宵待ちカフェ開店です

真風月花

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24、もう寂しくないよ

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 夢を見た。
 わたしが、まだ保護施設にいた時のことだ。

 そこで暮らしていた子どもは、赤ん坊から中学生か高校生くらいまでだろうか。まだ五歳だったわたしには、詳しいことは分からなかったけれど。
 台風の被害は大きく、孤児の数は十人はいたと思う。

 わたしはお父さんが遺してくれた穴のない五円玉と、お母さんが遺してくれた『へんくつ博士とジャム姉さん』の絵本を、抱きしめていた。

 一人、また一人と、孤児たちは親戚に引き取られていった。
 わたしにはそんな人がいなかった。もしかしたら、捜せばいたのかもしれない。でも、子ども一人を余分に育てようと考える身内が、いなかったんだと思う。

 どんどん閑散としていく施設。
 シスターと一緒のお祈りも、とうとうわたしだけになってしまった。
 まるで、花いちもんめで、一人残っちゃったみたいに。
 誰もわたしを欲しがらない。

(さびしいよぉ)

 そう、声を殺してわたしは泣いた。
 シスターに見つかると、心配されてしまうから。教会の鐘がある塔に隠れて、泣いていた。

 そんな時だった。すみれさんが現れたのは。
 教会でも施設でも見たことのない女性に伴われて現れたのが、すみれさんだった。

『ほらね、ここにいたでしょ』

 その女性は教会の居心地が悪いのか、十字架を見ては顔をしかめ、シスターを目にしては、あっかんべーをした。
 とても奇妙な人だと思った。

 けれどわたしは、すぐにすみれさんに抱きしめられて。本当に強く……息ができないほどに強く抱きしめられて。
 他に何も見えなくなった。

『よかった。あなただけでも、生きていてくれて』

 すみれさんは泣いていた。
 大人なのに。ただ何度か会ったことのある子どもに再会しただけなのに。

『その絵本。持っていてくれたのね』
 
 ほっぺたやおでこに落ちてくるすみれさんの涙は温かくて。
 ああ、涙って人の心そのものなんだって思ったの。

 にぎやかに鳴る教会の鐘。
 いつもと同じ音なのに。その時のわたしには、祝福の鐘の音に聞こえたんだ。

 ◇◇◇

 目を覚ましたわたしは、ソファーに横たわっていた。

「えーと、救急車は」

 ぼうっとした視界に、広い背中が見える。びしょ濡れで水色のシャツが背中に張りついている。
 伊吹先生だ。
 体を起こそうとしたけれど、目まいがした。

「大丈夫か。沙雪。動くな、横になっていろ。頭を怪我してるんだ」
「なんで……大学は?」
「会議なんて出ている場合か。えーと、救急車の番号は」

 先生が電話のボタンを三度押す音が聞こえた。

『大型で強い勢力の台風は、このあと進路を変えて』
「なんで天気予報なんだよ」

 また電話のボタンを押す音。

『プ、プ、プ、ポーン。午前十一時三分三十秒をお知らせします』
「なぜだ! そうか110だ」
「それは警察。救急車は、119だよ」
「ああ、そうか」

 あまり日本にいないからなのか、それとも焦っているのかな。
 ようやく救急車の手配をすると、先生は電話を切った。

「はー、参った。タンザニアでは救急車を呼ぶときは、114なんだ。だから、その番号じゃないってのは分かるんだが」

 先生はソファーの前にひざまずくと、わたしの手を握ってくれた。

「先生の手、熱い」
「違う。沙雪の手が冷たいんだ。貧血だ。脳貧血じゃなくて、血が足りない方な。またぶっ倒れたら困るから見せないが。血まみれだったんだぞ」

 頭部は出血しやすいんだ、と先生はため息のように言った。

「どうして危ないって分かったの?」
「大学から電話しただろう? あの後、ちゃんと電話を切らない状態で、沙雪の悲鳴が聞こえたから。飛んで帰ってきた」
「まさか自転車で? 危ないよ」
「そんなわけあるか」

 先生は肩をすくめた。

「タクシーだよ」
「よかった。あんな暴風雨の中、自転車で帰って来てたら、どうしようかと思ったの。だってびしょ濡れだし」
「門から玄関に入るまでで、もうこの状態だからな。で、誰が来たんだ?」

 先生の表情は険しい。

「……大学の学生。秋山くんのお姉さんで、鏡花っていってた」
「秋山鏡花?」

 眉をひそめ、先生はしばらく考え込んでいた。

「秋山という学生には、この間話しかけられたが。そいつか」

 うーん、と先生は唸った。

「そうか、あの学生が秋山とやらの姉か。だが、ほとんど面識のない奴だぞ。学部も違うし」

 え、でも。鏡花さんは、伊吹先生のことをよく知っているような口ぶりだったけど。

 だけど、確かに辻褄の合わない部分はあった。伊吹先生は前期の講義を受け持っていないのに、授業の質問があるとか。

「で、その秋山の姉は沙雪が怪我をしているのに、何もせずに放って逃げたんだな。しかも沙雪が台風の時に窓の側に行くなど考えられない。どうせそいつが勝手に上がりこんで、何かやらかしたんだろう。千円札を投げつけてな」
「まぁ……大半は正解」
「なんで、そんなに呑気なんだ」

 ダンッ! と伊吹先生は自分の足を拳で叩いた。
 たぶん床やソファーを叩くと、私の怪我に響くから。

「もし電話がつながっていなかったら、沙雪は今も倒れていたんだぞ。俺がどれほど驚いたか」
「うん、ごめんなさい」
「謝ってほしいんじゃない。もう嫌なんだ。大事な人が去っていくのは。確かに俺は、沙雪をここに残してアフリカに行ってるさ。だから、俺をおいていくなってのは我儘だって分かってる」

 それでも……と、伊吹先生はうつむいた。
 わたしは手を伸ばして、先生の頬に触れた。
 
 髪が雨で濡れてしまっているから、毛先から水滴が落ちている。
 日焼けした肌は、意外なほど滑らかだ。

「あのね、わたしが呑気に見えるのは、伊吹先生が来てくれたからだよ。先生がいたら、きっと大丈夫だから」
「救急の電話も間違うのに?」
「そういうとこも、可愛い」

 先生は、今にも泣きそうな笑みを浮かべた。

「本当に無事でよかった」

 わたし達はもう、寂しい子どもじゃない。
 激しい風雨はまだ続いているのに、まるで光の粒が降っているように感じた。
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