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第二部三章 始末
浅手と深手
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――激動の一夜が明け、東の空から日が昇って数刻経った後、一度は西へ向かって発っていた武田信繁率いる武田軍が苗木城下へ戻って来た。
言うまでも無く、恭順の意志を示した苗木城を完全に制圧下に置く為である。
昨日のように木曽川を挟んだ南岸に沿って陣を展開した武田軍の中の一隊が、完全武装で苗木城の中に入った。
その隊を率いるのは、秋山伯耆守虎繁と諏訪四郎勝頼――そして、総大将である武田信繁本人であった。
「――典厩様!」
苗木城本丸に繋がる本丸口門をくぐった信繁の耳に、若い男の良く通る声が届く。
その声を聞いた信繁は、乗騎に跨ったまま、ニコリと微笑んだ。
「おお、昌幸か。苗木城の夜襲、ご苦労だった。体に大事無いか?」
「はっ! 全く問題ございませぬ!」
信繁から労りの言葉をかけられて嬉しそうに顔を綻ばせた武藤昌幸は、主の馬の銜環を掴みながら、弾んだ声で報告する。
「夜襲とはいっても、三の丸で軽い抵抗にあっただけですから。別動隊の兵たちも、浅手を負った者が十数名出た程度で、討ち死した者はおりませぬ」
「そうか。それは何よりだった」
昌幸の言葉を聞いて、信繁は満足げに頷いた。
そんな彼の言葉に、まるで親に褒められた童のように得意げな笑みを浮かべた昌幸だったが、ふと真顔に戻ると、馬上の信繁を見上げて、逆に問い返す。
「で――典厩様の方はいかがでしたか? 策の通りに事は運びましたか?」
「ああ」
昌幸の問いに、信繁は大きく頷いた。
「概ね、策の通りに進んだ。我らに夜襲をかけようとした苗木勢へ逆に攻め懸け、その混乱に乗じて二百ほどを討ち取った。残りの苗木衆は早々に戦意を喪失し、我らの勧告に従っておとなしく降ったゆえ、こちらの損耗もほとんど無い」
「それは何よりで御座りました」
信繁の答えを聞いた昌幸は、今度こそ安堵の笑みを浮かべると、自慢げにフンと鼻を鳴らす。
「まあ……典厩様と拙者が練り上げた策でしたからな。万に一つもしくじる事なぞありますまい!」
「お聴きなさったか、四郎様?」
昌幸が自慢げに言い放った声に、ニヤニヤ笑いを浮かべながら、自分の傍らで白馬に跨った若武者にわざとらしく耳打ちしたのは、秋山虎繁だった。
「喜兵衛の奴、戦場で必死に槍働きした拙者らを差し置いて、策を立てた自分が一番手柄だったとほざきよりましたぞ」
「そ、そんな事は言うておりませぬぞ、秋山様っ!」
昌幸は、わざと聞こえるように言った虎繁の言葉を耳にするや、慌てて頭を振る。
そして、おかしそうに笑う勝頼に必死で訴えかけた。
「し、四郎様! 拙者は、決して四郎様たちの御働きを蔑ろには考えておりませぬ! い、今の秋山様の御言葉は質の悪い軽口ゆえ、真に受ける事は無きよう……」
そう、自身の潔白を訴えようとした昌幸だったが、勝頼の左腕に木綿の包帯が巻きついているのを見て、その表情を曇らせる。
「四郎様……その包帯は、手傷でも負われましたか?」
「ああ……いや」
昌幸の言葉に、自分の左腕をチラリと見た勝頼は、苦笑を浮かべながら、軽く首を左右に振った。
「手傷と言うほど大層なものでもない。……ただ、敵の将と槍を合わせた際に、その刀を咄嗟に左腕で受けただけだ。今は少し腫れているが、軽い打ち身だから、すぐに治るだろう」
そう気丈に言った勝頼だったが、僅かに顔を顰めると、包帯を巻いた左腕を右手で抑える。
その様子を見た昌幸たちは、一斉に表情を曇らせた。
勝頼の横で轡を並べていた虎繁が、心配そうな声で訊ねる。
「……四郎様、本当に大事御座らぬのか?」
「ああ……問題無い」
気遣うような素振りを見せる虎繁に、勝頼は怪訝な表情を浮かべながら答えた。
