甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部五章 応酬

豪雨と轟音

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 巳の刻 (午前十時)過ぎから降り出した雨は、たちまちのうちにその勢いを増し、滝のような豪雨となった。
 それにより、地面は至る所でぬかるみ、窪地は小さな池のようになる。
 密度の濃い降雨によって視界は妨げられ、僅か十間 (約二十メートル)先も見通せず、耳にも大瀑布の如き轟音となった雨音以外は届かない。
 そんな中、微かに聴こえる法螺貝の音に従い、武田軍は敵方へ向けて総掛かりを開始した。
 敵の槍衾に対するように、武田軍の足軽たちも槍の穂先を揃え、互いに激しく打ち叩き合う。
 槍合わせによって生じた敵陣の隙を生じたとみるや、騎馬武者たちが乗騎に鞭を当て、引き倒された柵を駆け越えて一気に敵陣内へと雪崩れ込んだ。
 騎馬武者たちは、地面の泥濘ぬかるみなどものともせず、左手で巧みに手綱を繰りながら、右手に握った手槍を存分に振るい、突然の雨に翻弄されている斎藤兵たちを次々に突き貫いていく。

 信繁率いる武田軍の兵たちは、長年に渡る信濃攻略に従軍してきた歴戦の猛者が多く、豪雨の中での戦いや、足場が悪い中での戦いにも慣れている者が多かった。
 その上、視界や聴覚が効かない困難な状況に陥っても、個々の判断で戦う事が出来るように鍛えられてもいる為、このような突然の豪雨に遭っても、彼らの戦闘能力は然程落ちない。
 ――今から四年前、川中島の大戦おおいくさの際に、濃い霧の立ち込める八幡原で上杉政虎率いる越後勢一万二千に急襲された時に、敵に劣る八千の数の武田本軍が総崩れせずに別動隊の到着まで持ち堪えられたのも、彼らの戦闘経験の豊富さがあってこそだった。

 一方の斎藤軍は、率いる将こそ“西美濃三人衆”のひとりである安藤守就ではあるものの、軍の内訳は武田の侵攻を受けて急ぎ美濃中から掻き集めた者たちである。
 急造の為、軍全体の統制が取れておらず、各隊同士・兵同士での連携も怪しかった。
 それに加えて、この豪雨で、斎藤兵たちは目と耳を塞がれたに等しい状態での戦闘を余儀なくされる。
 頼みの綱の鉄砲も、この激しい雨では発射する事すら難しく、たとえ撃てたとしても、敵に中てる事は至難の業であった。
 その為、攻め寄せてくる百戦錬磨の武田軍に対して守勢に回らざるを得ず、敵の勢いに圧されるにつれ、じりじりと前線を下げざるを得なかったのである。


 ――だが、

「うむ……」

 武田軍と斎藤軍が激しく戦っている最前線から三町半 (約四百メートル)ほど離れた斎藤軍の本陣で床几に腰を下ろした総大将の安藤守就は、伝令から現在の戦況を聞き取ると、激しい雨に打たれながら小さく頷いた。

