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第十話
しおりを挟む「ゼン様、助けて!」
突然、背後からやわらかな腕が抱きついてきた。
腕を上げて腰元をのぞくと、アガリエと瓜二つの顔がこちらを見上げていた。
「イリ? どうした?」
「助けて!」
この双子は声まで似ている。アガリエの声と重なるようで、ゼンは戸惑った。
アガリエは傍にいない。墓地から城へ戻ってくるなり女官に囲まれ、禊をするべく連れていかれた。外界の穢れを祓うとか、神嫁として清い身を保つためとかなんとか。
ただちょっと城の外を歩いてきただけだ。そこまでする必要もないのでは、と思ったものの、女官たちの気迫に押され、反論する余裕もなかった。
ちなみに本来はゼンも禊を行なわなければならないらしいのだが、面倒だと散々駄々をこねて回避してきたところだった。こういう時ばかりは神で良かったと思う。
ふと殺気を感じて首をひねり、イリが走ってきた方を見やる。
廊下の角を年嵩の神女が数人追いかけてきた。鬼のような形相だ。
「な、なんだ?」
「早く早く、わたくしをつれて逃げてくださいまし!」
ゼンは急かされるままにイリの膝裏に手を入れ、彼女の体を横抱きにすると、そのまま庭に飛び降りた。
腕の中のイリからも背後からも悲鳴があがるが些末なことだ。ひとまずこの場を離れようと、ゼンは屋根の上に跳躍した。
二人分の体重を支えた赤瓦が軋む。もともと瓦は重いものを支えるためにあるものではない。一か所に留まると危険そうだ。ゼンは隣の建物に飛び移り、さらに人気がない方へと走った。
王城は南北に細長い。
南側は政などを行う宮が集まり、北側には王族の住まい、そしてその外周を覆うようにして月神女が治める斎場が広がっている。
しかしその間には小さな森や幾重にも連なる石垣があるので、新参者のゼンには敷地の境界が分かりづらい。背後にある一番大きな宮――王が日頃執務や謁見をこなしている場所であろう――を目印にして、ようやく自分が敷地の北側から外には出ていないのだと把握する程度には、迷子だ。
イリが音を上げたのは、どちらへ行こうかと逡巡し始めた時のことだった。
「ゼ、ゼンさま。わたくし、気持ちが悪いです……」
「ええっ、なんで?」
「こんなに上下に揺さぶられながら移動したことなんてないんですもの。ううっ」
「待って待って、そこの森に降りるから!」
石垣の向こうに鬱蒼と茂る森が見えた。あそこなら追っ手も撒けるだろう。
地面に下ろすなりイリは倒れこんだ。口元を押さえ、うう、だの、おえ、だのと苦しそうに唸っている。
アガリエだったらこんなふうに弱ってる姿、意地でも俺には見せないだろうなあ。……もっと頼ってくれていいのに。
双子だからか、ゼンはどうしてもアガリエとイリを比べてしまう。
イリはなかなか復活しない。
「あのさ、水もらってくるから、しばらくここで待っててくれる? 一人でも大丈夫?」
無言で頷くイリに、ゼンもいよいよ本気で心配になってきた。
まさかあの程度のことでここまで衰弱するとは、人の女の子はずいぶん弱い生き物らしい。
木の枝に飛び乗り、枝葉の向こうに目を凝らす。
森の隣には畑が広がっていた。その中にぽつりと家屋らしきものが見える。周囲を覆う防風林が邪魔でよく見えないが、開け放たれた縁側の様子からして、誰か居そうだ。
畳敷きの居間では、若い娘がひとりで機織りをしていた。
ちょうど良い。ゼンは縁側に身を乗り出し、くだんの娘の声をかけた。
「あの、ごめん。急に押しかけて。あのさ、ちょっと気分が悪いって言ってる子がいてさ。水をもらえないかな?」
「えっ、あの、え?」
「水をください」
ただ今、と何かに打たれたように娘が家の奥へと駆けていく。
さほどもしないうちに娘は戻ってきたが、よほど動転しているのか、彼女が持ってきたのは大きな水桶だった。おそらく台所に置いてあったものをそのまま持ってきたのだろう。溢れんばかりの水がたぷたぷと波打っている。
「……まあ、いっか」
「あのっ、今朝汲んできたばかりですので新鮮でございます。しばしお待ちくださいまし、いま水瓶もお持ちいたします。それからオル様をお呼びいたします」
「えっ、オル? ……ああ、ここはオルの屋敷なんだ?」
どうやらマヤーを手当てしてもらった小屋ではなく、母屋の方にたどり着いたらしい。
「オル様は畑におられます。すぐにお呼びいたします」
「ちょっと急いでるから、あとでいいや。薬があれば欲しいんだけど、きみは薬のことは……うん、わかった。大丈夫」
皆まで聞かずとも、瞬時に真っ青になった娘の反応で、彼女がオルと違い薬に疎いことがわかった。
ゼンは礼もそこそこに、水桶を抱えて来た道を戻った。
森も広かったが畑も充分広い。それにしては平屋の家屋だけが不釣り合いなほど小さく、古びているのが気にかかった。思い返せばオルの傍には先程の娘ともう一人、マヤーの手当てを手伝ってくれた初老の女以外、仕えている者の姿もない。
