191 / 263
第二部六章 軍師
役割と大黒柱
しおりを挟む
「……とはいえ」
酒を飲み干した信春は、そう言いながら空になった盃を膳の上に置き、信繁の顔を見た。
「此度の件、一徳斎殿の事をあまりお責めになりませぬよう。一徳斎殿は一徳斎殿なりに武田家の将来を案じた上での行動でしょうから」
「……分かっておる」
信春の言葉に、信繁は憮然とした表情をしながら頷く。
そして、盃を満たす白い濁り酒に目を落としながら、言葉を継いだ。
「儂も、久々利頼興の今後の処遇をどうするかは気にかけておった。昨日本陣で顔を合わせた時の態度から考えても、武田家にとって扱いの難しい存在になるのは火を見るよりも明らかだったしな。……だから、弾正がああするべきだと考えた事も理解は出来る。出来るが……」
「総大将の自分に黙って勝手に事を起こした事に対しては納得できぬ……といったところですか?」
「……そういう事だ」
信繁は、信春の問いかけに険しい顔で頷く。
そんな彼に対し、信春はフッと微笑んだ。
「しかし……典厩様なら、一徳斎殿の気持ちも理解できましょう。武田家の副将として、お屋形様を支え輔けるお立場の典厩様ならば」
「……」
信春の言葉に対し、信繁は無言で盃を呷る。
すかさず空になった信繁の盃に酒を注ぎながら、信春は言葉を継いだ。
「一徳斎殿は、万が一にも典厩様が責を負わされる事の無いようにしたのでしょう。一徳斎殿の独断専行ならば、後々策を講じた事を咎められたとしても、策を知らなかった典厩様には頼興の死に対する直接的な責任が生じようはずがありませぬからな」
そう言いながら、信繁の盃に続いて自分の盃にも酒を注いだ信春は、空になった片口を自分の傍らに置いてから、静かに問う。
「……典厩様が一徳斎殿の立場だったら、同じ事をするのではありませぬか? お屋形様の為に、と……」
「……」
信春の指摘に、信繁は押し黙った。
確かに、信春の言う通りだ。
敬愛する兄であり、使える主でもある信玄の為になると思えば、たとえ兄の意に沿わぬ事であっても断じて行い、自ら進んで泥を被る覚悟は常にある。
だが――、
「……タダの副将格で、此度の美濃攻めの総大将でしかない儂と、甲斐武田の惣領として、領国全ての責を一身に背負うお屋形様とでは、立場の重さが全然違う。儂如きの身を慮って、弾正が自らを危険に晒す事は無いのだ。企てを事前に明かし、全ての責を儂に任せてくれれば――」
「それはなりませぬ」
信繁が漏らした声に、信春はキッパリと言い切って、首を横に振った。
そして、真顔で信繁の顔を真っ直ぐに見つめ、諭すような口調で言葉を継ぐ。
「典厩様も、お屋形様と同じ……いや、ある意味では、お屋形様以上に武田家にとって大きい存在なのです。そのようにご自身を軽く見られては困りますぞ」
「そ、そうかな……?」
「そうですとも!」
信春は、戸惑い顔で首を傾げる信繁に力強く頷いてみせた。
「万が一、典厩様の身に何事かあれば、武田は大黒柱を失い、大きく揺らぐ事になりましょう。それを案じたからこそ、一徳斎殿は自ら進んで責を負う事を選んだのです」
「いや……それはさすがに買い被り過ぎではないか?」
信繁は、信春の言葉に辟易しながら、懐疑的に首を傾げる。
「確かに儂は副将ではあるが、武田家の内には、儂よりも優れた才を持つ者がいくらでも居ろう。戦に関しては、お主や三郎兵衛 (飯富昌景)や源左衛門尉 (工藤昌秀)、知謀では弾正や香坂 (虎綱)に遠く及ばぬ」
そう言った信繁は、フッと表情を緩め、「それに……」と続けた。
「若殿は勿論、四郎もどんどん頼もしくなっておる。いずれは儂やお屋形様をも凌ぐ武士となろう。それに加え、六郎次郎 (武田信豊)や昌幸らの若い世代も育ってきておるゆえ、別に儂がおらぬでも武田は安泰――」
「そういう事ではないのです」
信繁の言葉を中途で遮った信春は、小さく首を横に振る。