「ただ、打たれた所が赤く腫れ上がっているだけだ。痛みといっても、我慢できぬほどでは無いし、そんなに大した事では――」
「……いや、そうとも限りませぬぞ」
だが、楽観的な勝頼の答えを聞いた虎繁は、表情を曇らせる。
「戦の最中や後には、気が昂っておりますゆえ、大怪我をしていても気付かぬ事が良くあります。打たれた所が腫れあがっているという事は、もしかすると骨まで……」
「い、いやいや! 決してそのような大事では――!」
虎繁の言葉に抗うように強がろうとした勝頼だったが、その拍子に打ち身の患部が痛み、思わず苦悶の声を上げた。
――と、その時、
「――伯耆の申す通りだぞ、四郎」
そう、険しい声で勝頼の事を窘めたのは、信繁だった。
馬上で振り返った彼は、甥の顔をじっと見つめながら、静かな口調で諭すように言う。
「これからの遠山勘太郎との会談後で構わぬから、その打ち身を金創医に診てもらえ。思わぬ深手やもしれぬ」
「で、ですが、叔父上……。これは本当にタダの打ち身で――」
「ならぬ」
「……!」
慌てて反駁しようとした勝頼だったが、信繁はキッパリと頭を振られ、返す言葉を失った。
そんな彼を見つめながら、ふっと表情を和らげた信繁は、落ち着いた声で滔々と言い聞かせる。
「戦は、何が起こるか全く分からぬ。可能な限り万全を期して臨むのが肝要だ」
「ですが……」
「それに――」
信繁は、不満そうに言い返そうとする勝頼を目で制し、更に言葉を継いだ。
「その傷が元で、お主に万が一のことがあったりしたら、儂は武田家に……いや、兄上に顔向けが出来ぬ」
「叔父上……」
「四郎……お主は、ゆくゆくは副将として、弟として、若殿……太郎の事を輔けねばならぬ身なのだ。今の儂のようにな」
「……!」
「だから、今は無理をして己が身を危うくさせるような真似はやめよ」
「……かしこまりました」
信繁の言葉に、勝頼は不承不承といった様子で頷いた。
「他ならぬ叔父上……否、典厩様の御命令とあらば従いましょう。……その代わり、“大事無し”と金創医のお墨付きが出たならば――」
「ああ」
憤然とした勝頼の顔に頼もしさを感じながら、信繁は微笑みを浮かべる。
「無論、その際には、存分に働いてもらう事にしよう。頼りにしておるぞ、諏訪四郎勝頼よ」
言うまでも無く、恭順の意志を示した苗木城を完全に制圧下に置く為である。
昨日のように木曽川を挟んだ南岸に沿って陣を展開した武田軍の中の一隊が、完全武装で苗木城の中に入った。
その隊を率いるのは、秋山伯耆守虎繁と諏訪四郎勝頼――そして、総大将である武田信繁本人であった。
「――典厩様!」
苗木城本丸に繋がる本丸口門をくぐった信繁の耳に、若い男の良く通る声が届く。
その声を聞いた信繁は、乗騎に跨ったまま、ニコリと微笑んだ。
「おお、昌幸か。苗木城の夜襲、ご苦労だった。体に大事無いか?」
「はっ! 全く問題ございませぬ!」
信繁から労りの言葉をかけられて嬉しそうに顔を綻ばせた武藤昌幸は、主の馬の銜環を掴みながら、弾んだ声で報告する。
「夜襲とはいっても、三の丸で軽い抵抗にあっただけですから。別動隊の兵たちも、浅手を負った者が十数名出た程度で、討ち死した者はおりませぬ」
「そうか。それは何よりだった」
昌幸の言葉を聞いて、信繁は満足げに頷いた。
そんな彼の言葉に、まるで親に褒められた童のように得意げな笑みを浮かべた昌幸だったが、ふと真顔に戻ると、馬上の信繁を見上げて、逆に問い返す。
「で――典厩様の方はいかがでしたか? 策の通りに事は運びましたか?」
「ああ」
昌幸の問いに、信繁は大きく頷いた。
「概ね、策の通りに進んだ。我らに夜襲をかけようとした苗木勢へ逆に攻め懸け、その混乱に乗じて二百ほどを討ち取った。残りの苗木衆は早々に戦意を喪失し、我らの勧告に従っておとなしく降ったゆえ、こちらの損耗もほとんど無い」
「それは何よりで御座りました」
信繁の答えを聞いた昌幸は、今度こそ安堵の笑みを浮かべると、自慢げにフンと鼻を鳴らす。
