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第二部二章 駆引
降伏と決断
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「――ッ!」
茂武の呟きを聞いた周囲の将兵の間に、声にならぬどよめきが起きる。
甲斐武田家の当主・信玄の四男である諏訪四郎勝頼。その名は、先年、武田氏が西上野の箕輪城を攻めた際に、初陣にもかかわらず敵将と一騎討ちに及び、見事に敵将の首を挙げたという活躍の噂と共に、ここ美濃の地まで轟いている。
それだけではない。
「た……龍様の縁組の相手となるはずだった諏訪四郎に、退路を阻まれるとはな……」
茂武は、面頬の奥で青ざめた顔を歪ませながら、掠れた声で呻いた。
本来であれば、今頃は武田家と織田家が同盟を結び、その証として、遠山直廉の娘で織田信長の姪である龍が織田家の養女となり、諏訪勝頼に輿入れするはずだったのだ。
龍の織田家養女入りと輿入れに関しては、龍の母である琴が直廉に嫁いだ際に、彼女の侍臣として織田家から苗木城に移って来た者たちが中心となって動いており、矢口茂武もまたそのひとりだった。
彼は、恙なく龍の縁組が成り立てば、遠山家と織田家に多大な貢献を果たしたと讃えられ、苗木城の中で今よりも強い影響力と権力を得られるものと考えていたのだが――昨年の秋を境に、その目算はすっかり狂ってしまう。
武田家はそれまでの親織田路線を唐突に翻し、駿河今川家との絆を維持する方針に舵を切ったのだ。
その為、今川家にとって前当主を討たれた仇敵である織田家と武田家の仲はにわかに緊迫し、いつしか茂武らが推し進めてきた輿入れ話も立ち消えとなってしまったのだった……。
「おのれ……諏訪四郎! 貴様は、ここに及んでもワシの邪魔をしようというのか……ッ!」
茂武は、自分たちの退路に立ち塞がる騎馬武者の群れと、その中央で風にはためく諏訪梶ノ葉の旗印を憎々しげに睨みつける。
甲尾同盟と龍姫の婚姻話が破談となってから約一年――同盟締結後に栄達を約束されていたはずの矢口茂武が、惨めな敗軍の将と成り果てて暗闇の中を逃げ落ち、本来なら龍姫の夫になるはずだった諏訪勝頼が彼の前に立ちはだかるとは……。
(神だか仏だか知らぬが、随分と皮肉な巡り合わせを用意してくれたものだ……)
ふとそう思った茂武は、
「く、くく……」
なんだか無性におかしくなり、口の端を引き攣らせながら嗤い始めた。
「し、信濃殿……?」
そんな彼の横顔を見ながら、周囲の武者たちは訝しげな声を上げる。
――と、その時、前方の騎馬武者の一群から、白馬に騎乗したひとりの武者が前に進み出た。
「――そこの苗木衆に告ぐ!」
脇に手槍を手挟んだ若い武者は、茂武たちの事を油断なく見据えながら、声を張り上げる。
「もはや勝敗は決した! これ以上の抵抗は無意味だぞ! 命が惜しくば、その場で得物を捨てよ! さすれば、我らは妄りにお主らの命を奪ったりはせぬ!」
「……ッ!」
武者の声を聞いた苗木衆たちの間に動揺が広がり、彼らは互いの顔を見合わせた。
そんな苗木衆の当惑と狼狽をよそに、武田の騎馬武者は更に言葉を続ける。
「私は、諏訪家当主・諏訪四郎勝頼である! 我が身体を流れる神氏たる諏訪家の血にかけて、誓って噓偽りは申さぬ! 妙な気を起こさずに、おとなしく降参せよ!」
「……諏訪四郎勝頼……じゃと?」
気が触れたように嗤っていた茂武は、若い武者の声を聞いて正気に返った。
そして、血走った目を白馬に跨った騎馬武者へ向ける。
――松明の光に照らし出された、豪奢な甲冑を纏う武者の白皙の顔は、確かに人品卑しからぬ面立ちをしていた。
まだ顔を見た事こそ無いものの、この男が諏訪勝頼に違いない……茂武は、一目でそう確信する。
「し……信濃殿!」
そんな彼に、傍らの武者が上ずった声をかけた。