「典厩様の存在の大きさは、将器や才といったものでは御座りませぬ。……いや、もちろん、類稀な才気をお持ちなのは間違い御座らぬが、お屋形様をはじめとした武田家中が典厩様に求めているものは、もう少し違うものなのです」
「違うもの……とは?」
信春の言葉に、信繁は怪訝な表情を浮かべた。
そんな彼に、信春はフッと微笑みかけながら答える。
「お人柄です」
「人柄……そんなものが?」
「左様」
思いもかけぬ答えに隻眼を丸くする信繁に、信春は頷きかけた。
「典厩様は、ご自身が思っているよりもずっと多くの者からお人柄を慕われておるのです。その筆頭は源五郎でしょうが、それ以外の者たちからも。もちろん、拙者も」
そう言ってから、信春はおもむろに自分の盃を手にして、残っていた酒を一気に呷る。
酒で噎せたのか、どこかわざとらしい咳払いをしてから、再び言った。
「……そして、それはお屋形様も同じ……いや、肉親の情も相俟って、我らよりも遥かに深いかもしれませぬな」
「……」
信春の言葉に、信繁は感情の置きどころに困ったように目を泳がせる。
そんな彼に微笑を向けながら、信春は更に言葉を継ぐ。
「つまり、お屋形様にとっての典厩様は、“タダの副将格”などではないのです。もっとずっと大きな……心置きなく頼れる縁……いえ、ご自身の半身とさえ思うておられるに違いありませぬ」
そう言うと、信春は昔の事を思い出すように天井を見上げた。
「……四年前、川中島での大戦の時、瀕死の重傷を負われた典厩様を前にしたお屋形様が見せた悲嘆っぷりを見て、つくづくそう思いました」
「……」
「ですから……」
照れた様子で頭を掻く信繁の顔を真っ直ぐに見据えながら、信春は諭すように言う。
「あまり、ご自身を軽んじられませぬよう、くれぐれもお頼み申します。――典厩様の存在が、お屋形様の……ひいては武田家の今と将来を左右すると言っても過言ではないのですから、な」
酒を飲み干した信春は、そう言いながら空になった盃を膳の上に置き、信繁の顔を見た。
「此度の件、一徳斎殿の事をあまりお責めになりませぬよう。一徳斎殿は一徳斎殿なりに武田家の将来を案じた上での行動でしょうから」
「……分かっておる」
信春の言葉に、信繁は憮然とした表情をしながら頷く。
そして、盃を満たす白い濁り酒に目を落としながら、言葉を継いだ。
「儂も、久々利頼興の今後の処遇をどうするかは気にかけておった。昨日本陣で顔を合わせた時の態度から考えても、武田家にとって扱いの難しい存在になるのは火を見るよりも明らかだったしな。……だから、弾正がああするべきだと考えた事も理解は出来る。出来るが……」
「総大将の自分に黙って勝手に事を起こした事に対しては納得できぬ……といったところですか?」
「……そういう事だ」
信繁は、信春の問いかけに険しい顔で頷く。
そんな彼に対し、信春はフッと微笑んだ。
「しかし……典厩様なら、一徳斎殿の気持ちも理解できましょう。武田家の副将として、お屋形様を支え輔けるお立場の典厩様ならば」
「……」
信春の言葉に対し、信繁は無言で盃を呷る。
すかさず空になった信繁の盃に酒を注ぎながら、信春は言葉を継いだ。
「一徳斎殿は、万が一にも典厩様が責を負わされる事の無いようにしたのでしょう。一徳斎殿の独断専行ならば、後々策を講じた事を咎められたとしても、策を知らなかった典厩様には頼興の死に対する直接的な責任が生じようはずがありませぬからな」
そう言いながら、信繁の盃に続いて自分の盃にも酒を注いだ信春は、空になった片口を自分の傍らに置いてから、静かに問う。
「……典厩様が一徳斎殿の立場だったら、同じ事をするのではありませぬか? お屋形様の為に、と……」
「……」
信春の指摘に、信繁は押し黙った。
確かに、信春の言う通りだ。
敬愛する兄であり、使える主でもある信玄の為になると思えば、たとえ兄の意に沿わぬ事であっても断じて行い、自ら進んで泥を被る覚悟は常にある。