道中じっと目を凝らしてみたが、見る限りオルの姿はなかった。
「イリ、水もらってきたよ」
生い茂る木々を抜け、ようやくイリの元へ辿り着く。
水桶を見るなり彼女の表情はさらに白くなった。
「わたくしにどうしろと……?」
「口をすすいで、まあ、これだけあるから顔も洗っちゃえば」
「いやです!」
「はいはい、ほら口開けてー」
「いやー!」
拒絶する声は威勢が良いが、やはり具合が悪いらしい。身をよじってゼンから逃げようとするも、途中で力尽きて、また蹲った。しまいには、しくしくとすすり泣きのようなものまで聞こえてくる。
どうやら気に喰わないようだ。
しかし何がそこまで嫌なのか、ゼンにはさっぱり理解できない。
ともあれこれ以上騒ぐと余計に悪化しそうだ。何かないかと袖や胸元を探り、手拭いを見つけた。地面に置いた水桶に浸して軽くしぼり、イリの額に押しつけると、ようやくお気に召したらしい。
イリは静かに手拭いを受け取り、ほう、と溜息を吐いた。
「ゼン様は女性の扱いが、全くもって、絶望的に、なっておりません。分別のある女は外で顔を洗ったりはしないものです」
「そうなの? そういうの、よくわかんないんだけど。俺、傍に姉弟子しか女の人いなかったから」
木の根元に座り直したイリの隣に、ゼンも腰を下ろす。
「姉弟子とはどういうことですか? 神なのに弟子なのですか?」
「神っていうか……、まあ、そういうものなんだよ」
神ではなくマナ使いだと訂正しようとして、思いとどまった。
マナ使いの情報を教えたところで、イリがそれを悪用するようには思えない。きっとイリは見たまま、裏表のない良い子だろう。けれど第二王子にマヤーの生態について話してしまい、反省したばかりだ。
とにかくここは穏便に話を流しておこう。
「人と同じで、俺たちだって最初から何でもかんでも一人でできるわけじゃない。師について色々教わって修行して、みんなに認められて、ようやく一人前になる。でもまあ、俺らの姉弟子はかっこいいけど、どっちかっていうと男勝りな人だったからなあ。気分が悪いなんて言われたことどころか、弱ってるところも見たことないし、なんでも一人でこなしちゃうんだよな」
「では是非そういう場面に出くわしたら、せめて水桶ではなく椀を用意してさしあげてくださいね」
「いや、俺はべつに椀でよかったんだけど、オルのところの娘さんが、桶ごとくれたんだよね」
「……ああ、オル兄上の乳兄妹ですわね。兄上のお傍には乳母と、その娘しかおりませんから、きっとそうでしょう」
「この広い敷地で? 三人だけ?」
「はい。兄上の生母はすでに亡くなっておられますし、何より廃嫡に近い身の上ですから、兄上に仕えていても何の得にもなりませんもの。心無い仕打ちと思われるかもしれませんが、要らぬ争いを避けるためにも、致し方ないことかと」
オルを支持する者たちもいるとアガリエは言っていたようだが、違うのだろうか。
はた、とイリの動きが止まった。眉間の皺が深くなる。
「ここはオル兄上の屋敷なのですか? いやだ、大変! すぐに外へ出ないと……」
「え? なんで?」
「オル兄上の屋敷にいるところなど誰かに見られようものなら、謀反を企んでいるのではないかと疑われてしまいます。この城でオル兄上に近づくなど、父王や二の兄上に反意があるとしか考えられませんもの」
「ああ、なるほど。表立って近づく者はいないけど、秘密裏に動く者たちはいるんだな。まあ、もう手遅れみたいだけど」
「ゼン様! ……アガリエ様?」
木々の向こうからオルが駆けてくる。小脇には薬草が入った笊を抱えていた。
「家人からゼン様が急病人を連れているらしいと聞いてきたのですが……、アガリエ様のことでしたか。気分でも悪いのですか?」
「少し立ちくらみがしただけです。もう平気ですわ。お騒がせいたしました」
どうやらイリはアガリエのふりをすることにしたらしい。そうまでしてオルと接触した事実を伏せたいのか。
ゼンからしたらアガリエとイリは一見瓜二つでも、それぞれ表情やしぐさに特徴があるので見分けがつくのだが、長く離れて暮らしていたせいか、オルは彼女がイリであることに気づかない。そうか、と妹の返答に安堵して、胸をなでおろした。
「ともかく私の屋敷へ。薬湯を用意しましょう」
オルは踵を返す。
固辞しようとするイリを、その方が怪しいからとなだめ、また彼女を横抱きにしてゼンもオルの後に続いた。
「あのさ。機織りしてた娘から、オルは畑にいるって聞いてたんだけど」
「はい。畑の一角で薬草を育てておりまして、今朝から採集に」
オルは笊を持ち上げ、中に入っている薬草を指し示す。
そっか、と相槌を打って、ゼンもそれ以上は何も言わず、よく耕された畑の畦道を歩いた。
彼が採集したという薬草は、どれも岩陰にしか生息しない種ばかりだった。
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