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第一部五章 軍神
侵攻と守備
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広瀬の渡しにおいて、村上義清が凄絶な討死を遂げた翌々日――。
北に千曲川の流れを望む海津城は、やにわに慌ただしさを増した。
「来たか……!」
海津城本丸天守台から、千曲川の対岸を見据えながら、武田方の総大将である武田太郎義信は呻くように呟いた。
彼の視線の先には、黒光りする鎧を纏った武者の群れが、整然と隊列を整えていた。
軍列の中ではためく幟旗には、竹と向かい合った二羽の雀をあしらった家紋が染め抜かれている。
言うまでもなく、上杉家の家紋である。
そして、軍列の中央で風に靡く、一際大きな軍旗――それには、大きく“毘”の一文字が書き抜かれていた。
「遂に、“軍神”上杉輝虎のお出まし――という訳ですな……!」
義信の傍らに立つ眉目秀麗な男が、緊張した面持ちで頷く。
――彼の名は、香坂弾正忠虎綱。この海津城の城代である。
元は甲斐の豪農の息子であったが、国主武田晴信に見出され、奥近習として彼に仕えた。その類い稀なる美貌により、晴信から寵童としても愛されたが、百騎を預かる侍大将――そして、北信濃の最重要拠点である海津城を任されているのは、国主信玄の寵愛によるものではなく、偏に彼の実力によるものであった。
彼の用兵術、交渉術、そして築城術は、武田家臣の中でも群を抜いて優れている。
特に、築城術に関しては、縄張りの名人であった山本勘助から直々に仕込まれた事もあり、他の追随を許さない。ここ海津城の縄張りも、虎綱が設計した。この時代には珍しい完全な平城だったが、北西の千曲川を天然の水堀と見立て、更にそこから水を引いて城の三方を水堀で覆い、城の防御力を格段に高めた。
つまり、海津城は、四方を完全に水で囲った、平城ながら堅固極まる要塞だったのである。
――だが、
それ程までに堅固な城に籠もり、更に、千曲川を渡河できるふたつの渡しを掌握しながらも、義信と虎綱をはじめとした武田将兵の胸中には、漠然とした不安の靄がかかっている。
そこまで思わされる強烈な威圧感が、あの“毘の字の旗”の下で采配を振るう上杉輝虎というただひとりの男から、ひしひしと感じられたのである。
だが、虎綱は、敢えてその顔に柔和な微笑みを浮かべつつ、義信に言った。
「――ですが、如何に上杉輝虎自身が参ったとしても、そうそうこの海津城には手を出せませぬ。広瀬と雨宮の両渡しがこちらの手にある限り、上杉軍は東西南方面から、この城を囲む事は能いませぬ。唯一、奴らが直接接触でき得る北西の搦手口も、その前に広い千曲川の流れがありますからな。河を渡り切って攻め寄せる事は難しいでしょう」
「――うむ」
「まあ、更に申せば……この戦、勝つ必要もございませぬ」
「……勝つ必要も無い?」
「はい」
と、虎綱は、東の方へ目を移しながら言葉を継いだ。
「お屋形様が我々に課されたお役目は、あくまで、箕輪城が陥ちるまで、上杉軍の足をこの地に止める事でございますからな。遅くとも、あと一週間を耐えれば良いだけです」
「一週間……そのくらいで良いのか?」
「真田殿が、この地にいらっしゃる……それは、もう箕輪攻めに余計な小細工は必要ない。つまり、強攻めだけで十分――そういう事でございましょう。であれば、お屋形様が直々に城攻めを指揮なさったら、いかな要害といえど、数日の命かと」
虎綱の言葉に、義信は小さく頷き、彼の顔を見て言った。
「つまり……我らは、箕輪落城の報せが来るまで、亀のように手足を縮めて、城に閉じこもっておるだけで良い――そういう事だな」
「左様にござる」
義信に笑顔を向けて、虎綱は言った。
「――無論、敵も雨宮と広瀬の渡しを奪取せんと、どちらかの渡しに集中して苛烈に攻めかかってくる事は予想できますが、雨宮は、典厩様と飯富様率いる赤備え衆が守り、広瀬は、稀代の策士・真田殿がいらっしゃるのです。いかな上杉輝虎といえど、そう易々とはいかぬかと」