「雨が降り出すのが、半兵衛の見立てよりも少し早かったが……概ね、予測通りだな」

 そう呟いた守就は、目の前で膝をついて控えている伝令に目を向ける。

「それで――武田の本陣は……総大将の武田信繁の居場所は、今どのあたりなのだ?」
「はっ」

 守就に問われた伝令は、短く声を上げると、主の問いに簡潔に答えた。

「武田軍の本陣は、前線が下がるに合わせて前進しており、現在は我が軍が敷いた馬防ぎの柵の手前あたりまで到っておる模様に御座ります!」
「左様か……」

 伝令の答えを聞いた守就は、指で唇を摘まみながら、脳内に戦場の地図を思い浮かべる。

「ならば……そろそろ、あそこを通り過ぎる頃合いか……」

 そう独り言ちた守就の口元が、僅かに緩んだ。

「……悪いな、武田信繁よ」

 彼は顔を上げ、微かに戦いの喧騒が聴こえる方向へ目を向け、少し残念そうな顔をしながら呟く。

「本来なら、正々堂々と戦って討ち取りたいところであるが、こちらには手段を選んでおる余裕が無いのでな。ここは搦手のを打たせてもらうぞ」

 ◆ ◆ ◆ ◆

 「進め、進め!」

 一方、武田軍の中心で指揮を執る武田信繁は、馬上で采配を振りながら、豪雨にも負けじと声を張り上げていた。

「この雨で、鉄砲を怖れる必要はもう無い! ひたすらに前進し、敵陣の奥深くまで食い込む事に専念すればよい! 武田武士の強さを、斎藤の兵に存分に知らしめてやるのだ!」
「おおおお――っ!」

 信繁の鼓舞に応えるように、周囲の武田兵の間から意気軒昂な喚声が上がる。
 と、そこへひとりの使番が駆け寄ってきた。

「伝令に御座る! 先陣の保科隊が、中備と合流出来たとの由!」
「うむ!」

 朗報を耳にして、大きく頷いた信繁だったが、すぐに表情を引き締め、気にかかっていた事を問い質す。

「で――保科隊の損害は如何程か?」
「はっ! 郎従を含めた二十名ほどが討ち死に、手勢の半数ほどが何かしらの負傷を被ったとの事に御座ります」

 決して少なくはない損害に表情を曇らせた信繁は、もっとも気にかかっていた事を尋ねる。

「――弾正は無事か?」
「はっ」

 信繁の問いかけに、使番は大きく頷いた。

「保科弾正様は、かすり傷程度でお元気な模様に御座ります。ご子息の千次郎殿は、敵将と一騎討ちに及んだ際に浅手を負ったとの事ですが、こちらも命には別条ないとの事です!」
「そうか……」

 使番の答えを聞いた信繁は、内心で胸を撫で下ろす。
 だが、表面には出さず、表情を引き締めながら言った。

「伝令ご苦労! 引き続き頼むぞ!」
「はっ!」

 信繁の労いの言葉を受けた使番は、軽く頭を下げてから馬に鞭を当て、再び前線へと戻っていく。
 それを見送りながら、彼は再び采配を前に向けて振り、声を張り上げた。

「善し! 戦機は熟した! このまま敵に攻めかかり、一気に打ち破るのだ!」
「おおおおお――っ!」

 豪雨が上げるけたたましい雨音にも負けぬ喊声で信繁の檄に応えながら、武田軍は更に前へ前へと進んでいく。
 ほどなく、信繁ら本陣の面々も、馬防ぎの柵のあたりに差し掛かった。
 既に、柵は大部分が引き倒されており、柵の前に掘られていた空堀もほとんどが金山衆の手によって埋め戻されている。
 信繁は、乗騎の手綱を巧みに操りながら、彼に従う与力らと共に、危なげなく柵を跳び越えた。

「……」

 そこで彼は、何気なく周囲を見回す。
 斎藤軍が柵を設けていたのは、この辺りの平地でもっとも幅が狭い部分で、木曽川が流れる西側は断崖となっていた。東側にも背の低い灌木がまばらに生え茂る山裾がせり出していて、平地部分は五十間ほどしかない。
 ここを抜ければ、平地の幅はぐんと広がり、武田軍得意の騎馬戦法を展開しやすくなる――そんな事を考えながら、彼は前方を向こうとした。
 ――その時、

「っ……?」

 突然、彼は首筋にピリッと冷たいものが伝うのを感じて、思わず手綱を引く。

(……なんだ、今のは? まるで、首筋に匕首の刃を当てられたかのような――)

 嫌な予感を覚えた信繁は、無意識に馬首を返そうとした。
 ――次の瞬間、

 “ダ――ンッ!”

 豪雨が上げる雨音を掻き消すように、一発の銃声が高らかに鳴り響いた――!
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