宵待ちカフェ開店です

真風月花

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13、先生との思い出

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 秋山には断ったけど。
 どうしても、彼のお姉さんのことが気になってしょうがない。

 わたしはよろよろと宵待荘に帰った。
 庭では、伊吹先生がブラックベリーを摘んでいた。

「もう大丈夫なの?」
「ああ、なんともない。心配かけて、済まなかったな」

 ブラックベリーは枝に棘があるから、こんなにも暑いのに先生は長袖のシャツを着ている。

「上の空だな。どうした? 秋山とやらに告白でもされたか?」

 なっ! 誰のせいだと思ってるのよ。
 先生が無駄にもてるのが、悪いんでしょ。

 わたしは麦わら帽子で、先生をバシバシと叩いた。

「おいおい。どうしたんだ?」
「なんでもない」
「攻撃しておいてなんでもない、はないだろう?」
 
 ほら、と言うと先生が摘んだばかりのブラックベリーを一粒、わたしの口に放り込んだ。
 よく熟れた黒い実は、甘みが強くて酸味が少ない。

「……おいしい」
「だろ。たくさんあるからジャムにするかな」
「先生、ジャムなんて作れないじゃない」

 なぜか伊吹先生は、ごほごほと咳きこんだ。

「もう一粒、ほしい」
「やれやれ、甘えん坊だな」
「甘えてなんかないもん」
 
 わたしの言葉に、先生は肩をすくめる。けれどその表情は、笑っていた。

(やだな。先生の笑顔が、他の女の人に向けられるの)
 
 まるで水が湧き出る泉のように、ぽこりと生まれた泡に、わたしは驚いた。
 先生のことは昔から好きだけど。でも、だからといって独占したいわけじゃなかった。
 こんな醜い思いを抱いたこともなかった。

(どうしちゃったの? わたし)
 
 先生は、黙々とブラックベリーをかごに入れていく。
 静かで、甘い香りの流れる時間。
 ただ湖の波音だけが、聞こえてくる。

「何があったかは知らんが。スタレへで毎日を過ごした方がいいぞ」
「酢、垂れ、屁? 廃れ屁?」
「うん、どういう漢字を当てはめているかは知らんが。どれも違うぞ」

 先生はしゃがみこむと、地面に石で『starehe』と書いた。
 この単語、どこかで見たことがある。

「ねぇ、どういう意味? 日本語で書いてよ」
「楽しむって意味だ」

 書くほどのことでもない、という風に先生は立ち上がった。

「ブラックベリーをジャムにして、ソーダで割ったらどうだ?」
「それ、いいかも。宵待カフェの新メニューにできるわ。ジャムは重いから、グラスの底に沈むでしょ。で、そこにそーっと静かにソーダを注ぐの。そうしたら二層になって、すごくきれいかも」

 ミントの葉を飾ったら、彩りも素敵。
 パンッと手を打つ私を見て、先生は嬉しそうに微笑んでいる。

「よかった。元気になったな」

 もしかして、励ましてくれたの?
 先生はもう一粒、ブラックベリーをくれた。
 それは夏を凝縮した味がした。


 伊吹先生のことを好きだって、自覚したのはいつだったかな。
 庭に水を撒きながら、わたしはぼんやり考えた。

 夏場は本当は朝に水やりが基本だけど。すみれさんが朝番だったし、わたしも出かけていたし、で庭の植物が萎れそうになってるの。
 暑い日は、土に含まれた水がお湯になっちゃうことがあるから気を付けないと。

――大量に水をあげると、土の温度が下がるのよー。

 以前、すみれさんが教えてくれたことを思いだしながら、ホースで水を撒いていく。
 きらめく光を受けて、小さな虹が出来た。鮮やかな橙色ののうぜんかずらから、蜂が驚いて飛んでいく。


 伊吹先生と会ったのは、わたしが保護施設から宵待荘に引き取られてすぐのことだった。
 あの頃の先生は、まだ大学生だったのかな。五歳のわたしには、分からなかったけど。

 すみれさんは、にこにこしてて。でも伊吹くん(って、当時は呼んでた。すみれさんの真似をして)は、いつも寂しそうに、ぽつんと葡萄棚の下の椅子に座ってたんだ。
 台風の水害で両親を亡くしたわたしと、同じなのかと思ってた。でも、そうじゃなかった。

 伊吹くんにはお父さんがいなくて、お母さんは恋人とどこかに行ってしまったのだと、青柳の親戚の人が言っていた。
 すみれさんには「結婚もしていないのに、友人の子を育てるなんて無茶なことを」と言い。伊吹くんには「あの母親は青柳の恥だ」と言っていた。
 
 ああ、そうか。
 まだ五歳だったのに、わたしは納得した。
 この宵待荘は、はぐれた者の集まりなんだと。

 他に行き場のない、居場所を奪われた人たちが集まるから。
 居心地が良くて、穏やかなんだ。

 親戚の人は、すみれさんに宵待荘を売却するようにと、何度も勧めていた。維持費がかかるとか、思い出に浸るのではなく前に進めとか、そんなことを言っていた気がする。
 宵待荘を手放せと言われるたびに、すみれさんはつらそうな表情を浮かべていた。

――彼らには言っても分からない。ただの友人の子どもじゃない。彼女が唯一残してくれた希望なのに。沙雪ちゃんを育てることが、わたしが生きる理由なのに。

 夜更け、母さんの写真を手に呟いていたすみれさんの横顔が、今も忘れられない。
 あんな苦しそうな表情。後にも先にも見たことがないから。
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