「そうだな……」
義信は、虎綱の言葉に賛意を示すと、太い眉をキリリと上げる。
「だが、油断は禁物だ。上杉方の動きには逐一耳目を欹てて、必要とあらば遅滞なく海津城の兵を割いて助勢に向かわせられる体勢を整えておくようにしておけ。――頼むぞ、香坂」
「はっ! 元より、承知仕ってござる」
義信の命に、虎綱は恭しく頭を下げた。
そして、
(……三年前より、物腰が一段とお屋形様に似てこられた。これは、将来が楽しみだ――)
と、心中で秘かに舌を巻いた。
◆ ◆ ◆ ◆
「善光寺より押し出してきた上杉軍は、八幡原に陣を構えた由に御座います!」
と、物見からの報告を受けた信繁は、馬上で「御苦労!」と簡潔に応え、大きく頷いた。
彼の目の前では、足軽衆が汗だくになりながら、切り出した丸太を交差させ、縄できつく結わえてゆく作業に精を出している。
雨宮の渡しを守る為の、即席の逆茂木を作っているのだ。
武田信繁と飯富虎昌が率いる、雨宮の渡しの守備部隊は、広瀬の渡しの隊とは違い、渡しの北岸に陣を敷いていた。
これは、足軽や弓兵の比率が多い広瀬の隊より、機動力に優れた騎馬衆の比率が高く、それに加えて、赤備え衆の存在があった為だ。
川の中や対岸で敵を迎え撃つより、騎馬隊の特徴を生かせる、広い草地を縦横無尽に走り回る戦い方の方が、隊としての攻撃力が上がるという判断である。
「……輝虎めは、どう動きましょうな?」
信繁の傍らへ馬を寄せてきて、そう尋ねたのは飯富虎昌だ。信繁は、虎昌の顔をチラリと一瞥すると、静かに答える。
「本気で海津城を獲るつもりならば、当然、雨宮か広瀬のどちらかに戦力を集中させてくるだろうな。……海津を本気で落とすつもりならな」
「――そうはならないと?」
どこか含みを持たせたような信繁の言い方に、虎昌は片眉を上げた。
信繁は、「ああ」と頷くと、言葉を継ぐ。
「輝虎には、此度の戦で、本気でこの地を奪おうという気は無いように思える。……というか、寧ろ、したくても出来ぬといった所かの」
「……確かに。我らの倍とはいえど、敵の兵力は一万強――。仮に、我らを打ち破ったとしても、その後にこの地を保有し続ける為には、明らかに数が足りませぬな」
信繁の言葉に相槌を打ったのは、武藤昌幸だ。
「――乱破からの報せでも、今のところ、越後からの増援が来る兆しは見られないようですし」
「では、今回の上杉軍の出張は、我らの予測通り、あくまでも箕輪城攻めの抑止の為だけであったという事か……」
「いや……」
虎昌の推測に、首を振って異議を唱えたのは、信繁だった。
「少なくとも、当初は箕輪城への牽制に加えて、海津城の奪取をも企図していたのだと思う。我らも含めて、武田全軍で箕輪城に向かっていたならば、上杉の侵攻に気付いた我らが川中島に至るまで、二・三日の空隙が出来ていたはずだ。輝虎は、その間にふたつの渡しを掌握した上で、海津城を一気に攻め落とす気だったのではないか?」
「成る程――。そうして海津城を抑えた上で、妻女山と皆神山に兵を配せば、葛尾方面から海津城に向かおうとする我々を、山頂から挟撃できる訳か。……なるほど。それならば、一万の軍勢でも、海津城と川中島以北の維持は十分に叶いますな」
得心がいったと、顎髭を撫でながら頷く虎昌に対して、昌幸は浮かぬ顔で首を捻る。
「……しかし、それならば。その当初の目算が外れた上で、何故に上杉軍は、敢えて八幡原まで軍を押し出してきたのでしょうか? 利無しとなったのならば、さっさと軍を纏めて引き上げるのが合理的でござろう?」
「そうはいかぬわ」
昌幸の疑問に、虎昌はきっぱりと言い切った。
「上杉方は、如何に外様だったといえど、村上義清という一隊の侍大将を喪っておる。その借りも返さずに引き上げては、面子に関わるわ」
「――確かに。仰る通りですな……」
昌幸は、虎昌の言葉に感じ入ったように膝を叩いた。
信繁も、同じく頷きながらも、心中では秘かに首を傾げた。
(……果たして、それだけか?)
