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第十一話
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乳母の娘はどうやら極度の人見知りらしい。
びしょ濡れの己の着物を見下ろしながら、そうに違いないと、ゼンは一人で納得した。
「もももも申し訳ございません!」
「いや、急に横から声をかけた俺も悪かったから」
娘はオルが用意した薬湯を椀に淹れ、イリの前に置こうとしていたのだ。
薬湯の匂いに惹かれたゼンが横から身を乗り出して、何の薬なのかと問うたから、娘は悲鳴を上げんばかりに驚いてしまい、椀をゼンの胸元にひっくり返してしまった、というのが事の顛末だった。
娘は小さくなり、畳に額をこすりつけんばかりに平伏している。
どうしたものかと彼女の主人たるオルを見やると、彼は苦笑した。
「不調法をお許しください。ゼン様が神であるということは、この娘にも伝えていたので……」
なるほど、そっちか。神への畏怖が原因で湯をかぶることになろうとは、さすがにゼンも思っていなかった。
新しい薬湯を用意するためにオルは立ち上がる。
「カサギ、ゼン様に着替えを」
「すすすぐに、すぐにお持ちいたしますっ」
言葉通り脱兎のごとく戻ってきた娘は、仕立てたばかりであろう真新しい着物を手にしていた。
「申し訳ございません。この家に殿方はオル様しかおらず、すぐに用意できる着物はこちらしかございません」
「うん? べつに何でもいいけど……」
「ゼン様。身頃がずいぶんと違うようですわ」
絶望的な顔をする娘を見かねたのか、隣からイリが口をはさんだ。
「あー、オルは背が高いからなあ」
「申し訳ございません」
「きみが謝ることじゃないだろ。いいよ、それ貸して」
「お手伝いいたします」
「着替えくらい一人でできるって」
「神のお手を煩わせるわけには」
「はいはい、わかりました。わたくしがゼン様のお着替えをお手伝いいたします。それでよろしいですわね?」
イリはにこりと笑って言い合う二人の間に割って入ると、有無を言わさずゼンの腰帯を解いた。昨夜も感じたが、彼女はなぜか指の力が非常に強い。
「さ、そなた、それを取って頂戴」
「御意」
「まあ、丁寧な織りの仕事をしているわね。仕立ても綺麗。そなたが織ったものだな?」
「いいえ、恥ずかしながら、我が母が織ったものでございます」
「そうか。問われたらそう言えと、兄上や、そなたの母君から言われているのか…」
返答に窮するカサギをよそに、イリは手慣れた様子でゼンに新しい着物を着つけてゆく。
指摘されたように身頃が違うので、その分だけ腰元に布が余っているが、それはもうご愛嬌だろう。この屋敷と同様、決して上質ではないが、細部まで手の行き届いた良い品だった。
ふと袖にある紋様に目が留まる。
花弁が五つ、そして四つの花が、交互に組み合わさっている。相手の幸せを願うという意を持つもので、市井でもよく見かける伝統的な意匠だ。
ゼンの仕上がりに満足すると、イリはカサギに向き直った。
「良い着物を仕立てられる娘は良い妻になるもの。兄上がそなたを妾に望んだとしても、なんら不思議はないであろう。神も、そなたが機を織っている姿をご覧になられたと仰っておられる」
「申し訳ございません。あの、私はっ」
「それとも何か。神が嘘を吐いているとでも申すのか?」
「えっ、俺は確かに織ってるところを見たけどな……あ、ごめん」
カサギの顔色が真っ青だ。小刻みにぷるぷる震えて、目には涙まで浮かべている。
神の言葉を否定できない彼女にとって、ゼンの言葉は決定打だったらしい。
ゼンはますます居た堪れない。
「あのさ、機を織るって、そんなにいけないことなのか?」
「年頃の殿方の着物を織るのは、伴侶の役目と決まっています。王族の衣装作りを任された職人が仕立てたものではなく、この娘が織った布で仕立てたものを兄上が着ているということは、つまりはすでに兄上のお手付きだということです。まったくもう、ご自分のお立場というものをわかっておられるのかしら」
イリは膝をつき、カサギと視線を合わせると、そっと彼女の手を取った。
「そなたが望むのなら、わたくしがここから逃がしてやろう」
「……?」
「乳兄弟というだけで、罪人でもないのに、このように外界から閉ざされ、自由に外に出ることもできないような場所で、望まぬ相手を伴侶にするしかないなど、そなたのように働き者で気立てが良い娘には酷い話だ。母君とは離れてしまうことになるだろうが、それでも良いならば、そなたの新しい住まいと働き口を与えることくらい、わたくしにもできる。王族とは無関係の、平穏な暮らしが欲しくはないか?」
カサギは大きく目を見開き、呆然とした様子のまま、勿体ないお言葉です、と消え入りそうな声で呟いた。
細く、荒れた掌がかすかに震えている。
イリは嘆息すると、静かに立ち上がった。
「いつでも良い。その気になったらお言い」
「……勿体無いお言葉。姫様がわたくしのような下賤の者にまで御心を砕いてくださいましたこと、生涯忘れません」
