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第一部二章 再動
駿河と美濃
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「……まさか――」
信繁は、『お屋形様が、娘婿の治める同盟国へ攻め込むはずがない』――そう言って、虎昌の言葉を笑い飛ばしたかったが、かつての諏訪攻めの記憶が脳裏に蘇り、言葉に詰まった。
――武田方によって火をかけられ、轟々と燃えさかる城。
不意を打たれて、装備を整える暇も無く敵を迎撃せんと出撃し、衆寡敵せず討ち取られていく諏訪の侍たち。
篠突く雨の中、着の身着のままで逃げ惑う、女子供たち。
――そして、
『おのれ、晴信! 人倫の道を知らぬ外道が!』
と、ザンバラ髪を振り乱し、泥と血に塗れた顔を歪めて罵声を浴びせる諏訪頼重の姿と――、
『……太郎、そして次郎……私は、決して赦しませぬ。私から、頼重殿と――寅王丸を奪った……貴方達を――』
と最期に言い残して身罷った、実の姉の窶れきった死に顔を。
(……嫌な、戦であった――)
あの時――、宿老の板垣信方と轡を並べ、武田の先手の将として、真っ先に諏訪へと攻め込んだ信繁は、微かに顔を歪ませ、瞑目した。
そのまま、数瞬の間、目を閉じたまま天を仰いだが、
「……だが、今は……あの時とは違う」
そう呟くように言うと、信繁は目を開いた。
「――天文十一年 (西暦1542年)……あの時は、諏訪しか無かった。我が武田家が信濃に出る為には、どうしても諏訪を手中に収める事が必要だったのだ。――それは、お主も良く存じておろう、兵部」
「……」
虎昌が無言で頷くのを見留め、信繁は言葉を続ける。
「――だが、今は違う。敢えて駿河に攻め込まねばならぬ理由が無い。今川殿との同盟を破棄するという事は、同時に小田原の北条殿をも敵に回す事になる可能性が高い。関東を巡って利害が対立している上杉と北条が手を組む可能性は殆ど無いだろうが、徒に三方に敵を作る真似は――」
「……駿河に攻め込む理由――御座いまする」
またしても、昌幸が信繁の言葉を遮った。信繁は、思わず険しい顔を彼に向けるが、昌幸は意に介さずに言葉を継ぐ。
「現在の今川家は、義元公が桶狭間にて尾張の織田に討たれて後、勢いが衰えております」
彼はそう言いながら、懐から取り出した地図を、信繁と虎昌の間に広げた。
そして、遠江 (現在の静岡県西部)の位置に指を置く。
「今川家を氏真殿が継ぐと同時に、三河 (現在の愛知県東部)で独立を宣した松平元康が遠江の地へ攻め込もうと、虎視眈々と機を窺っております。更に先頃、松平は尾張 (現在の愛知県西部)織田と同盟を結んだとの事……恐らく、現在の今川では、織田の後ろ盾を得た松平の侵攻には耐えられないでしょう」
「……松平に獲られるくらいなら、自ら駿河遠江に攻め込み、己のものにしよう――お屋形様は、そう考えておられる……そう言いたいのか、昌幸?」
「……はい」
微かに震える信繁の言葉に、キッパリとした顔で首肯する昌幸。
信繁は、不意に喉の渇きを覚えた。が、手元には喉の渇きを潤すものは無い。彼は、やはり酒を用意させるべきであったと、心中密かに悔いた。
「……しかし、昌幸よ。駿河に攻め込むくらいなら――」
信繁は気を取り直すと、眼下の地図に手を伸ばし、信濃の西を指さした。
「ここ――美濃 (現在の岐阜県)に兵を向けた方が良いのではないか?」
信繁はそう言うと、顔を上げて昌幸の表情を窺う。昌幸は、地図の上に目を落としたまま、無言で考え込んでいる。
「――美濃の斎藤も、先代義龍が若くして病死し、その後を年若い龍興が継いでいる。だが、斎藤の家臣たちの中には、龍興を侮り、彼に従う事を善しとはしない者も少なくないと聞く。付け入る隙は多い。――儂がお屋形様の立場なら、駿河などより、美濃の方を狙うと思うが」
「ええ。拙者も同様でござる」
信繁の考えに、昌幸も同意した。虎昌もまた、無言で頷く。
二人の反応を目の当たりにした信繁は、当惑の表情を浮かべる。
「なれば――」
「お屋形様は、美濃へは攻めかかる気はございませぬ」
そう、ハッキリと断言したのは虎昌だった。
やけに自信に溢れた虎昌の言葉に、信繁は首を傾げる。
「――何故、そうまで言い切れる?」
「美濃は、織田が狙っております故」
「……織田?」
「……ずっと眠っておられた典厩様はご存知ないかと思いまするが、昨年から、織田信長からお屋形様に宛てて、頻繁に使者が送られてきております」
虎昌は、苦い表情を浮かべると、地図の尾張を扇子で指して言葉を継いだ。