彼は、なだらかな八幡原の向こうに微かに見える、上杉軍の旗幟に目を細めながら考える。
(――実のところは、単に戦いたいだけなのではないか? 上杉輝虎自身が、我らと……)
北に千曲川の流れを望む海津城は、やにわに慌ただしさを増した。
「来たか……!」
海津城本丸天守台から、千曲川の対岸を見据えながら、武田方の総大将である武田太郎義信は呻くように呟いた。
彼の視線の先には、黒光りする鎧を纏った武者の群れが、整然と隊列を整えていた。
軍列の中ではためく幟旗には、竹と向かい合った二羽の雀をあしらった家紋が染め抜かれている。
言うまでもなく、上杉家の家紋である。
そして、軍列の中央で風に靡く、一際大きな軍旗――それには、大きく“毘”の一文字が書き抜かれていた。
「遂に、“軍神”上杉輝虎のお出まし――という訳ですな……!」
義信の傍らに立つ眉目秀麗な男が、緊張した面持ちで頷く。
――彼の名は、香坂弾正忠虎綱。この海津城の城代である。
元は甲斐の豪農の息子であったが、国主武田晴信に見出され、奥近習として彼に仕えた。その類い稀なる美貌により、晴信から寵童としても愛されたが、百騎を預かる侍大将――そして、北信濃の最重要拠点である海津城を任されているのは、国主信玄の寵愛によるものではなく、偏に彼の実力によるものであった。
彼の用兵術、交渉術、そして築城術は、武田家臣の中でも群を抜いて優れている。
特に、築城術に関しては、縄張りの名人であった山本勘助から直々に仕込まれた事もあり、他の追随を許さない。ここ海津城の縄張りも、虎綱が設計した。この時代には珍しい完全な平城だったが、北西の千曲川を天然の水堀と見立て、更にそこから水を引いて城の三方を水堀で覆い、城の防御力を格段に高めた。
つまり、海津城は、四方を完全に水で囲った、平城ながら堅固極まる要塞だったのである。
――だが、
それ程までに堅固な城に籠もり、更に、千曲川を渡河できるふたつの渡しを掌握しながらも、義信と虎綱をはじめとした武田将兵の胸中には、漠然とした不安の靄がかかっている。
そこまで思わされる強烈な威圧感が、あの“毘の字の旗”の下で采配を振るう上杉輝虎というただひとりの男から、ひしひしと感じられたのである。
だが、虎綱は、敢えてその顔に柔和な微笑みを浮かべつつ、義信に言った。
「――ですが、如何に上杉輝虎自身が参ったとしても、そうそうこの海津城には手を出せませぬ。広瀬と雨宮の両渡しがこちらの手にある限り、上杉軍は東西南方面から、この城を囲む事は能いませぬ。唯一、奴らが直接接触でき得る北西の搦手口も、その前に広い千曲川の流れがありますからな。河を渡り切って攻め寄せる事は難しいでしょう」
「――うむ」
「まあ、更に申せば……この戦、勝つ必要もございませぬ」
「……勝つ必要も無い?」
「はい」
と、虎綱は、東の方へ目を移しながら言葉を継いだ。
「お屋形様が我々に課されたお役目は、あくまで、箕輪城が陥ちるまで、上杉軍の足をこの地に止める事でございますからな。遅くとも、あと一週間を耐えれば良いだけです」
「一週間……そのくらいで良いのか?」
「真田殿が、この地にいらっしゃる……それは、もう箕輪攻めに余計な小細工は必要ない。つまり、強攻めだけで十分――そういう事でございましょう。であれば、お屋形様が直々に城攻めを指揮なさったら、いかな要害といえど、数日の命かと」
虎綱の言葉に、義信は小さく頷き、彼の顔を見て言った。
「つまり……我らは、箕輪落城の報せが来るまで、亀のように手足を縮めて、城に閉じこもっておるだけで良い――そういう事だな」
「左様にござる」
義信に笑顔を向けて、虎綱は言った。
「――無論、敵も雨宮と広瀬の渡しを奪取せんと、どちらかの渡しに集中して苛烈に攻めかかってくる事は予想できますが、雨宮は、典厩様と飯富様率いる赤備え衆が守り、広瀬は、稀代の策士・真田殿がいらっしゃるのです。いかな上杉輝虎といえど、そう易々とはいかぬかと」
「そうだな……」
義信は、虎綱の言葉に賛意を示すと、太い眉をキリリと上げる。
