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第3章
33・元婚約者
しおりを挟む振り返ると、私の後ろには一人の令嬢が立っていた。
すらりとした長身に、高いヒール。つややかな赤毛はきつく巻かれ、濃い紫の瞳がどこか値踏みするように私へと向けられている。
「まぁ……あなたがシリウス様の新しい婚約者……? ずいぶんと……可愛らしい方ですのね」
ほほ、と口元に手を当てて微笑んでいるが、瞳の奥が凍えそうなほどに冷たい。
――可愛らしい。
それは陛下に言われた言葉と同じはずなのに、令嬢の声色からはどこか含みが感じられた。
「あの……あなたは?」
見覚えのない令嬢に声をかけられ、どうしても戸惑ってしまう。
「まぁっ! あなた、この国の貴族の顔も把握していないの? これじゃあたかがしれているわね……」
私の問いかけに、令嬢はわざとらしいほどに目を開いて肩をすくめた。
彼女の声を聞いていると、どうしてか胸の奥がざわつくようだ。心が不安に染められ、落ち着かなくなっていく。
「わたくしはクラリッサ・レーヴェン。レーヴェン公爵家の長女でございます。国王陛下がお決めになられた、シリウス様の元婚約者ですわ」
「……!」
(この人が……!)
クラリッサ様が語ったその話には、心当たりがあった。
けれど、シリウス様が話していた元婚約者が私の前に現れるなんて、思ってもいなかったのだ。
「失礼ですけど、あなたお名前とご出身は?」
驚きを隠せない私を気に止めることもなく、今度はクラリッサ様が尋ねてくる。
「……えっ、と、私は……セレフィア・ウィンストンと申します。バクスター男爵の養女になります」
どもりながら返した声は、想像以上に頼りないものだった。
クラリッサ様の視線があまりにも強く、目線を合わせるのが怖い。
「……そう。魔力量は?」
「……ありません」
「まぁ! 魔力なしなの!? 聞いて呆れたわ……!」
途端、クラリッサ様の紫の瞳にはあからさまに侮蔑の色が浮かんだ。
「このような場も初めてのようですけれど、大丈夫なのかしら。シリウス様は魔術師長で公爵なのよ? その妻の役割が、あなたに務まるの?」
紫の瞳が、私を上から下までゆっくりとなぞる。
その研ぎ澄まされた視線に、身体の動きが鈍くなっていくようだった。
まるで蛇に睨まれているかのように、身動きがとれなくなる。
「うふふ、自信がないのね。そうよね、だって男爵だなんて下級貴族じゃあ、まともに淑女教育も受けていないんでしょう?」
身を小さくした私を見て、クラリッサ様は勝ち誇ったようにせせら笑った。
言い返したいのに、言葉が喉につかえて出てこない。
「シリウス様の隣に立つってことはね、ただ婚約者なだけじゃあ務まらないのよ。魔力も、魔術の知識も、社交の経験も、家柄も。すべてが求められるの」
突きつけられる言葉の一つ一つが、重たくのしかかってくるようだ。
(だって私は、何一つ持っていないんだもの)
魔力も、魔術の知識も、社交の経験も、家柄も。
どれをとっても、私がクラリッサ様に勝てるものはないだろう。
彼女の言う通りだからこそ、反論の言葉が出かかっては喉で止まってしまう。
「本来なら、わたくしがシリウス様の隣に立っているはずだったのに……。それがまさか、こんな、取るに足らない娘に奪われるなんて……」
クラリッサ様はうつむき、低く呻く。しかし次の瞬間、ばっと顔を上げた。
強く、私を睨みつける。
「あなたなんかに……。あなたなんかにシリウス様を譲るつもりはありませんわ……!」
「……ひっ」
クラリッサ様の眼力の強さに、思わず悲鳴を上げてしまった。
あまりにも強い敵意を向けられ、私の手足からどんどん血の気が引いていく。
呼吸が上手くできなくて、なんだか息苦しい。
(でも、何か言わないと……。シリウス様から堂々としてろって言われているんだから)
「あの……、私は……っ」
震える声をどうにか絞り出したその瞬間、ぐっと強く肩を抱き寄せられた。
「何を……しているんですか。レーヴェン公爵令嬢」
「し、シリウス様……っ!」
背後から、低く押さえられた声が聞こえる。
目の前のクラリッサ様が、大きく目を見開いていた。
先ほどまでの余裕は跡形もなく消え失せ、代わりに焦りの色が浮かんでいる。
「シリウス、様……」
ゆっくりと振り返ると、シリウス様が私のすぐ後ろに立っていた。
その表情には、私にもわかるほどの怒りがにじんでいる。
「今、彼女に何を言っていました?」
「いっ、いえ!? わたくしはただご挨拶を――」
「ご挨拶? 私には、ずいぶんと攻撃的な声色に聞こえましたが?」
シリウス様の言葉は、いつも通り淡々としたもの。
しかし、声音にはひやりとした冷たい怒気が押し込められていた。
久しぶりに、彼が氷狼の魔術師と呼ばれる由縁を垣間見た気がする……。
「そもそも、なぜあなたが参加されているのですか? お父上が参加すると聞いていましたが」
「しっ、シリウス様が参加されるならわたくしもぜひと、父に頼み込みまして……!」
「でしたら、他にすることがあるのでは? ここは交流会です。個人的な感情をぶつける場ではない。公爵令嬢としてこの場に来ているはずでしょう」
シリウス様が言葉を重ねるごとに、クラリッサ様の顔がどんどんと青ざめていく。
「……っ! し、失礼いたします!」
クラリッサ様は一言叫ぶと、一度私を睨みつけてから、走り去っていった。
その後ろ姿が人混みの中に消えたのを確認して、シリウス様は小さく息を吐き出す。
「……すみません、私があなたから離れたばかりに。怖い思いをさせましたね」
「い、いえ……。大丈夫です……」
シリウス様に言葉を返しながら、私は自分の胸を手で押さえた。
心臓がまだどきどきしていて、鎮まりそうにない。
指先が震えていることに、自分でも気づいていた。
「ここは人が多すぎる。少し、外の空気を吸いに行きましょう」
静かに言うと、シリウス様は私の手をそっと取った。
(……温かい)
冷えきっていた指先に、じんわりと熱が広がっていく。
その温もりに導かれるようにして、私は大広間から抜け出した。
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