告げる声はやはり小さかったが、イリはしかと聞き取ったらしい。花がほころぶようにふわりと微笑んだ。
びしょ濡れの己の着物を見下ろしながら、そうに違いないと、ゼンは一人で納得した。
「もももも申し訳ございません!」
「いや、急に横から声をかけた俺も悪かったから」
娘はオルが用意した薬湯を椀に淹れ、イリの前に置こうとしていたのだ。
薬湯の匂いに惹かれたゼンが横から身を乗り出して、何の薬なのかと問うたから、娘は悲鳴を上げんばかりに驚いてしまい、椀をゼンの胸元にひっくり返してしまった、というのが事の顛末だった。
娘は小さくなり、畳に額をこすりつけんばかりに平伏している。
どうしたものかと彼女の主人たるオルを見やると、彼は苦笑した。
「不調法をお許しください。ゼン様が神であるということは、この娘にも伝えていたので……」
なるほど、そっちか。神への畏怖が原因で湯をかぶることになろうとは、さすがにゼンも思っていなかった。
新しい薬湯を用意するためにオルは立ち上がる。
「カサギ、ゼン様に着替えを」
「すすすぐに、すぐにお持ちいたしますっ」
言葉通り脱兎のごとく戻ってきた娘は、仕立てたばかりであろう真新しい着物を手にしていた。
「申し訳ございません。この家に殿方はオル様しかおらず、すぐに用意できる着物はこちらしかございません」
「うん? べつに何でもいいけど……」
「ゼン様。身頃がずいぶんと違うようですわ」
絶望的な顔をする娘を見かねたのか、隣からイリが口をはさんだ。
「あー、オルは背が高いからなあ」
「申し訳ございません」
「きみが謝ることじゃないだろ。いいよ、それ貸して」
「お手伝いいたします」
「着替えくらい一人でできるって」
「神のお手を煩わせるわけには」
「はいはい、わかりました。わたくしがゼン様のお着替えをお手伝いいたします。それでよろしいですわね?」
イリはにこりと笑って言い合う二人の間に割って入ると、有無を言わさずゼンの腰帯を解いた。昨夜も感じたが、彼女はなぜか指の力が非常に強い。
「さ、そなた、それを取って頂戴」
「御意」
「まあ、丁寧な織りの仕事をしているわね。仕立ても綺麗。そなたが織ったものだな?」
「いいえ、恥ずかしながら、我が母が織ったものでございます」
「そうか。問われたらそう言えと、兄上や、そなたの母君から言われているのか…」
返答に窮するカサギをよそに、イリは手慣れた様子でゼンに新しい着物を着つけてゆく。
指摘されたように身頃が違うので、その分だけ腰元に布が余っているが、それはもうご愛嬌だろう。この屋敷と同様、決して上質ではないが、細部まで手の行き届いた良い品だった。
ふと袖にある紋様に目が留まる。
花弁が五つ、そして四つの花が、交互に組み合わさっている。相手の幸せを願うという意を持つもので、市井でもよく見かける伝統的な意匠だ。
ゼンの仕上がりに満足すると、イリはカサギに向き直った。
「良い着物を仕立てられる娘は良い妻になるもの。兄上がそなたを妾に望んだとしても、なんら不思議はないであろう。神も、そなたが機を織っている姿をご覧になられたと仰っておられる」
「申し訳ございません。あの、私はっ」
「それとも何か。神が嘘を吐いているとでも申すのか?」
「えっ、俺は確かに織ってるところを見たけどな……あ、ごめん」
カサギの顔色が真っ青だ。小刻みにぷるぷる震えて、目には涙まで浮かべている。
神の言葉を否定できない彼女にとって、ゼンの言葉は決定打だったらしい。
ゼンはますます居た堪れない。
「あのさ、機を織るって、そんなにいけないことなのか?」
「年頃の殿方の着物を織るのは、伴侶の役目と決まっています。王族の衣装作りを任された職人が仕立てたものではなく、この娘が織った布で仕立てたものを兄上が着ているということは、つまりはすでに兄上のお手付きだということです。まったくもう、ご自分のお立場というものをわかっておられるのかしら」
イリは膝をつき、カサギと視線を合わせると、そっと彼女の手を取った。
「そなたが望むのなら、わたくしがここから逃がしてやろう」
「……?」
「乳兄弟というだけで、罪人でもないのに、このように外界から閉ざされ、自由に外に出ることもできないような場所で、望まぬ相手を伴侶にするしかないなど、そなたのように働き者で気立てが良い娘には酷い話だ。母君とは離れてしまうことになるだろうが、それでも良いならば、そなたの新しい住まいと働き口を与えることくらい、わたくしにもできる。王族とは無関係の、平穏な暮らしが欲しくはないか?」
カサギは大きく目を見開き、呆然とした様子のまま、勿体ないお言葉です、と消え入りそうな声で呟いた。
細く、荒れた掌がかすかに震えている。
イリは嘆息すると、静かに立ち上がった。
「いつでも良い。その気になったらお言い」
「……勿体無いお言葉。姫様がわたくしのような下賤の者にまで御心を砕いてくださいましたこと、生涯忘れません」
告げる声はやはり小さかったが、イリはしかと聞き取ったらしい。花がほころぶようにふわりと微笑んだ。
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