甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部六章 軍師

役割と大黒柱

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 「……とはいえ」

 酒を飲み干した信春は、そう言いながら空になった盃を膳の上に置き、信繁の顔を見た。

「此度の件、一徳斎殿の事をあまりお責めになりませぬよう。一徳斎殿は一徳斎殿なりに武田家の将来を案じた上での行動でしょうから」
「……分かっておる」

 信春の言葉に、信繁は憮然とした表情をしながら頷く。
 そして、盃を満たす白い濁り酒に目を落としながら、言葉を継いだ。

「儂も、久々利頼興の今後の処遇をどうするかは気にかけておった。昨日本陣で顔を合わせた時の態度から考えても、武田家にとって扱いの難しい存在になるのは火を見るよりも明らかだったしな。……だから、弾正がああするべきだと考えた事も理解は出来る。出来るが……」
「総大将の自分に黙って勝手に事を起こした事に対しては納得できぬ……といったところですか?」
「……そういう事だ」

 信繁は、信春の問いかけに険しい顔で頷く。
 そんな彼に対し、信春はフッと微笑んだ。

「しかし……典厩様なら、一徳斎殿の気持ちも理解できましょう。武田家の副将として、お屋形様を支えたすけるお立場の典厩様ならば」
「……」

 信春の言葉に対し、信繁は無言で盃を呷る。
 すかさず空になった信繁の盃に酒を注ぎながら、信春は言葉を継いだ。

「一徳斎殿は、万が一にも典厩様が責を負わされる事の無いようにしたのでしょう。一徳斎殿の独断専行ならば、後々策を講じた事を咎められたとしても、策を知らなかった典厩様には頼興の死に対する直接的な責任が生じようはずがありませぬからな」

 そう言いながら、信繁の盃に続いて自分の盃にも酒を注いだ信春は、空になった片口を自分の傍らに置いてから、静かに問う。

「……典厩様が一徳斎殿の立場だったら、同じ事をするのではありませぬか? お屋形様の為に、と……」
「……」

 信春の指摘に、信繁は押し黙った。
 確かに、信春の言う通りだ。
 敬愛する兄であり、使える主でもある信玄の為になると思えば、たとえ兄の意に沿わぬ事であっても断じて行い、自ら進んで泥を被る覚悟は常にある。
 だが――、

「……タダの副将格で、此度の美濃攻めの総大将でしかない儂と、甲斐武田の惣領として、領国全ての責を一身に背負うお屋形様とでは、立場の重さが全然違う。儂如きの身を慮って、弾正が自らを危険に晒す事は無いのだ。企てを事前に明かし、全ての責を儂に任せてくれれば――」
「それはなりませぬ」

 信繁が漏らした声に、信春はキッパリと言い切って、首を横に振った。
 そして、真顔で信繁の顔を真っ直ぐに見つめ、諭すような口調で言葉を継ぐ。

「典厩様も、お屋形様と同じ……いや、ある意味では、お屋形様以上に武田家にとって大きい存在なのです。そのようにご自身を軽く見られては困りますぞ」
「そ、そうかな……?」
「そうですとも!」

 信春は、戸惑い顔で首を傾げる信繁に力強く頷いてみせた。

「万が一、典厩様の身に何事かあれば、武田は大黒柱を失い、大きく揺らぐ事になりましょう。それを案じたからこそ、一徳斎殿は自ら進んで責を負う事を選んだのです」
「いや……それはさすがに買い被り過ぎではないか?」

 信繁は、信春の言葉に辟易しながら、懐疑的に首を傾げる。

「確かに儂は副将ではあるが、武田家の内には、儂よりも優れた才を持つ者がいくらでも居ろう。戦に関しては、お主や三郎兵衛 (飯富昌景)や源左衛門尉 (工藤昌秀)、知謀では弾正や香坂 (虎綱)に遠く及ばぬ」

 そう言った信繁は、フッと表情を緩め、「それに……」と続けた。

「若殿は勿論、四郎もどんどん頼もしくなっておる。いずれは儂やお屋形様をも凌ぐ武士もののふとなろう。それに加え、六郎次郎 (武田信豊)や昌幸らの若い世代も育ってきておるゆえ、別に儂がおらぬでも武田は安泰――」
「そういう事ではないのです」

 信繁の言葉を中途で遮った信春は、小さく首を横に振る。

「典厩様の存在の大きさは、将器や才といったものでは御座りませぬ。……いや、もちろん、類稀な才気をお持ちなのは間違い御座らぬが、お屋形様をはじめとした武田家中われらが典厩様に求めているものは、もう少し違うものなのです」
「違うもの……とは?」

 信春の言葉に、信繁は怪訝な表情を浮かべた。
 そんな彼に、信春はフッと微笑みかけながら答える。

「お人柄です」
「人柄……そんなものが?」
「左様」

 思いもかけぬ答えに隻眼を丸くする信繁に、信春は頷きかけた。

「典厩様は、ご自身が思っているよりもずっと多くの者からお人柄を慕われておるのです。その筆頭は源五郎でしょうが、それ以外の者たちからも。もちろん、拙者も」

 そう言ってから、信春はおもむろに自分の盃を手にして、残っていた酒を一気に呷る。
 酒で噎せたのか、どこかわざとらしい咳払いをしてから、再び言った。

「……そして、それはお屋形様も同じ……いや、肉親の情も相俟って、我らよりも遥かに深いかもしれませぬな」
「……」

 信春の言葉に、信繁は感情の置きどころに困ったように目を泳がせる。
 そんな彼に微笑を向けながら、信春は更に言葉を継ぐ。

「つまり、お屋形様にとっての典厩様は、“タダの副将格”などではないのです。もっとずっと大きな……心置きなく頼れるよすが……いえ、ご自身の半身とさえ思うておられるに違いありませぬ」

 そう言うと、信春は昔の事を思い出すように天井を見上げた。

「……四年前、川中島での大戦おおいくさの時、瀕死の重傷を負われた典厩様を前にしたお屋形様が見せた悲嘆っぷりを見て、つくづくそう思いました」
「……」
「ですから……」

 照れた様子で頭を掻く信繁の顔を真っ直ぐに見据えながら、信春は諭すように言う。

「あまり、ご自身を軽んじられませぬよう、くれぐれもお頼み申します。――典厩様の存在が、お屋形様の……ひいては武田家の今と将来を左右すると言っても過言ではないのですから、な」
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