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第四章 Cross Thought

【回想】雪と炎

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 「鎌を咥えた鷲の紋章……そりゃ、グリティヌス総督のお召馬車だろうな」

 すっかり冷めたお茶を飲み干して、ジャスは言った。

「やっぱり、そうだよね……」
「つうか、何でスラム地区の外れに総督府の馬車が停まってるんだ? どう考えても、総督がわざわざ馬車立てして訪れる用事も価値も無いだろうに……」

 ジャスは、いつものクセで、手を顎に当てて考え込む。

「……やっぱり、家に来た、黒いローブの男の人が乗ってきたのかな?」
「あ、そうだ。ソイツの人相をまだ聞いてなかった。――歳はどの位だった?」

 粗末なベッドに腰掛けたアザレアは、視線を上に向けて思い出そうとする。

「うーんとね……。若い人だったわ。もしかしたら、20歳にもなってないかも。……顔は、ローブを深く被ってたから、よく見えなかった……」

 嘘である。本当は、その男の放つ不気味な雰囲気にのまれて、恐怖で顔をよく見る事が出来なかったからだ。

「――何ていうか、ニコニコ愛想良く笑ってるけど、それは上辺だけで、本当は人を人と思ってないような、冷たい表情をしてた……と思う」

 アザレアは、その時の事を思い出して身震いする。

「黒いローブで若い男……それは多分、総督お抱え術士のフジェイルとかいうヤツだと思う」
「知ってるの?」
「……ああ。あまりお知り合いになりたくないタイプのヤツだけどな」

 ジャスは、そう言うと渋い顔をした。

「普段は、総督府の中に籠もって、実験だか研究だかをしているらしくて、滅多に出てこないんだけど、たまーにフデクサラス地区の闇市場を彷徨うろついているのを見る。俺も、姿を見たのは一回だけだったけど、何つーか……アイツの周りには、黒い闇みたいのが、常に纏わり付いている様な雰囲気だった……」
「……そんな人が、姉様にどんな用があって来たんだろう?」

 アザレアは、不安そうな顔になる。

「さあな。――総督府の馬車で来たんだったら、総督府からの使いで来たんじゃねえの?」

 ジャスは、そう言って、おかわりのお茶を注ぐ為に、竈で煮立たせているお湯を取りに立ち上がる。
 ふと、何か考えつき、ニヤリと笑ってアザレアに言う。

「あ――、もしかして、総督の妾になれ、ってアレじゃねえの? お前の姉ちゃんは、お前と違って凄い美人だからさ。あながちありえな――イデッ!」
「馬鹿な事言わないでよ!」

 傍らの薄い枕を、思いっきりジャスに投げつけるアザレア。でも――

「いや、実際、いい線いってると思うんだけど、俺の推理」

 顔にぶつけられた枕を払いのけて、ジャスは言う。

「むしろ良かったじゃん。玉の輿だぜ! 総督の御眼鏡にかなったんなら、クソ貧乏な生活から抜け出せるんだぜ!」
「でも……姉様が『蟇蛙ヒキガエル公』のお嫁さんなんて……絶対に嫌!」

 自慢の姉が、周辺地域にまでそのな容貌を揶揄されるグリティヌス公に娶られるなんて――アザレアは怖気が立った。
 しかし、ジャスミンは、アザレアの表情を見ると、くっくっくっと笑った。

「――冗談だよ。それは無い」
「な――何でそう言い切れるのよ!」
「だって、グリティヌス公あの妖怪、主食はだからさ」
「は――? どういう意味……?」
「だから――イミだよ」
「…………はあ~」

 ――何だ、そうなんだ。アザレアはホッとして、ベッドに倒れ込んだ。

「――でも、あと、可能性として考えられるのは――フジェイルの方が求婚しに来た……とかな」
「え……」

 ジャスミンの呟きに、アザレアはもう一度、朝に見た男の姿を思い出す。

「そ――それも嫌!」

 彼女は、頭をブンブンと振り、激しく拒絶の意を表す。

「――嫌だって、俺に言われて……も……?」

 苦笑しながらアザレアに言――おうとしたジャスは、外が俄に騒がしくなった事に気が付いた。

「――何だろう?」

 ふたりは顔を見合わせ、ジャスが家の扉を開けて、外の様子を見ようとする。

「うわっぷ!」

 扉を開けた途端、激しく吹きすさぶ雪が、家の中に一気に吹き込む。
 ジャスは、凄まじい雪の勢いに思わず目を瞑りながらも外に出た。
 彼の家の隣家からも、騒ぎを聞きつけて、人が出てきていた。

「ねえ! どうしたの?」

 ジャスは、向こうから走ってやってきた一人の男を捕まえ、事情を訊こうとする。

「どうしたもこうしたも!」

 男は、大分動転している。息を切らせながら、一気に捲し立てた。

「火事だ! 西ダイサジェラルドスラム地区の西端で、家が一軒、物凄い勢いで燃えている!」
「え――?」

 ジャスの後ろで、男の言葉を聞いたアザレアは絶句した。
 西ダイサジェラルド地区西端――それは、彼女と姉の家がある場所だ――!

「あ――! おい! アザリー!」

 ジャスの制止の声も聞かず、アザレアは、逃げ惑う人々の流れに逆らいながら、自分の家に向かって走りだした。
 途中、何度人にぶつかり、撥ね飛ばされ、踏まれただろうか……。彼女の着衣は、雪と泥と彼女の流した血でドロドロになっていた。
 それでも、彼女は止まらない。圧倒的な人の流れに必死で抗いながら、家に向かって走り続ける。

(――姉様!)

 彼女の脳裏に、優しい微笑みを浮かべる姉の顔が浮かぶ。

(姉様!)

 今日の朝、ギュッと抱きしめてくれた腕の感触を思い出す。

(姉様ッ――!)

 ――頬を擦り寄せ、言ってくれた言葉を思い出す。

 『愛しているわ、アザリー』――

 ………………………………



 ――そして、遂に彼女は家に辿り着いた。
 傷だらけになりながら、息を切らせて帰宅したアザレアの目に映ったのは、

 ――渦を巻くように降りしきる、白い雪と、
 真っ赤な炎に包まれ、乾いた音を立てて崩れ落ちる寸前の

 ――彼女と姉が住んでいた家の最期の姿だった――。
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