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第一部八章 陰謀
酒宴と懸念
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信繁との会見後、織田家の使者ふたりは直ちに府中を発った。……いや、体よく“逐われた”と言うべきか。
浅利信種に加え、深志城代馬場美濃守信春が指揮する兵によって、厳重に“護衛”された織田家の使者は、彼らが強く希望していた、当主の信玄本人との面会は叶わずじまいのまま、虚しく尾張へと帰っていったのだった――。
その日の夜、躑躅ヶ崎館の正門脇に立つ御番所の一室に、馥郁たる酒の香りが立ちこめた。
「いやいや、久しいな、源五郎!」
そう言って、盃を一気に呷ったのは、武田家の近習の一人、金丸平八郎であった。
「そうだな。俺が典厩様付きの与力になって以来だから――大体一年ぶりくらいか?」
平八郎の干した杯に、すかさず酒を注ぎながら、武藤昌幸は微笑む。
「ほう……もう、それ程になるか! いや、時の流れは早いものだ!」
「……何を爺臭い事を申しておるのだ。お前も、まだ二十やそこらであろうに」
豪快に笑う平八郎に、思わず苦笑を浮かべつつ、昌幸は盃を傾けた。
「爺臭いとは、お主にだけは言われたくないのう。このオレよりもふたつも年下のクセに、眉根に皺を寄せて、小難しい事ばかりほざくようなお主にはのう!」
昌幸の言葉に、平八郎は豪快な笑い声を上げる。
彼は、再び盃を呷ると、早くも赤らんできた顔を昌幸に近づけて言った。
「……それにしても、驚かされたな。先月の論功行賞でのお主には――な」
「……何の話だ?」
昌幸は、近付いた平八郎の頭を片手で押しのけ、肴の梅干しを一息に頬張る。
そんな彼に、平八郎は言った。
「そりゃあ……。川中島での上杉衆との一戦、お主は雨宮の退き戦で大きな手柄を挙げた。その手柄により、城持ちになれるという話だったのに、お主はそれをあっさり断ったではないか。本来ならば、武田六郎次郎様が任ぜられた小諸城は、お主の城になるはずだったのだぞ?」
「ふん……城などに興味は無いさ」
と、昌幸はすまし顔で頭を振った。彼は顔を上げると、口の中に含んだ梅干しの種を、口中でくるくると転がしながら、言葉を継ぐ。
「第一、小諸城などに行ってしまったら、周りにはふたりの兄上に加え、箕輪にはあの親父殿がふんぞり返っておるのだぞ? 考えただけで気鬱がするわ! そんな所に飛ばされるくらいなら、与力のままで典厩様のお側に仕えていた方が、よっぽど良い」
「出た。源五郎の『典厩様』!」
平八郎は、からかう様な口ぶりでそう言うと、徳利から自分の盃に白濁した酒を注いだ。
「お主の典厩様狂いは、近習だった頃から変わっておらぬなぁ……。で、どうじゃ? 典厩様の傍らに仕え始めて、そろそろ一年だが……。本当に、典厩様の与力という立場は、城持ちと天秤にかけられ得るものなのか?」
「かけるまでもない」
昌幸は、平八郎の問いかけに、一瞬の逡巡無くキッパリと答えた。
「典厩様は、実にお仕えし甲斐のある御仁だ。日々隣に侍るだけで、学ばされる事が多い。この上なく得がたい経験だ。……まあ、城を持ちたくないとは言わぬが、少なくとも現在は、典厩様の元で働くのが最善だと確信しておる」
「成程なあ」
平八郎は、感じ入った顔で頷いた。
「そこまでキッパリと言い切られると、最早何も言えぬな。……いずれにせよ、充実しておるようで何よりだ」
「……そういうお前は、どうなのだ? お屋形様のお側に仕えていて――」
「……オレか?」
平八郎は、目を丸くしたが、苦笑混じりの表情を浮かべる。
「そうだなぁ。オレも、日々張り合いを感じてお仕えしておる。我がお屋形様も、典厩様に負けず劣らず優れた御方だ。……と、些か不敬な物言いかな?」
「ふふ、構わぬ構わぬ。ここに居るのは、俺とお前のふたりのみだ」
昌幸は、そう言って目を細めると、自分と平八郎の盃に酒を注ぎ足した。
そして、ふたりはお互いに盃を掲げると、一気に飲み干した。
「ふう~。美味い……」
平八郎は、顔を真っ赤に上気させ、傍らの徳利を持ち上げる。
そして、手酌で酒を注ぎ、盃を満たした濁り酒の香りを堪能しながら、昌幸に訊く。
「この様な、爽やかな口当たりの酒を飲んだのは初めてだ。……一体、これはどこの酒だ、源五郎?」