だが――、
「……タダの副将格で、此度の美濃攻めの総大将でしかない儂と、甲斐武田の惣領として、領国全ての責を一身に背負うお屋形様とでは、立場の重さが全然違う。儂如きの身を慮って、弾正が自らを危険に晒す事は無いのだ。企てを事前に明かし、全ての責を儂に任せてくれれば――」
「それはなりませぬ」
信繁が漏らした声に、信春はキッパリと言い切って、首を横に振った。
そして、真顔で信繁の顔を真っ直ぐに見つめ、諭すような口調で言葉を継ぐ。
「典厩様も、お屋形様と同じ……いや、ある意味では、お屋形様以上に武田家にとって大きい存在なのです。そのようにご自身を軽く見られては困りますぞ」
「そ、そうかな……?」
「そうですとも!」
信春は、戸惑い顔で首を傾げる信繁に力強く頷いてみせた。
「万が一、典厩様の身に何事かあれば、武田は大黒柱を失い、大きく揺らぐ事になりましょう。それを案じたからこそ、一徳斎殿は自ら進んで責を負う事を選んだのです」
「いや……それはさすがに買い被り過ぎではないか?」
信繁は、信春の言葉に辟易しながら、懐疑的に首を傾げる。
「確かに儂は副将ではあるが、武田家の内には、儂よりも優れた才を持つ者がいくらでも居ろう。戦に関しては、お主や三郎兵衛 (飯富昌景)や源左衛門尉 (工藤昌秀)、知謀では弾正や香坂 (虎綱)に遠く及ばぬ」
そう言った信繁は、フッと表情を緩め、「それに……」と続けた。
「若殿は勿論、四郎もどんどん頼もしくなっておる。いずれは儂やお屋形様をも凌ぐ武士となろう。それに加え、六郎次郎 (武田信豊)や昌幸らの若い世代も育ってきておるゆえ、別に儂がおらぬでも武田は安泰――」
「そういう事ではないのです」
信繁の言葉を中途で遮った信春は、小さく首を横に振る。
「典厩様の存在の大きさは、将器や才といったものでは御座りませぬ。……いや、もちろん、類稀な才気をお持ちなのは間違い御座らぬが、お屋形様をはじめとした武田家中が典厩様に求めているものは、もう少し違うものなのです」
「違うもの……とは?」
信春の言葉に、信繁は怪訝な表情を浮かべた。
そんな彼に、信春はフッと微笑みかけながら答える。
「お人柄です」
「人柄……そんなものが?」
「左様」
思いもかけぬ答えに隻眼を丸くする信繁に、信春は頷きかけた。
「典厩様は、ご自身が思っているよりもずっと多くの者からお人柄を慕われておるのです。その筆頭は源五郎でしょうが、それ以外の者たちからも。もちろん、拙者も」
そう言ってから、信春はおもむろに自分の盃を手にして、残っていた酒を一気に呷る。
酒で噎せたのか、どこかわざとらしい咳払いをしてから、再び言った。
「……そして、それはお屋形様も同じ……いや、肉親の情も相俟って、我らよりも遥かに深いかもしれませぬな」
「……」
信春の言葉に、信繁は感情の置きどころに困ったように目を泳がせる。
そんな彼に微笑を向けながら、信春は更に言葉を継ぐ。
「つまり、お屋形様にとっての典厩様は、“タダの副将格”などではないのです。もっとずっと大きな……心置きなく頼れる縁……いえ、ご自身の半身とさえ思うておられるに違いありませぬ」
そう言うと、信春は昔の事を思い出すように天井を見上げた。
「……四年前、川中島での大戦の時、瀕死の重傷を負われた典厩様を前にしたお屋形様が見せた悲嘆っぷりを見て、つくづくそう思いました」
「……」
「ですから……」
照れた様子で頭を掻く信繁の顔を真っ直ぐに見据えながら、信春は諭すように言う。
「あまり、ご自身を軽んじられませぬよう、くれぐれもお頼み申します。――典厩様の存在が、お屋形様の……ひいては武田家の今と将来を左右すると言っても過言ではないのですから、な」
26
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる