずもなく。
「大丈夫ですよ」
下手な詳細は返って、不安を煽るのみ。
ここは簡潔に、しかし揺らぎない自信だけを見せる。
「でもぉ、他の馬鬼じゃあだめなのかぁ?」
馬鬼ならば他にもいる。
鍛えれば、もしかするとそれなりの知名度は得られたかもしれない。
ツキノヨルノオウカ……彼女との出会いがあったから。
「まず、私は馬鬼の飼育をどのようにすればいいかわかりません」
調教師ならば、その術も知識もあるだろうが雷志にそれは皆無である。
適当な方法で、貴重な命を散らすのはあまりにも忍びない。
付け加えて、テンダンの馬鬼にも致命的な欠陥がある。
「申し訳ありませんが、テンダン殿の馬鬼は“れえす”……勝負事には不向きですよ」
レース場で目の当たりにしたのは、凄烈な熱気と闘志だった。
家畜という立場にありながら、レースに対する熱意はヒトにも劣らぬ。
彼らは、あの場で疾走することに命を燃やす。
奇しくもその姿は美しく、ヒトよりもずっと生き生きとしている。
少なくとも、あの場において雷志の目にはそうありありと映っていた。
ここにいる馬鬼には、それが絶望的にない。
誰一人として、勝つことへの渇望がないのだ。
牧場にいれば少なくとも、餌はもらえる。
なにもせずに楽をして生きられるのならば、あえて苦難を選ぶ必要もあるまい。
そうした環境にすっかり慣れてしまった彼らに、どうして戦場で活躍できよう。
やる気がないのだから、修練を施してもすべて徒労に終わるのは火を見るよりも明らかだった。
それ故に雷志は、最初からツキノヨルノオウカ以外眼中になかった。
「こればかりは仕方がないですね。得手不得手は誰にでもあるでしょうし」
「う~ん……だからぁ今まで勝てなかったのかぁ」
原因は、おそらくこのオトコのおっとりとした性格だろう。
飼い主によく似る、とは耳にするが今回は正しくそれが適切だったと納得もできる。
「それに比べて、あの娘には向上心がある。負けん気も意外にあるみたいですし」
「……あの馬鬼がなぁ」
未だに信じられないと言いたげなテンダン。
厄災をもたらす異端児……この不名誉な看板が、人々の価値観を歪めた。
(オウカは、悪い奴ではない)
それは紛れもない事実で、しかし簡単に払拭できそうにない現実が雷志に奥歯を噛み締めさせる。
「意外ですか? 私からすれば、粗削りではありますが才能もありますよ」
「……そこまで言うからにはぁ、絶対に勝ってもらわないとだなぁ」
「正直、迷いがあります。彼女はまだ幼いのに……」
もっと他によいやり方があったのではないか――今更迷って、なんになる。
賽はもう、とっくに投げられた。それを承知の上で強くすると宣言した。
迷うな――自らにそう、何度も強く言い聞かせる。
迷いは冷静さを奪い、たちまち他に圧倒される。
「そうだなぁ。妖怪の中でも百歳とくれば、まだまだ子どもと変わらないからなぁ」
「……ん?」
さらり、とテンダンの口からとんでもない発言が飛び出した。
聞き間違えだろうか――多分。きっとそうに違いない。
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