甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
116 / 263
第二部一章 進撃

叔母と姪

しおりを挟む
 「……ッ!」

 凛と紡がれたつやの声を聞いた遠山家の家臣たちが、再びざわつく。
 だが、それは先ほど上がった驚愕のどよめきとは少し違う、どこか腑に落ちたというような響きを孕んだ、静かなざわつきであった。
 その違いを敏感に感じ取った信繁が、不思議に思いながら眉を顰める。
 と、彼の背後に虎繁がにじり寄り、耳元でそっと囁きかけた。

「……左馬助様」
「ん……? どうした、伯耆」

 虎繁の囁きに、信繁は前を向いたまま訊き返す。
 そんな彼に、どことなく可笑しさを堪えているような表情を浮かべた虎繁が耳打ちした。

「今、つや殿が口になさった事……なかなかの妙案やもしれませぬぞ」
「妙案? 奥方殿が苗木へ向かい、遠山勘太郎の妻を説き伏せるという……アレがか?」
「左様に御座る」

 信繁の問いかけに、虎繁は小さく頷き、言葉を継ぐ。

「実は……遠山勘太郎殿の妻君めぎみ――琴殿は、かなり御気性の激しい御方でして……。拙者も何度かお目にかかる機会がございましたが……なかなか辟易とさせられました」
「ほう……」

 虎繁の言葉を聞いた信繁は、僅かに眉を上げ、含み笑いを漏らした。

「“武田の猛牛”の二つ名を持つお主ほどの男が辟易させられるとは、なかなかの女傑だな」
「いや……」

 からかい混じりの信繁の言葉に、少しムッとしながら「左馬助様も、お会いになれば分かりますよ……」とぼやいた虎繁は、気を取り直すように咳払いをしてから言葉を続ける。

「……それは、夫である勘太郎殿に対しても同様でして……。その上、琴殿の血筋の事もあって、勘太郎殿は頭が上がらない……まあ、早い話が、勘太郎殿は妻の琴殿の尻に敷かれているという事でして……」
「なるほどな……」

 虎繁の言葉に、信繁は小さく頷いた。
 ――先述したが、苗木城の遠山勘太郎直廉に嫁いだ琴は、尾張の織田信長の妹である。
 つまり、織田家と武田家に両属していた遠山直廉から見ると、妻の琴は主君の妹という事だ。妻とはいえ、あだや疎かには出来ぬ相手である。
 自然じねん、半従属の地方領主でしかない夫の立場は弱くなり、それとは対照的に、主筋である織田家の娘である妻の発言権と影響力は増す……。
 そんな歪な力関係の苗木遠山家が、これまでの両属関係から脱却し、織田か武田を選ばねばならぬと決断を迫られたら――。
 一瞬でそこまで考え到った信繁は、虎繁の顔をチラリと見ると、抑えた声で言った。

「苗木の衆の旗幟が不鮮明な事の理由――それが、遠山勘太郎の妻……信長の妹の意志によるものだという事か」
「……断定は出来ませぬが、可能性は高いかと」

 虎繁は、信繁の呟き声にコクンと頷き、更に言葉を継ぐ。

「で、あれば、先ほどつや殿が申された通りです。苗木をこちら方につかせる為には、勘太郎殿よりも琴殿を説き伏せる事が肝要となります。……ですが」

 そこで虎繁は一旦言葉を切り、先ほどのつやの発言を聞いて唖然としている景任の青ざめた顔を一瞥した。

「――言いづらいですが、琴殿を説得するには、大和守殿では些か力不足かと……」
「……」

 虎繁の言葉に、信繁は無言のまま顎髭を撫でる。
 数年前まで、在番衆として東濃に駐留し、遠山家の人間と交流してきた虎繁の言葉には、的を射ているという説得力があった。
 そして、今日初めて景任と会い、その顔相と人柄を見た信繁自身も、虎繁と同じ事を感じていた。

(どうも、遠山殿は気性が弱いきらいがある。確かにこの調子では、人の命運が末路がかかった交渉事には向かぬであろう……)

 そう考えながら、信繁は顎髭を撫でる指を止める。
 そして、彼の後ろで毅然と控えている甲冑姿の美しい女性へと視線を向けた。
 彼の視線に気付いたつやは、僅かに会釈をしてから、落ち着いた口調で言葉を紡ぐ。

「――武田様もご存知かと思いますが、私と勘太郎殿の御内儀である琴殿は、叔母と姪の間柄にございます」

 彼女の言葉の通りだった。
 つやは、尾張の織田信長の祖父である故・織田弾正だんじょう左衛門尉さえもんのじょう信定の娘であり、信長と琴にとっては叔母にあたる(叔母とはいっても、年齢は信長よりも下であり、琴ともほとんど変わらないが)。
 もちろん、その事を知っていた信繁は、つやの言葉に小さく頷いた。

「……ああ、そうで御座ったな」
「叔母姪の間柄と申しましても、そこまで親密だった訳ではありませぬ。が、かといって、全く知らぬ仲でも御座いませぬ。琴殿も、義理の兄である主人よりも、実際に血が繋がっていて、尾張に居た頃から面識のある私との方が、より気持ちを寛げる事が出来ると思われますが?」
「ふむ……」

 つやの言葉に小さく唸った信繁は、地図の上に目を落とすと、再び顎髭を忙しげに撫で始める。
 そんな彼の顔を切れ長の目で真っ直ぐに見つめながら、つやは「それに……」と続けた。

「琴殿の難しい御気性に関しても、ここに居る誰よりも古い付き合いである私が一番よく解っていると思います。説き伏せる役目としては最適かと」
「……相分かった」

 信繁は、地図の上の『苗木』という文字を隻眼で見据えると、大きく頷く。
 そして、ゆっくりと顔を上げてつやの顔を見つめると、穏やかな声で言った。

「おっしゃる通り、苗木の衆を此方へ引き込む為には、それが一番のようだ。ここは、奥方殿の御力を頼る事にしよう。――遠山殿、まことに相済まぬが、それで宜しいか?」
「あ……」

 信繁の問いかけに、景任は当惑した様子でつやの方を振り返る。そして、彼女が微笑みを浮かべながら小さく首肯したのを見て、諦めた様子で溜息を吐くと、信繁に向かって深々と平伏する。

「……畏まりました。武田様の御意向のままに」
「忝い」

 と、景任に短く謝意を伝えた信繁は、膝に手を置いて、遠山夫妻に向かって深々と頭を下げたのだった。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。 現在1945年夏まで執筆

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...