「そして、使者と共に、膨大な数の贈り物――業物の太刀や、豪奢な反物、南蛮渡来の珍しき菓子などが贈られてきているのでござる」
「……そうか。織田は、美濃を攻める際に余計な横槍を入れられるのを防ぐ為に、予め当家と誼を通じようとしているのか? だが――」
信繁は、虎昌の言葉に、腑に落ちぬと言った様子で眉根を顰めた。
「……今川家にとって、前当主を討ち取った織田家は不倶戴天の仇。本来ならば、その今川と同盟を組んでいる当家は、誼だ何だと言える間柄では断じて無いが――」
「……なのに、お屋形様は、織田の態度に満更でも無いご様子なのです」
と、虎昌は吐き捨てるように言うと、髭の奥の唇をきつく噛んだ。
そして、「……これは、あくまでも噂なのですが」と前置きしてから、微かに声を震わせながら言う。
「――織田方より、織田家の娘と、四郎様との婚姻の打診があったとか……」
「あり得ぬ!」
飯富の言葉に、信繁はカッと隻眼を見開くと、激しく頭を振った。
「よりにもよって、同盟国――それも、二代にわたって婚姻を結んでいる今川家の仇と血縁を結ぼうなど……そんな事をしたら、今川側からの反発は凄まじいものがあろう! いくら何でも、斯様な愚をお屋形様が犯そうなどとは――考えられぬ!」
「……ですが」
信繁の激しい剣幕に、些か気を呑まれながらも、昌幸は口を挟んだ。
「――万が一、その噂が真になれば、それは我が武田家が今川から織田へと乗り換えたという何よりの証。即座に甲相駿三国同盟は瓦解しましょう。――更に、四郎殿が織田の姫と婚姻を結ぶという事は……」
「畢竟――今川殿の妹を娶られている若殿の、武田家におけるお立場は……」
「……」
「……」
「……」
昌幸の推察と虎昌の呟きに、三人の間に重苦しい沈黙が広がる。静寂に包まれた奥間の中、燭台に灯る火が燻る微かな音だけが耳朶を打つ。
「――解った」
その静寂を破ったのは、信繁だった。
彼は、眉間に皺を寄せて、落ち着かな気に口髭を撫でつけながら、虎昌と昌幸の顔を見て言った。
「……その話は今度、儂がお屋形様にそれとなく訊いてみよう。なに、単なる杞憂であろうが」
そう言って力無く笑うと、信繁は虎昌に言い聞かせる。
「兵部、そして太郎に釘を刺しておくぞ。――呉々も、あやふやな噂に踊らされて、疑念に駆られるあまりに短気を起こしてはならぬぞ」
そして、老将の肩に手をかけると、静かに言葉を継いだ。
「この件は、儂に預けてくれ。……良いな」
信繁は、『お屋形様が、娘婿の治める同盟国へ攻め込むはずがない』――そう言って、虎昌の言葉を笑い飛ばしたかったが、かつての諏訪攻めの記憶が脳裏に蘇り、言葉に詰まった。
――武田方によって火をかけられ、轟々と燃えさかる城。
不意を打たれて、装備を整える暇も無く敵を迎撃せんと出撃し、衆寡敵せず討ち取られていく諏訪の侍たち。
篠突く雨の中、着の身着のままで逃げ惑う、女子供たち。
――そして、
『おのれ、晴信! 人倫の道を知らぬ外道が!』
と、ザンバラ髪を振り乱し、泥と血に塗れた顔を歪めて罵声を浴びせる諏訪頼重の姿と――、
『……太郎、そして次郎……私は、決して赦しませぬ。私から、頼重殿と――寅王丸を奪った……貴方達を――』
と最期に言い残して身罷った、実の姉の窶れきった死に顔を。
(……嫌な、戦であった――)
あの時――、宿老の板垣信方と轡を並べ、武田の先手の将として、真っ先に諏訪へと攻め込んだ信繁は、微かに顔を歪ませ、瞑目した。
そのまま、数瞬の間、目を閉じたまま天を仰いだが、
「……だが、今は……あの時とは違う」
そう呟くように言うと、信繁は目を開いた。
「――天文十一年 (西暦1542年)……あの時は、諏訪しか無かった。我が武田家が信濃に出る為には、どうしても諏訪を手中に収める事が必要だったのだ。――それは、お主も良く存じておろう、兵部」
「……」
虎昌が無言で頷くのを見留め、信繁は言葉を続ける。
「――だが、今は違う。敢えて駿河に攻め込まねばならぬ理由が無い。今川殿との同盟を破棄するという事は、同時に小田原の北条殿をも敵に回す事になる可能性が高い。関東を巡って利害が対立している上杉と北条が手を組む可能性は殆ど無いだろうが、徒に三方に敵を作る真似は――」
「……駿河に攻め込む理由――御座いまする」
またしても、昌幸が信繁の言葉を遮った。信繁は、思わず険しい顔を彼に向けるが、昌幸は意に介さずに言葉を継ぐ。
「現在の今川家は、義元公が桶狭間にて尾張の織田に討たれて後、勢いが衰えております」
彼はそう言いながら、懐から取り出した地図を、信繁と虎昌の間に広げた。
そして、遠江 (現在の静岡県西部)の位置に指を置く。
「今川家を氏真殿が継ぐと同時に、三河 (現在の愛知県東部)で独立を宣した松平元康が遠江の地へ攻め込もうと、虎視眈々と機を窺っております。更に先頃、松平は尾張 (現在の愛知県西部)織田と同盟を結んだとの事……恐らく、現在の今川では、織田の後ろ盾を得た松平の侵攻には耐えられないでしょう」
「……松平に獲られるくらいなら、自ら駿河遠江に攻め込み、己のものにしよう――お屋形様は、そう考えておられる……そう言いたいのか、昌幸?」
「……はい」
微かに震える信繁の言葉に、キッパリとした顔で首肯する昌幸。
信繁は、不意に喉の渇きを覚えた。が、手元には喉の渇きを潤すものは無い。彼は、やはり酒を用意させるべきであったと、心中密かに悔いた。
「……しかし、昌幸よ。駿河に攻め込むくらいなら――」
信繁は気を取り直すと、眼下の地図に手を伸ばし、信濃の西を指さした。
「ここ――美濃 (現在の岐阜県)に兵を向けた方が良いのではないか?」
信繁はそう言うと、顔を上げて昌幸の表情を窺う。昌幸は、地図の上に目を落としたまま、無言で考え込んでいる。
「――美濃の斎藤も、先代義龍が若くして病死し、その後を年若い龍興が継いでいる。だが、斎藤の家臣たちの中には、龍興を侮り、彼に従う事を善しとはしない者も少なくないと聞く。付け入る隙は多い。――儂がお屋形様の立場なら、駿河などより、美濃の方を狙うと思うが」
「ええ。拙者も同様でござる」
信繁の考えに、昌幸も同意した。虎昌もまた、無言で頷く。
二人の反応を目の当たりにした信繁は、当惑の表情を浮かべる。
「なれば――」
「お屋形様は、美濃へは攻めかかる気はございませぬ」
そう、ハッキリと断言したのは虎昌だった。
やけに自信に溢れた虎昌の言葉に、信繁は首を傾げる。
「――何故、そうまで言い切れる?」
「美濃は、織田が狙っております故」
「……織田?」
「……ずっと眠っておられた典厩様はご存知ないかと思いまするが、昨年から、織田信長からお屋形様に宛てて、頻繁に使者が送られてきております」
虎昌は、苦い表情を浮かべると、地図の尾張を扇子で指して言葉を継いだ。
「そして、使者と共に、膨大な数の贈り物――業物の太刀や、豪奢な反物、南蛮渡来の珍しき菓子などが贈られてきているのでござる」
「……そうか。織田は、美濃を攻める際に余計な横槍を入れられるのを防ぐ為に、予め当家と誼を通じようとしているのか? だが――」
信繁は、虎昌の言葉に、腑に落ちぬと言った様子で眉根を顰めた。
「……今川家にとって、前当主を討ち取った織田家は不倶戴天の仇。本来ならば、その今川と同盟を組んでいる当家は、誼だ何だと言える間柄では断じて無いが――」
「……なのに、お屋形様は、織田の態度に満更でも無いご様子なのです」
と、虎昌は吐き捨てるように言うと、髭の奥の唇をきつく噛んだ。
そして、「……これは、あくまでも噂なのですが」と前置きしてから、微かに声を震わせながら言う。
「――織田方より、織田家の娘と、四郎様との婚姻の打診があったとか……」
「あり得ぬ!」
飯富の言葉に、信繁はカッと隻眼を見開くと、激しく頭を振った。
「よりにもよって、同盟国――それも、二代にわたって婚姻を結んでいる今川家の仇と血縁を結ぼうなど……そんな事をしたら、今川側からの反発は凄まじいものがあろう! いくら何でも、斯様な愚をお屋形様が犯そうなどとは――考えられぬ!」
「……ですが」
信繁の激しい剣幕に、些か気を呑まれながらも、昌幸は口を挟んだ。
「――万が一、その噂が真になれば、それは我が武田家が今川から織田へと乗り換えたという何よりの証。即座に甲相駿三国同盟は瓦解しましょう。――更に、四郎殿が織田の姫と婚姻を結ぶという事は……」
「畢竟――今川殿の妹を娶られている若殿の、武田家におけるお立場は……」
「……」
「……」
「……」
昌幸の推察と虎昌の呟きに、三人の間に重苦しい沈黙が広がる。静寂に包まれた奥間の中、燭台に灯る火が燻る微かな音だけが耳朶を打つ。
「――解った」
その静寂を破ったのは、信繁だった。
彼は、眉間に皺を寄せて、落ち着かな気に口髭を撫でつけながら、虎昌と昌幸の顔を見て言った。
「……その話は今度、儂がお屋形様にそれとなく訊いてみよう。なに、単なる杞憂であろうが」
そう言って力無く笑うと、信繁は虎昌に言い聞かせる。
「兵部、そして太郎に釘を刺しておくぞ。――呉々も、あやふやな噂に踊らされて、疑念に駆られるあまりに短気を起こしてはならぬぞ」
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