「ああ……これか?」
昌幸は、ニヤリと笑って答える。
「これは、典厩様が越後から取り寄せた酒だ」
「! ――な? え、越後だとぉ?」
昌幸の答えを聞いた平八郎は、一瞬呆けた表情を浮かべた後、目を飛び出さんばかりに見開いた。
「越後から……それでは、これは敵方の酒だという事か!」
「まあ、そうなるな。――もっとも、典厩様は、『美味い酒に、敵も味方もあるか』と仰って、然程お気にも留めておられぬが」
平八郎が見せた期待通りの反応にほくそ笑みながら、昌幸は漬け物を頬張る。
「どうやら、先月、善光寺の宿坊で召し上がりになった時に、いたく気に入られたようでな。越後の酒造に渡りをつけて、仕入れさせたのが――これよ」
「成程のう……」
平八郎は、感心したように呟くと、また杯を干した。
と、昌幸は、さり気ない様子で平八郎に尋ねた。
「――で、話は戻るが、最近のお屋形様のご様子はどうなのだ? ご容態は……?」
「……ああ、それか」
平八郎は、昌幸の問いかけに、僅かに眉を顰めた。
手にした盃を膳の上に置くと、小さな溜息を吐く。
「正直、あまり良くなっておるようには見えぬ。薬師の煎じた薬を飲んでおるが、時折激しく咳き込まれ……最近では痰に血が混じる事も……」
「! ……痰に血……それは――」
「……ああ」
表情を曇らせた昌幸に、平八郎は暗い顔で頷く。
「我ら近習の中には、もしかしたら……労咳なのではないかと疑う者も居る。――オレもな」
「……労咳」
昌幸は、思わず言葉を詰まらせた。
――労咳とは、現在で言うところの肺結核である。現在では、予防接種や各種薬剤によって対処できる病気であるが、戦国時代においては不治の病として怖れられてきた。
よりによって、武田家の大黒柱である信玄が、その不治の病に冒されているかもしれぬ――。ゾッとする話に、ふたりは言葉を失う。
――と、
「……だ、だが! まだ、そうと決まった訳ではない。御典医の板坂法印殿の看立てもまだだ。……なぁに、きっと大丈夫だ。おれたちの取り越し苦労に決まっておる!」
平八郎が上ずった声で言った。
しかし、昌幸には解った。彼の言葉が、あくまでも自分の不安を追い払い、空元気を出す為に吐いたに過ぎない事を。
――だが、彼は、それを殊更に指摘するような事はせず、
「……そうだな。きっと……そうだ」
自分自身にも暗示をかけるように、頻りに頷きながら呟くのだった。
浅利信種に加え、深志城代馬場美濃守信春が指揮する兵によって、厳重に“護衛”された織田家の使者は、彼らが強く希望していた、当主の信玄本人との面会は叶わずじまいのまま、虚しく尾張へと帰っていったのだった――。
その日の夜、躑躅ヶ崎館の正門脇に立つ御番所の一室に、馥郁たる酒の香りが立ちこめた。
「いやいや、久しいな、源五郎!」
そう言って、盃を一気に呷ったのは、武田家の近習の一人、金丸平八郎であった。
「そうだな。俺が典厩様付きの与力になって以来だから――大体一年ぶりくらいか?」
平八郎の干した杯に、すかさず酒を注ぎながら、武藤昌幸は微笑む。
「ほう……もう、それ程になるか! いや、時の流れは早いものだ!」
「……何を爺臭い事を申しておるのだ。お前も、まだ二十やそこらであろうに」
豪快に笑う平八郎に、思わず苦笑を浮かべつつ、昌幸は盃を傾けた。
「爺臭いとは、お主にだけは言われたくないのう。このオレよりもふたつも年下のクセに、眉根に皺を寄せて、小難しい事ばかりほざくようなお主にはのう!」
昌幸の言葉に、平八郎は豪快な笑い声を上げる。
彼は、再び盃を呷ると、早くも赤らんできた顔を昌幸に近づけて言った。
「……それにしても、驚かされたな。先月の論功行賞でのお主には――な」
「……何の話だ?」
昌幸は、近付いた平八郎の頭を片手で押しのけ、肴の梅干しを一息に頬張る。
そんな彼に、平八郎は言った。
「そりゃあ……。川中島での上杉衆との一戦、お主は雨宮の退き戦で大きな手柄を挙げた。その手柄により、城持ちになれるという話だったのに、お主はそれをあっさり断ったではないか。本来ならば、武田六郎次郎様が任ぜられた小諸城は、お主の城になるはずだったのだぞ?」
「ふん……城などに興味は無いさ」
と、昌幸はすまし顔で頭を振った。彼は顔を上げると、口の中に含んだ梅干しの種を、口中でくるくると転がしながら、言葉を継ぐ。