茂武が振り返るや、武者は早口で捲し立てる。
「こ、ここは、向こうの言う通り、おとなしく降るべきではないか?」
「……何じゃと?」
「あ、あの通り、間道は敵によって完全に塞がれておる。あの敵の数では、打ち破って通り抜ける事などとても出来ぬ。だからといって、来た道を戻ったとしても、武田の本隊が待ち構えておるだろうし……」
「……」
「間道を逸れて山の中に入ったとしても、無事に苗木の城に帰れる保証は無い! な、ならば、一旦は敵に降ると見せかけて、敵の隙を見て脱出する方が、まだ我らの生き延びる目があると思……がッ!」
武者の声は、途中で声にならぬ苦悶の呻き声に変わる。――彼の喉元は、茂武が突き出した手槍の穂先に貫かれていた。
「――者どもッ!」
茂武は手槍を捻り、己が喉元を刺し貫いた武者の骸を地面に転がし落とすと、凶行を目の当たりにして唖然としている他の者たちに向かって声を張り上げる。
「もはや、ワシらに残された道はひとつしか無い!」
そう叫んだ茂武は、血が滴る手槍を前方に向けた。
「進め! 一丸となって前方を塞ぐ武田勢に打ちかかり、包囲の輪をこじ開け……いや」
そこで一旦口を噤んだ茂武は、面頬の下で口を自嘲げに歪ませ、それから再び言葉を続ける。
「――ひとりでも多くの武田兵を斃し、甲斐の田舎猿どもに『織田の強兵ここに在り』と知らしめるのだッ! 良いなッ!」
「「「「……ッ!」」」」
茂武の一喝を聞いた苗木衆……否、親織田派の武者たちは、一瞬目を大きく見開いた後、
「「「「オオオオオオオ――ッ!」」」」
と、百雷の如き喊声を上げた。
――その瞬間、彼らは決断したのだ。生きる望みを絶ち、その代わりに、本来の織田家の臣として雄々しく戦って華々しく散らんと。
武者たちはそれぞれ、携えた槍の柄を握り直し、腰の刀を抜き放つ。
「……善し!」
茂武は、周りの武者たちの面構えを見回し、満足げに頷くと、腰に差していた采配を抜き――そのまま地面へと投げ捨てた。
そして、血に濡れた槍の穂先を前方の武田兵たちに突きつけ、毅然とした声で命じる。
「者ども……かかれええええええぇぇぇ――っ!」
茂武の呟きを聞いた周囲の将兵の間に、声にならぬどよめきが起きる。
甲斐武田家の当主・信玄の四男である諏訪四郎勝頼。その名は、先年、武田氏が西上野の箕輪城を攻めた際に、初陣にもかかわらず敵将と一騎討ちに及び、見事に敵将の首を挙げたという活躍の噂と共に、ここ美濃の地まで轟いている。
それだけではない。
「た……龍様の縁組の相手となるはずだった諏訪四郎に、退路を阻まれるとはな……」
茂武は、面頬の奥で青ざめた顔を歪ませながら、掠れた声で呻いた。
本来であれば、今頃は武田家と織田家が同盟を結び、その証として、遠山直廉の娘で織田信長の姪である龍が織田家の養女となり、諏訪勝頼に輿入れするはずだったのだ。
龍の織田家養女入りと輿入れに関しては、龍の母である琴が直廉に嫁いだ際に、彼女の侍臣として織田家から苗木城に移って来た者たちが中心となって動いており、矢口茂武もまたそのひとりだった。
彼は、恙なく龍の縁組が成り立てば、遠山家と織田家に多大な貢献を果たしたと讃えられ、苗木城の中で今よりも強い影響力と権力を得られるものと考えていたのだが――昨年の秋を境に、その目算はすっかり狂ってしまう。
武田家はそれまでの親織田路線を唐突に翻し、駿河今川家との絆を維持する方針に舵を切ったのだ。
その為、今川家にとって前当主を討たれた仇敵である織田家と武田家の仲はにわかに緊迫し、いつしか茂武らが推し進めてきた輿入れ話も立ち消えとなってしまったのだった……。
「おのれ……諏訪四郎! 貴様は、ここに及んでもワシの邪魔をしようというのか……ッ!」
茂武は、自分たちの退路に立ち塞がる騎馬武者の群れと、その中央で風にはためく諏訪梶ノ葉の旗印を憎々しげに睨みつける。