「だが、油断は禁物だ。上杉方の動きには逐一耳目を欹てて、必要とあらば遅滞なく海津城の兵を割いて助勢に向かわせられる体勢を整えておくようにしておけ。――頼むぞ、香坂」
「はっ! 元より、承知仕ってござる」
義信の命に、虎綱は恭しく頭を下げた。
そして、
(……三年前より、物腰が一段とお屋形様に似てこられた。これは、将来が楽しみだ――)
と、心中で秘かに舌を巻いた。
◆ ◆ ◆ ◆
「善光寺より押し出してきた上杉軍は、八幡原に陣を構えた由に御座います!」
と、物見からの報告を受けた信繁は、馬上で「御苦労!」と簡潔に応え、大きく頷いた。
彼の目の前では、足軽衆が汗だくになりながら、切り出した丸太を交差させ、縄できつく結わえてゆく作業に精を出している。
雨宮の渡しを守る為の、即席の逆茂木を作っているのだ。
武田信繁と飯富虎昌が率いる、雨宮の渡しの守備部隊は、広瀬の渡しの隊とは違い、渡しの北岸に陣を敷いていた。
これは、足軽や弓兵の比率が多い広瀬の隊より、機動力に優れた騎馬衆の比率が高く、それに加えて、赤備え衆の存在があった為だ。
川の中や対岸で敵を迎え撃つより、騎馬隊の特徴を生かせる、広い草地を縦横無尽に走り回る戦い方の方が、隊としての攻撃力が上がるという判断である。
「……輝虎めは、どう動きましょうな?」
信繁の傍らへ馬を寄せてきて、そう尋ねたのは飯富虎昌だ。信繁は、虎昌の顔をチラリと一瞥すると、静かに答える。
「本気で海津城を獲るつもりならば、当然、雨宮か広瀬のどちらかに戦力を集中させてくるだろうな。……海津を本気で落とすつもりならな」
「――そうはならないと?」
どこか含みを持たせたような信繁の言い方に、虎昌は片眉を上げた。
信繁は、「ああ」と頷くと、言葉を継ぐ。
「輝虎には、此度の戦で、本気でこの地を奪おうという気は無いように思える。……というか、寧ろ、したくても出来ぬといった所かの」
「……確かに。我らの倍とはいえど、敵の兵力は一万強――。仮に、我らを打ち破ったとしても、その後にこの地を保有し続ける為には、明らかに数が足りませぬな」
信繁の言葉に相槌を打ったのは、武藤昌幸だ。
「――乱破からの報せでも、今のところ、越後からの増援が来る兆しは見られないようですし」
「では、今回の上杉軍の出張は、我らの予測通り、あくまでも箕輪城攻めの抑止の為だけであったという事か……」
「いや……」
虎昌の推測に、首を振って異議を唱えたのは、信繁だった。
「少なくとも、当初は箕輪城への牽制に加えて、海津城の奪取をも企図していたのだと思う。我らも含めて、武田全軍で箕輪城に向かっていたならば、上杉の侵攻に気付いた我らが川中島に至るまで、二・三日の空隙が出来ていたはずだ。輝虎は、その間にふたつの渡しを掌握した上で、海津城を一気に攻め落とす気だったのではないか?」
「成る程――。そうして海津城を抑えた上で、妻女山と皆神山に兵を配せば、葛尾方面から海津城に向かおうとする我々を、山頂から挟撃できる訳か。……なるほど。それならば、一万の軍勢でも、海津城と川中島以北の維持は十分に叶いますな」
得心がいったと、顎髭を撫でながら頷く虎昌に対して、昌幸は浮かぬ顔で首を捻る。
「……しかし、それならば。その当初の目算が外れた上で、何故に上杉軍は、敢えて八幡原まで軍を押し出してきたのでしょうか? 利無しとなったのならば、さっさと軍を纏めて引き上げるのが合理的でござろう?」
「そうはいかぬわ」
昌幸の疑問に、虎昌はきっぱりと言い切った。
「上杉方は、如何に外様だったといえど、村上義清という一隊の侍大将を喪っておる。その借りも返さずに引き上げては、面子に関わるわ」
「――確かに。仰る通りですな……」
昌幸は、虎昌の言葉に感じ入ったように膝を叩いた。
信繁も、同じく頷きながらも、心中では秘かに首を傾げた。
(……果たして、それだけか?)
彼は、なだらかな八幡原の向こうに微かに見える、上杉軍の旗幟に目を細めながら考える。
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