甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第一部九章 愛憎

酒宴と剣舞

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 日が落ち、夜の闇がとっぷりと辺りを覆い始めた頃――。
 躑躅ヶ崎館の大広間には煌々と明かりが灯り、大紋に身を包んだ男達が互いに酒を酌み交わしていた。
 十三代将軍・足利義輝が差し遣わした使者を歓待する宴である。
 ……だが、居並ぶ武田家家臣達の顔は、どこか固い。
 緊張を湛えた顔で、言葉少なに、ただ杯を干している。
 そして、皆一様に、横目で上座の方をちらりちらりと窺っていた。
 上座には、ふたりの男が並んで座っている。
 向かって右側に座る若い方の男は、正使である細川兵部大輔藤孝。彼は、柔和な笑顔を浮かべつつ、膳に盛られた甲斐の珍味に舌鼓を打っている。
 ――だが、彼よりも圧倒的に武田の臣達の注目を浴びていたのは、その隣――向かって左側でどっかと腰を下ろした僧体の老人――無人斎道有こと、武田信虎その人であった。
 ――と、

「……かぁーっ! 相変わらず不味いのお、甲斐ここの酒は!」

 信虎は、突然声を荒げ、持っていた盃を膳に叩きつけた。
 陶器が割れる甲高い音が宴の場に響き渡り、居並ぶ者たちは驚いた顔をして、口に運ぼうとした盃を持つ手を止める。
 凍りついた空気の中、赤ら顔の信虎は嘲笑を浮かべる。

「苦みばかりがやたらと強い。まるで灰汁でも飲んでおるようじゃ! ここに居る時は気付かずに飲んでおったが、京の澄み酒に慣れてしもうた舌には、もはや毒にしか感じられぬな! ――がっはっはっ!」
「……道有殿!」

 毒づきながら、顔を歪めて哄笑する信虎に、さすがに顔を顰めた藤孝が窘める。

「……武田殿が心を尽くして、我らの為に用意なされた宴の場でござるぞ! 貴殿とご子息たちとの間に、嘗て悶着があったというのは存じておるが、公方様の使者として、もう少し言葉を慎みなされよ……!」
「――これはしたり!」

 藤孝の注意に、信虎は大袈裟に畏れ入り、剃り上げた頭をペチリと叩いた。

「細川殿、これは申し訳ない! 何せ、の臣どもが、どいつもこいつも陰気者揃いで、せっかくの宴が盛り上がらぬゆえ、冗談で場を和ませようと思ったまでにござる」
「さ……左様であったか……」
「……されど――」

 信虎の言葉に、白々しさを感じつつも、微かに頷いた藤孝に顔を近づけて、信虎は顔を歪ませた。

「……此奴らの“心”とやらを信じてはなりませぬぞ。何せ――此奴らを信じて疑わなかった当主が、他国へ出掛けた隙に国を乗っ取り、主を――実の父を流浪の身に追いやって、平気な顔をしておる者どもですからなぁ」
「――ッ!」

 信虎の言葉を耳にした信繁や信廉、そして、義信の傍らに着座していた飯富の顔色が変わった。

「……道有殿!」

 顔色を喪った彼らを見た藤孝が、慌てて信虎を窘める。
 そんな藤孝の顔を見下し、微かに鼻で嗤うと、おもむろに信虎は立ち上がった。

「各々方、興を削ぐような事を申して、相済まなんだな! あまりにも宴が盛り上がらぬゆえの戯言であった。赦せよ!」

 そう、大音声で宣うと、傍らに置いていた太刀を手に取る。

「っ!」

 宴の席の空気が一気に張り詰めた。家臣達は、己の差料に思わず目を遣る。
 ……無理も無い。
 かつて、酒に酔った信虎がで、酒席に居並んでいた家臣を斬り捨てた事があったからだ。この場にいる家臣達の中で当時の事を知る者は、飯富虎昌を含め数人しかいないが、父親や先達から当時の事を聞いている者は多い。
 その事実を思い出した武田の家臣達は、一様に表情を固くして、固唾を呑んで信虎の出方を窺う。
 ――一方の信虎は、そんな宴席の張り詰めた空気を知ってか知らずか、満面の薄笑みを湛えながら、太刀の柄をグッと握ると、宴席の場をゆっくりと睥睨した。