甲尾同盟と龍姫の婚姻話が破談となってから約一年――同盟締結後に栄達を約束されていたはずの矢口茂武が、惨めな敗軍の将と成り果てて暗闇の中を逃げ落ち、本来なら龍姫の夫になるはずだった諏訪勝頼が彼の前に立ちはだかるとは……。
(神だか仏だか知らぬが、随分と皮肉な巡り合わせを用意してくれたものだ……)
ふとそう思った茂武は、
「く、くく……」
なんだか無性におかしくなり、口の端を引き攣らせながら嗤い始めた。
「し、信濃殿……?」
そんな彼の横顔を見ながら、周囲の武者たちは訝しげな声を上げる。
――と、その時、前方の騎馬武者の一群から、白馬に騎乗したひとりの武者が前に進み出た。
「――そこの苗木衆に告ぐ!」
脇に手槍を手挟んだ若い武者は、茂武たちの事を油断なく見据えながら、声を張り上げる。
「もはや勝敗は決した! これ以上の抵抗は無意味だぞ! 命が惜しくば、その場で得物を捨てよ! さすれば、我らは妄りにお主らの命を奪ったりはせぬ!」
「……ッ!」
武者の声を聞いた苗木衆たちの間に動揺が広がり、彼らは互いの顔を見合わせた。
そんな苗木衆の当惑と狼狽をよそに、武田の騎馬武者は更に言葉を続ける。
「私は、諏訪家当主・諏訪四郎勝頼である! 我が身体を流れる神氏たる諏訪家の血にかけて、誓って噓偽りは申さぬ! 妙な気を起こさずに、おとなしく降参せよ!」
「……諏訪四郎勝頼……じゃと?」
気が触れたように嗤っていた茂武は、若い武者の声を聞いて正気に返った。
そして、血走った目を白馬に跨った騎馬武者へ向ける。
――松明の光に照らし出された、豪奢な甲冑を纏う武者の白皙の顔は、確かに人品卑しからぬ面立ちをしていた。
まだ顔を見た事こそ無いものの、この男が諏訪勝頼に違いない……茂武は、一目でそう確信する。
「し……信濃殿!」
そんな彼に、傍らの武者が上ずった声をかけた。
茂武が振り返るや、武者は早口で捲し立てる。
「こ、ここは、向こうの言う通り、おとなしく降るべきではないか?」
「……何じゃと?」
「あ、あの通り、間道は敵によって完全に塞がれておる。あの敵の数では、打ち破って通り抜ける事などとても出来ぬ。だからといって、来た道を戻ったとしても、武田の本隊が待ち構えておるだろうし……」
「……」
「間道を逸れて山の中に入ったとしても、無事に苗木の城に帰れる保証は無い! な、ならば、一旦は敵に降ると見せかけて、敵の隙を見て脱出する方が、まだ我らの生き延びる目があると思……がッ!」
武者の声は、途中で声にならぬ苦悶の呻き声に変わる。――彼の喉元は、茂武が突き出した手槍の穂先に貫かれていた。
「――者どもッ!」
茂武は手槍を捻り、己が喉元を刺し貫いた武者の骸を地面に転がし落とすと、凶行を目の当たりにして唖然としている他の者たちに向かって声を張り上げる。
「もはや、ワシらに残された道はひとつしか無い!」
そう叫んだ茂武は、血が滴る手槍を前方に向けた。
「進め! 一丸となって前方を塞ぐ武田勢に打ちかかり、包囲の輪をこじ開け……いや」
そこで一旦口を噤んだ茂武は、面頬の下で口を自嘲げに歪ませ、それから再び言葉を続ける。
「――ひとりでも多くの武田兵を斃し、甲斐の田舎猿どもに『織田の強兵ここに在り』と知らしめるのだッ! 良いなッ!」
「「「「……ッ!」」」」
茂武の一喝を聞いた苗木衆……否、親織田派の武者たちは、一瞬目を大きく見開いた後、
「「「「オオオオオオオ――ッ!」」」」
と、百雷の如き喊声を上げた。
――その瞬間、彼らは決断したのだ。生きる望みを絶ち、その代わりに、本来の織田家の臣として雄々しく戦って華々しく散らんと。
武者たちはそれぞれ、携えた槍の柄を握り直し、腰の刀を抜き放つ。
「……善し!」
茂武は、周りの武者たちの面構えを見回し、満足げに頷くと、腰に差していた采配を抜き――そのまま地面へと投げ捨てた。
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