甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第一部九章 愛憎

帰還と手段

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 その日の深更。
 躑躅ヶ崎館を出て、自分の屋敷に帰ってきた信繁と昌幸だったが、その表情は暗かった。
 玄関先まで迎えに出た桔梗だったが、ふたりのただならぬ様子に何事かあったのを敏感に察し、言葉少なに引き下がる。

「……」
「……」

 自室へ戻る途中の廊下でも、ふたりは言葉を交わす事もなく、難しい顔をして歩を進める。
 そして、奥間に入ると、しっかりと襖を閉める。――万が一にも、中の会話が部屋の外へと漏れ聞こえぬように。
 そして昌幸は、真っ暗になった奥間の隅に立つ燈台の元に屈み込み、慣れた手つきで火を灯し――

「――ッうわっ!」

 思わず悲鳴を上げた。
 その声を聞いた瞬間、すかさず腰の脇差しの柄に手をかける信繁だったが、

「……お主か」

 ホッと安堵の息を漏らすと、その手を離した。
 一方の昌幸は、尻餅をついたままの格好で、顔を真っ赤にして小さく叫ぶ。

「――佐助! 驚かせるな!」
「……驚かせるつもりなど無かったのだがな」

 昌幸の抗議に、部屋の角で蹲っていた佐助は、苦笑いを浮かべた。
 その身に纏う柿渋色の忍装束は、ぐっしょりと濡れそぼっており、更に、衣のあちこちが解れたり裂けたりしている。
 信繁は、彼の元に歩み寄ると片膝をつき、気遣いの眼差しを向けた。

「朝は御苦労だったな、佐助。それにしても、その格好……難儀をしたようだな」
「……何の。大した事は無い」

 信繁の言葉に、無表情のままでぼそりと答える佐助。

「だが……信玄の近習どもだけならいざ知らず、武田の乱破衆までを相手取っての逃走は、正直骨が折れたぞ」

 そう言いながら、昌幸から手渡された手ぬぐいで身体を拭く佐助。

「なかなか見逃してくれなんだから、仕方がないので、斬られたフリをして笛吹川に飛び込み、やっとの事で撒いたのだ。それでこのザマよ」
「ほほう……我が武田の乱破衆を相手取りながら逃げ切るとは、さすがだな」
「……何だ、その言い草は。オレが斬られてしまった方が都合が良かったか?」

 感心する信繁の言葉に、思わずムッとした表情を浮かべて、佐助は睨みつけた。

「ああ……いやいや」

 殺気立つ佐助を前に、信繁は苦笑しながら手を振った。

「さすがに、お屋形様の寝所を襲う曲者が現れたにも関わらず、乱破衆を動かさぬのは怪しまれるからな。『曲者は殺さず、生け捕りにせよ』と命じた上で放ったのだ。だから、安心せい」
「……成る程。だから、執拗に追ってくる割には殺気が感じられなかったのか」

 信繁の釈明に、得心したと頷く佐助。だが、その顔には不満が燻っている。

「まあ……尤も、殺す気でかかってこようが、退ける自信はあるがな……」
「おい、佐助。あまり当家の乱破衆を侮るなよ。『生死問わず』で追えば、たとえお前でも――」
「昌幸……止めよ。そんな事で言い合っても、不毛な事だ」

 不遜な佐助に、ムッとして張り合おうとする昌幸を、信繁は呆れ顔で制する。
 ――と、佐助が訝しげな表情を浮かべ、口を開いた。

「……何か、あったのか? 顔色が優れぬようだが」
「……まあ、な」

 佐助の鋭い観察眼の前に、言葉を濁らせる信繁。
 その様子を見た佐助が、小さく頷く。

「――例の書状絡みの件……だな」
「……分かるのか?」

 信繁が僅かに眉を動かす。佐助は「まあな」と呟くと、じっと信繁の顔を見つめた。

「乗りかかった船だ。……次の命は何だ?」
「……」

 佐助の言葉に、信繁は僅かに逡巡する様子を見せたが、覚悟を決めたように目を上げると、乾いた唇を舌で湿した。
 そして、僅かに揺らぐ声で、静かに訊く。

「佐助……お主、薬の調合は出来るか?」
「薬……?」

 昌幸は、突然脈絡もなく妙な事を佐助に尋ねた信繁の顔を、怪訝そうに見た。
 一方、訊かれた佐助は、表情を変える事もなく淡々と答える。

「……無論だ。――とは言っても、出来るのは、金創 (切り傷)薬や腹下しの丸薬といった、簡単なものだけだがな。さすがに、越中の薬座が取り扱うようなものは――」
「では――毒はどうだ?」
「……毒?」

 佐助は、信繁の重ねての問いに、さすがに眉を顰めた。が、それも一瞬の事で、すぐに無表情に戻り、小さく頷く。

「ああ……出来る」
「――ならば」

 その答えを聞いた信繁は、青ざめた顔を佐助に寄せ、更に声を顰めて尋ねる。

「例えば――完全な無味無臭の毒といったものは……?」
「て――典厩様? それは――」

 何かを察した昌幸が、顔を蒼白にして声をかけるが、信繁は真剣な表情で佐助に詰め寄り、昌幸の声も聞こえていない――或いは、聞こえている上で、敢えて無視を決め込んでいるようだった。
 そんな信繁に向け、佐助は小さくかぶりを振った。

「――さすがに、それは無い。どうしても、苦みや鼻をつく臭いが残る。……だから」

 そこまで言うと、佐助は一旦言葉を切り、信繁の顔を窺うように仰ぎ見ながら静かに言葉を継いだ。

「――オレたち乱破は、すぐにそれとは分からぬように、別のものに混ぜる。……酒や酢の物といった、苦みや酸味、そして香りが強いものにな」
「……そうか」

 信繁は、佐助の答えを聞くと、強張った表情のまま頷いた。
 そして、静かな――それでいて、断固として強い意志を滲ませた声で命じる。

「なれば……お主に命ずる。可能な限り無味無臭で、即効性の強い毒を………用意してくれ」
「――典厩様! まさか……」

 信繁の命に、目を大きく見開いた昌幸が、思わず叫んだ。

「……案ずるな、昌幸」

 そこで始めて、信繁は昌幸の方に振り返り、安心させるように微笑みを浮かべてみせた。――が、その笑みは弱々しく、表情は固い。

「あくまでも、最悪の場合に備えてだ。儂とて、使いたくはない。――出来ればな」

 そう言うと、信繁は、その表情を引き締める。

「……だが、あの御方……父上が、武田に害を及ぼすようながあるのならば、儂は躊躇せぬ。どの様な汚名を着る事になろうとも、手段を選ばず、武田家を守る行動を第一義とする。――それが、お屋形様より武田家を預かる副将として、負うべき責務だからな……」
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