「――お詫びに、このワシが直々に、神楽を舞いて遣わそうぞ!」

 そう、厳かに言い放ちながら、スラリと太刀を抜き放った。
 そして、

「おい、次郎。笛を吹け」

 顎をしゃくって、信繁に促す。

「……はっ」

 信繁は、突然の指名に不意を衝かれて、思わずその隻眼を見開いたが、気を取り直してすぐに頷くと、近習に笛を持ってこさせた。

「……よし」

 信虎は、信繁が笛を口に当てるのを見ると、ニヤリと笑い、大きく頷いた。
 それを合図に、信繁が静かに笛に息を送り始める。
 細く長い笛の音が、宴席の空気を漂い始めた。
 その音に合わせ、表情を引き締めた信虎は、摺り足で広間の中央へ進み出ながら太刀をゆっくりと振り、優雅に舞い始める。
 どこかもの悲しい笛の音に乗り、虚空に向けて太刀を振るう。その姿は、見る者を圧倒するような凄味に満ちていた。

「おお……」

 警戒していた家臣達が表情を緩め、思わず感嘆の声を上げる。場の空気が、やや和んだ。
 ――が、

「――ッ!」

 突然、信虎の動きが荒くなった。
 彼の足運びは、摺り足では無く、大地を踏みしめるような激しい動きに変わった。それに合わせて、振るう太刀の一閃一閃も鋭くなり、剣呑な音を鳴らしながら、刃が空気を切る。
 その剣閃の鋭さに、近くに座っていた家臣が思わず身を仰け反らせる。その鼻先を、信虎の太刀の切っ先が掠めた。

「う――うおっ!」

 家臣達の間から、悲鳴にも似た声が漏れるが、信虎はを止めない。いや――ますますその動きを激しくさせ、その顔には嗜虐的な微笑を浮かべている。
 そして、信虎が太刀を振るいながら、徐々に上座の方へと近付いてきた。彼の進む先には、顔面を蒼白にした義信が――。

(……まずい!)

 信虎の目に殺気を感じた信繁は、笛を吹く手を止めようとした
 ――その時、

「――道有公! 拙者も共に舞っても宜しいか?」

 そう叫んで、敢然と立ち上がったのは、義信の傍らに控えていた飯富虎昌だった。
 彼は、信繁の方を見て小さく頷くと、腰に差していた扇子を広げ、信虎の前に立ち塞がり、そのまま舞い始めた。
 信虎の振る太刀の軌道が義信に向かうのを塞ぐように、その身体を動かし、尚且つ、己の身が斬られぬように上手く躱しながら、泰然とした仕草で舞う。
 そして――、

「……信虎公。お見事な神楽で御座った」
「……」

 一曲を吹き切った信繁は、静かに口から笛を離し、信虎と虎昌は僅かに肩を上下に揺らしながら、その動きを止めた。
 してやったりといった、晴れ晴れとした顔つきの虎昌とは対照的に、信虎の顔は青黒く染まり、憮然とした顔で虎昌を睨みつけた。

「……す、素晴らしい舞であったぞ! 道有殿! それに、飯富殿も!」

 空気を読んだ藤孝が、引き攣った笑顔を浮かべて賞賛の声を上げ、武田の臣達も、それに倣って力の限りに手を叩く。
 だが、信虎の仏頂面は、ますます深くなるばかりだった。
 彼は、

「……フン!」

 と、忌々しげに吐き捨てると、憤然とした顔で自分の席に戻った。
 そして、それ以降は黙りこくったまま、只管ひたすら酒を呷るだけだった。
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