「第一、小諸城などに行ってしまったら、周りにはふたりの兄上に加え、箕輪にはあの親父殿がふんぞり返っておるのだぞ? 考えただけで気鬱がするわ! そんな所に飛ばされるくらいなら、与力のままで典厩様のお側に仕えていた方が、よっぽど良い」
「出た。源五郎の『典厩様』!」
平八郎は、からかう様な口ぶりでそう言うと、徳利から自分の盃に白濁した酒を注いだ。
「お主の典厩様狂いは、近習だった頃から変わっておらぬなぁ……。で、どうじゃ? 典厩様の傍らに仕え始めて、そろそろ一年だが……。本当に、典厩様の与力という立場は、城持ちと天秤にかけられ得るものなのか?」
「かけるまでもない」
昌幸は、平八郎の問いかけに、一瞬の逡巡無くキッパリと答えた。
「典厩様は、実にお仕えし甲斐のある御仁だ。日々隣に侍るだけで、学ばされる事が多い。この上なく得がたい経験だ。……まあ、城を持ちたくないとは言わぬが、少なくとも現在は、典厩様の元で働くのが最善だと確信しておる」
「成程なあ」
平八郎は、感じ入った顔で頷いた。
「そこまでキッパリと言い切られると、最早何も言えぬな。……いずれにせよ、充実しておるようで何よりだ」
「……そういうお前は、どうなのだ? お屋形様のお側に仕えていて――」
「……オレか?」
平八郎は、目を丸くしたが、苦笑混じりの表情を浮かべる。
「そうだなぁ。オレも、日々張り合いを感じてお仕えしておる。我がお屋形様も、典厩様に負けず劣らず優れた御方だ。……と、些か不敬な物言いかな?」
「ふふ、構わぬ構わぬ。ここに居るのは、俺とお前のふたりのみだ」
昌幸は、そう言って目を細めると、自分と平八郎の盃に酒を注ぎ足した。
そして、ふたりはお互いに盃を掲げると、一気に飲み干した。
「ふう~。美味い……」
平八郎は、顔を真っ赤に上気させ、傍らの徳利を持ち上げる。
そして、手酌で酒を注ぎ、盃を満たした濁り酒の香りを堪能しながら、昌幸に訊く。
「この様な、爽やかな口当たりの酒を飲んだのは初めてだ。……一体、これはどこの酒だ、源五郎?」
「ああ……これか?」
昌幸は、ニヤリと笑って答える。
「これは、典厩様が越後から取り寄せた酒だ」
「! ――な? え、越後だとぉ?」
昌幸の答えを聞いた平八郎は、一瞬呆けた表情を浮かべた後、目を飛び出さんばかりに見開いた。
「越後から……それでは、これは敵方の酒だという事か!」
「まあ、そうなるな。――もっとも、典厩様は、『美味い酒に、敵も味方もあるか』と仰って、然程お気にも留めておられぬが」
平八郎が見せた期待通りの反応にほくそ笑みながら、昌幸は漬け物を頬張る。
「どうやら、先月、善光寺の宿坊で召し上がりになった時に、いたく気に入られたようでな。越後の酒造に渡りをつけて、仕入れさせたのが――これよ」
「成程のう……」
平八郎は、感心したように呟くと、また杯を干した。
と、昌幸は、さり気ない様子で平八郎に尋ねた。
「――で、話は戻るが、最近のお屋形様のご様子はどうなのだ? ご容態は……?」
「……ああ、それか」
平八郎は、昌幸の問いかけに、僅かに眉を顰めた。
手にした盃を膳の上に置くと、小さな溜息を吐く。
「正直、あまり良くなっておるようには見えぬ。薬師の煎じた薬を飲んでおるが、時折激しく咳き込まれ……最近では痰に血が混じる事も……」
「! ……痰に血……それは――」
「……ああ」
表情を曇らせた昌幸に、平八郎は暗い顔で頷く。
「我ら近習の中には、もしかしたら……労咳なのではないかと疑う者も居る。――オレもな」
「……労咳」
昌幸は、思わず言葉を詰まらせた。
――労咳とは、現在で言うところの肺結核である。現在では、予防接種や各種薬剤によって対処できる病気であるが、戦国時代においては不治の病として怖れられてきた。
よりによって、武田家の大黒柱である信玄が、その不治の病に冒されているかもしれぬ――。ゾッとする話に、ふたりは言葉を失う。
――と、
「……だ、だが! まだ、そうと決まった訳ではない。御典医の板坂法印殿の看立てもまだだ。……なぁに、きっと大丈夫だ。おれたちの取り越し苦労に決まっておる!」
平八郎が上ずった声で言った。
しかし、昌幸には解った。彼の言葉が、あくまでも自分の不安を追い払い、空元気を出す為に吐いたに過ぎない事を。
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