「まあ……典厩様と拙者が練り上げた策でしたからな。万に一つもしくじる事なぞありますまい!」
「お聴きなさったか、四郎様?」
昌幸が自慢げに言い放った声に、ニヤニヤ笑いを浮かべながら、自分の傍らで白馬に跨った若武者にわざとらしく耳打ちしたのは、秋山虎繁だった。
「喜兵衛の奴、戦場で必死に槍働きした拙者らを差し置いて、策を立てた自分が一番手柄だったとほざきよりましたぞ」
「そ、そんな事は言うておりませぬぞ、秋山様っ!」
昌幸は、わざと聞こえるように言った虎繁の言葉を耳にするや、慌てて頭を振る。
そして、おかしそうに笑う勝頼に必死で訴えかけた。
「し、四郎様! 拙者は、決して四郎様たちの御働きを蔑ろには考えておりませぬ! い、今の秋山様の御言葉は質の悪い軽口ゆえ、真に受ける事は無きよう……」
そう、自身の潔白を訴えようとした昌幸だったが、勝頼の左腕に木綿の包帯が巻きついているのを見て、その表情を曇らせる。
「四郎様……その包帯は、手傷でも負われましたか?」
「ああ……いや」
昌幸の言葉に、自分の左腕をチラリと見た勝頼は、苦笑を浮かべながら、軽く首を左右に振った。
「手傷と言うほど大層なものでもない。……ただ、敵の将と槍を合わせた際に、その刀を咄嗟に左腕で受けただけだ。今は少し腫れているが、軽い打ち身だから、すぐに治るだろう」
そう気丈に言った勝頼だったが、僅かに顔を顰めると、包帯を巻いた左腕を右手で抑える。
その様子を見た昌幸たちは、一斉に表情を曇らせた。
勝頼の横で轡を並べていた虎繁が、心配そうな声で訊ねる。
「……四郎様、本当に大事御座らぬのか?」
「ああ……問題無い」
気遣うような素振りを見せる虎繁に、勝頼は怪訝な表情を浮かべながら答えた。
「ただ、打たれた所が赤く腫れ上がっているだけだ。痛みといっても、我慢できぬほどでは無いし、そんなに大した事では――」
「……いや、そうとも限りませぬぞ」
だが、楽観的な勝頼の答えを聞いた虎繁は、表情を曇らせる。
「戦の最中や後には、気が昂っておりますゆえ、大怪我をしていても気付かぬ事が良くあります。打たれた所が腫れあがっているという事は、もしかすると骨まで……」
「い、いやいや! 決してそのような大事では――!」
虎繁の言葉に抗うように強がろうとした勝頼だったが、その拍子に打ち身の患部が痛み、思わず苦悶の声を上げた。
――と、その時、
「――伯耆の申す通りだぞ、四郎」
そう、険しい声で勝頼の事を窘めたのは、信繁だった。
馬上で振り返った彼は、甥の顔をじっと見つめながら、静かな口調で諭すように言う。
「これからの遠山勘太郎との会談後で構わぬから、その打ち身を金創医に診てもらえ。思わぬ深手やもしれぬ」
「で、ですが、叔父上……。これは本当にタダの打ち身で――」
「ならぬ」
「……!」
慌てて反駁しようとした勝頼だったが、信繁はキッパリと頭を振られ、返す言葉を失った。
そんな彼を見つめながら、ふっと表情を和らげた信繁は、落ち着いた声で滔々と言い聞かせる。
「戦は、何が起こるか全く分からぬ。可能な限り万全を期して臨むのが肝要だ」
「ですが……」
「それに――」
信繁は、不満そうに言い返そうとする勝頼を目で制し、更に言葉を継いだ。
「その傷が元で、お主に万が一のことがあったりしたら、儂は武田家に……いや、兄上に顔向けが出来ぬ」
「叔父上……」
「四郎……お主は、ゆくゆくは副将として、弟として、若殿……太郎の事を輔けねばならぬ身なのだ。今の儂のようにな」
「……!」
「だから、今は無理をして己が身を危うくさせるような真似はやめよ」
「……かしこまりました」
信繁の言葉に、勝頼は不承不承といった様子で頷いた。
「他ならぬ叔父上……否、典厩様の御命令とあらば従いましょう。……その代わり、“大事無し”と金創医のお墨付きが出たならば――」
「ああ」
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